5分でわかる19世紀の美術
19世紀の美術を一言でいうと、「絵が宮廷とアカデミーの外へ出ていった時代」です。1800年ごろの主な画家は、王や教会、国家の展覧会(サロン)のために、歴史・神話・宗教の場面を描いていました。ところが1900年には、画家は画商や中流階級の収集家に作品を売り、畑、カフェ、鉄道の駅を描き、「芸術とは何のためにあるのか」を公然と議論するようになっていました。
変化を押し進めた力は、大きく四つあります。第一に、1789年から1848年にかけて続いた革命が、政治そのものを画家の題材にしました。第二に、産業革命が、お金を持つ新しい中流階級と、描くべき新しい都市の風景を生みました。第三に、技術です。1841年に金属製の絵の具チューブが特許になり、画家は絵の具を屋外へ持ち出しやすくなりました。1839年には写真(ダゲレオタイプ)が発表され、「そっくりに写す」仕事は画家だけのものではなくなりました。第四に、貿易と帝国の広がりで、日本の浮世絵など、ヨーロッパの人々が見たことのない美術が入ってきました。
このページは、1700〜1918年の世界史シリーズのうち「文化と芸術」をまとめるハブです。作品の背景にある考え方は19世紀を形づくった思想で、時代の終わりは第一次世界大戦のページで読めます。
新古典主義とロマン主義(1780年代〜1850年ごろ)
最初の流れは新古典主義です。フランスのジャック=ルイ・ダヴィッドが1784年に描いた『ホラティウス兄弟の誓い』は、古代ローマの市民が家族より義務を選ぶ場面を、くっきりした線と舞台のように整った構図で見せました。ダヴィッドはのちにナポレオンに仕える画家になります。
これに対して、理屈より感情、秩序より自然や個人の体験を重んじたのがロマン主義です。スペインのゴヤは『1808年5月3日』(1814年)で、フランス軍に銃殺されようとする市民を、英雄ではなくおびえた一人の人間として描きました。フランスのジェリコーは『メデュース号の筏』(1819年)で、1816年に実際に起きた船の遭難事件を巨大な画面にして、大きな話題と批判を呼びました。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』(1830年)は、同じ年の七月革命を題材にしています。イギリスではターナーとコンスタブルが空や天気、光の移ろいを描き、ドイツではカスパー・ダーヴィト・フリードリヒが、広大な風景の前に立つ一人の人間を描きました。
同じ空気は音楽や詩にもありました。ベートーヴェンの交響曲第9番は1824年に初演され、バイロンの詩は、落ち着かない心をもつロマン主義的な主人公像をヨーロッパ中に広めました。
写実主義(1840年代〜1870年ごろ)
1848年の革命のあと、多くの画家は理想化された英雄より、目の前の現実を描くようになります。クールベの『石割り人』(1849年)は、道ばたで働く二人の労働者を、ほぼ実物大で描きました。それまで歴史画にふさわしいとされた大きさを、名もない労働者に使ったことが衝撃でした。クールベは1855年のパリ万国博覧会のそばに自分の個展を開き、「写実主義館」と名づけました。ミレーの『落穂拾い』(1857年)は貧しい農村の女性たちを描き、ドーミエは新聞の風刺画で政治を批判しました。
文学でも、フローベールの『ボヴァリー夫人』(1857年)やディケンズの小説が、ふつうの人の生活を細かく描きました。そして1839年に発表された写真が広まるにつれ、顔や風景を正確に残す役目は少しずつ写真に移ります。画家は「カメラにはできないこと」、つまり光の印象や気分、ものの見方そのものを探す方向へ進みました。
ジャポニスム:日本がヨーロッパの絵画を変えた
1854年の日米和親条約のあと、日本の港が開かれ、浮世絵や工芸品が少しずつヨーロッパへ渡りました。1867年のパリ万国博覧会には日本も出品しています。大胆な構図の切り取り、平らな色面、はっきりした輪郭は、西洋の遠近法や陰影に慣れた画家たちには新鮮でした。この流行をジャポニスムといいます。モネは浮世絵を集め、ゴッホは1887年に歌川広重の作品を油絵で模写しました。ホイッスラーも日本風の構図を取り入れています。葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』(1831年ごろ)は、いまも世界でもっとも知られた日本の版画の一つです。
影響は逆向きにも流れました。1868年に明治が始まると、日本は西洋の油絵を学びはじめます。1876年には東京に工部美術学校が開かれ、イタリア人の教師も教えました。のちに黒田清輝が1884年からパリで学び、1893年に帰国して、屋外の明るい光を描く外光派の方法を日本に伝えます。19世紀は、東と西が互いに学びあった時代でもありました。
印象派(1870年代〜1880年代)
印象派への道は、パリの公式展覧会サロンの審査から始まります。1863年、落選作があまりに多く抗議が起きたため、皇帝ナポレオン3世は「落選展」の開催を認めました。ここに出たマネの『草上の昼食』は大きな議論を呼びました。
そして1874年4月、モネ、ルノワール、ピサロ、ドガ、モリゾ、シスレーらが、サロンとは別に自分たちの展覧会をパリで開きます。会場は、写真家ナダールがかつて使っていたスタジオでした。批評家がモネの『印象、日の出』(1872年)をからかい、そこから「印象派」という名前が定着します。グループ展は1886年までに8回開かれ、アメリカ出身のメアリー・カサットは1879年から加わりました。
印象派の方法は、言葉にすると単純です。屋外で描くこと、短い筆づかいを重ねること、そして「物の本当の色」ではなく「光の下で見える色」を写すことです。光の変化を捉えるため、モネは同じ積みわらや大聖堂を、時間や季節を変えて何枚も描きました。
19世紀の絵画のその後:ポスト印象派と世紀末(1880年代〜1900年)
印象派のあと、画家たちはそれぞれ別の道に進みました。まとめて「ポスト印象派」と呼びます。スーラは『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(1884〜86年)で、小さな色の点を並べる点描の方法を試しました。セザンヌは自然を円筒や球のような基本の形で捉えなおし、のちのキュビスムにつながる考え方を示しました。ゴッホは1889年、サン=レミの療養院に滞在中に『星月夜』を描き、ゴーギャンは1891年からタヒチに渡って、強く平らな色の絵を描きました。ムンクは1893年に『叫び』の最初の版を描いています。
デザインでは、1890年代に植物のような曲線をもつアール・ヌーヴォーが広まりました。1889年のパリ万国博覧会に合わせて完成したエッフェル塔は、鉄とガラスが新しい時代の美しさになりうることを示しました。
絵画の外へ:建築・音楽・美術館
1851年のロンドン万国博覧会の会場、水晶宮(クリスタル・パレス)は、鉄とガラスでできた巨大な建物で、工業の力を象徴しました。美術館も広がります。ルーヴルは1793年に公開の美術館となり、ニューヨークのメトロポリタン美術館は1870年に設立されました。音楽ではショパン、ヴェルディ、ワーグナーが活躍し、ワーグナーの『ニーベルングの指環』は1876年にバイロイトで全曲が初めて上演されました。
なぜ重要か:ベル・エポックと1914年への道
「ベル・エポック(美しい時代)」は、おもに1890年代から1914年までのフランスなどを、のちに振り返って呼ぶ言葉です。カフェ、ポスター、万国博覧会、新しい芸術が花開いた時代でした。しかしその裏で列強の対立は固まりつつあり、1914年に世界は戦争に入ります。その経緯は第一次世界大戦(1914〜1918年)のページで読めます。美術では、次の世代のキュビスムなどがセザンヌやゴッホから学び、「見えるとおりに描く」ことからさらに離れていきました。
試験に出るポイント
共通テストの世界史では、作品や画家を、流派・国・時代と結びつけて問われます。次の組み合わせを基本に押さえましょう。
- 新古典主義:ダヴィッド。秩序と古代ローマの義務、革命とナポレオンの時代。
- ロマン主義:ゴヤ(スペイン)、ジェリコー、ドラクロワ(フランス)、ターナー(イギリス)。感情・自然・政治。
- 写実主義:クールベ、ミレー。1848年の革命のあと、労働者や農民を真剣な大きさで描いた。
- 印象派:モネ、ルノワール、ドガ、モリゾ。光、屋外での制作、1874年からの独立した展覧会。
- ポスト印象派:セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、スーラ。印象派のあとの、個人の見方の追求。
- 背景:写真、絵の具チューブ、中流階級の美術市場、万国博覧会、ジャポニスム。
流れの順番は、新古典主義、ロマン主義、写実主義、印象派、ポスト印象派です。時期は重なるので、年代は「約」で覚えましょう。論述では、「写真の発明で正確に写す必要が減り、画家が印象や表現を探すようになった」のように、原因と結果をつなげて書くと得点しやすくなります。
次に読む
- 1700〜1918年の世界史:この画家たちを取り巻く、革命・産業・帝国・戦争の全体像です。
- 19世紀を形づくった思想:自由主義、社会主義、民族主義、ダーウィンなど、芸術の背景にある考え方です。
- 第一次世界大戦(1914〜1918年):華やかなベル・エポックがどう終わったかを読めます。