5分でわかるロシア帝国
ロシア帝国は、1721年から1917年まで続いた国で、そのあいだずっとロマノフ朝の皇帝が治めました。始まりは、北方戦争でスウェーデンに勝ったピョートル1世(大帝)が「皇帝(インペラートル)」の称号を受けたことです。終わりは、第一次世界大戦(第1次世界大戦)のさなか、1917年3月にニコライ2世が退位したことでした。そのあいだにロシアはナポレオンを打ち破り、黒海・カフカス・中央アジア・太平洋岸へと領土を広げ、ヨーロッパの大国の一つになりました。
ただし、国の土台は最後まで皇帝の専制と農奴制でした。上には近代的な軍隊と宮廷、下には貧しい農民の大海原、という「上と下のずれ」がこの国の歴史をつらぬく軸です。戦争に負けるたびに改革が始まり、改革が人びとの期待をふくらませ、その期待に皇帝が応えない。このくり返しが、最後の革命につながりました。このページは世界史1700〜1918年のまとめの一部で、個別の出来事のページへ進む前の全体図です。
日付についての注意:ロシアは1918年まで古いユリウス暦を使っており、19世紀には西ヨーロッパより12日、20世紀には13日遅れていました。1917年の「二月革命」が西暦では3月に起きたのはこのためです。このページでは、とくに断りがなければ西暦(グレゴリオ暦)で書いています。
ロマノフ朝はどのように帝国をつくったか
ロマノフ朝が始まったのは1613年です。「動乱時代」と呼ばれる混乱のあと、全国会議が若いミハイル・ロマノフをツァーリに選びました。当時のモスクワ国家は広いものの、バルト海はスウェーデンに、黒海はオスマン帝国とその味方のクリム・ハン国におさえられ、冬でも凍らない港をほとんど持っていませんでした。
これを変えようとしたのがピョートル1世(在位1682〜1725年)です。1697〜1698年には大使節団にまぎれて西ヨーロッパを回り、造船所や工房を自分の目で学びました。帰国後は軍隊を西欧式に作り直し、海軍をつくり、1703年にはスウェーデンから奪った湿地に新しい都ペテルブルクを建て始めます。1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデン軍を破り、1721年のニスタット条約でバルト海沿岸を手に入れました。こうして元老院から「皇帝」の称号を受け、ロシア帝国が名実ともに生まれたのです。東では、1689年のネルチンスク条約と1727年のキャフタ条約で清との国境を定めています。
ピョートルは国のしくみも変えました。1722年の官等表は、貴族の身分を軍や役所での働きと結びつけました。戦費は男性の農民一人ひとりにかける人頭税でまかないました。ただしその代償は大きく、ペテルブルクの建設には多くの農民が強制的に動員され、農民はそれまで以上に領主にしばりつけられました。上は西を向き、下では農奴制が固まる、という形がここで決まります。
女帝の時代と領土の拡大(1725〜1801年)
ピョートルの死後は、都の近衛連隊が皇帝を立てたり倒したりする宮廷クーデタの時代になりました。18世紀の大半は女帝が国を治め、なかでも長く在位したのがエリザヴェータ(1741〜1762年)とエカチェリーナ2世(1762〜1796年)です。ドイツ出身のエカチェリーナは、1762年に夫ピョートル3世を退けて即位しました。
エカチェリーナ2世はヴォルテールと手紙をかわした啓蒙専制君主として知られますが、実際には貴族による農奴の支配をさらに強めました。1773〜1775年には、コサックのプガチョフが率いるロシア史上最大級の農民反乱が起き、軍に鎮圧されています。対外的には大きな成功を収め、オスマン帝国との戦争で黒海北岸を獲得し、1783年にクリミア半島を併合しました。またプロイセン・オーストリアとともに3回のポーランド分割(1772年・1793年・1795年)を行い、ポーランドを地図から消しました。1792年には使節ラクスマンを根室に送り、日本に通商を求めています。
1812年と「ヨーロッパの憲兵」(1801〜1855年)
アレクサンドル1世(1801〜1825年)の時代、1812年6月にナポレオンが大軍を率いてロシアに攻めこみました。ロシア軍は後退しながら9月にボロジノで激しく戦い、モスクワを明け渡しました。モスクワは大火に包まれ、講和も得られないまま冬が近づいたため、フランス軍は退却します。寒さと飢え、コサックの追撃で大軍はほぼ崩れました。1814年にはロシア軍がパリに入りました。ウィーン会議でロシアはポーランドの大部分を手に入れ(フィンランドは1809年に獲得ずみ)、アレクサンドル1世は君主どうしの神聖同盟を呼びかけました。
ヨーロッパを見てきた若い将校たちは、憲法のある国を望むようになります。1825年12月、アレクサンドル1世の死後の混乱をついて、彼らは首都の元老院広場に兵を集めました。これがデカブリスト(十二月党員)の乱で、1日で鎮圧されました。次のニコライ1世(1825〜1855年)は秘密警察と検閲で国内をおさえ、1830〜1831年のポーランドの蜂起を鎮め、1849年にはハンガリーの革命をつぶすためにオーストリアへ軍を送りました。こうして「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれるようになります。同じ1849年には、若い作家ドストエフスキーも思想サークルに加わった罪で逮捕され、銃殺刑の直前に減刑されてシベリアの監獄に送られました。
クリミア戦争と大改革(1853〜1881年)
不凍港と地中海への出口を求めて南へ進むロシアの動きを、南下政策といいます。弱っていくオスマン帝国をめぐる争い(東方問題)のなかで、この動きがクリミア戦争(1853〜1856年)を引き起こしました。イギリス・フランス・オスマン帝国(のちにサルデーニャも参加)がセヴァストーポリ要塞を約1年かけて包囲し、ロシアは敗れます。南へ兵を運ぶ鉄道もなく、銃も古く、農奴を兵士にした軍隊では工業国に勝てないことがはっきりしました。1856年のパリ条約で、黒海は中立化されました。
敗戦を見たアレクサンドル2世(1855〜1881年)は、「下から崩れる前に上から変える」道を選びます。1861年の農奴解放令で、2,000万人をこえる領主農奴が人格的な自由を得ました。ただし土地は有償で、農民は49年かけて代金を払わねばならず、手に入る土地はそれまで耕していたより少ないことが多く、村の共同体ミールにもしばられたままでした。続いて1864年には地方自治機関ゼムストヴォと陪審制の裁判所、1874年には国民皆兵の兵役制度がつくられました。
領土の拡大も続きます。清と結んだ1858年のアイグン条約と1860年の北京条約で沿海州などを得て、ウラジヴォストークを築きました。1865年にはタシケントを占領し、中央アジアのハン国を次々に支配下に置きます。1867年にはアラスカを720万ドルでアメリカに売りました。1877〜1878年の露土戦争に勝ってサン=ステファノ条約を結びましたが、ベルリン会議で成果の多くをけずられ、南下はふたたび止められました。
改革は期待をふくらませましたが、満たしはしませんでした。1874年、学生たちは「ヴ・ナロード(人民の中へ)」をかかげて農村に入りましたが、農民には受け入れられず、多くが逮捕されます。このナロードニキの一部は「人民の意志」派というテロ組織になり、1881年3月、アレクサンドル2世は首都で爆弾により暗殺されました。この時代の、貧しさと新しい思想がうずまくペテルブルクを舞台にした小説が、ドストエフスキーの『罪と罰』(1866年)です。
工業化と弾圧、そして1905年革命
アレクサンドル3世(1881〜1894年)は改革を後もどりさせ、警察を強め、ポーランド人など帝国内の諸民族にロシア語とロシア文化を押しつけるロシア化政策を進めました。ユダヤ人への迫害(ポグロム)が広がったあとには、ユダヤ人を制限する法律も強められました。その一方で、国は急速な工業化を進めます。財務大臣ウィッテはフランスを中心とする外国資本を呼びこみ、1897年に金本位制を取り入れ、1891年に着工したシベリア鉄道の建設を推し進めました。1894年には露仏同盟も結ばれています。工場とともに労働者が増え、1898年にはマルクス主義のロシア社会民主労働党ができ、1903年にレーニンのボリシェヴィキとメンシェヴィキに分かれました。
最後の皇帝ニコライ2世(1894〜1917年)は専制を固く信じていました。満洲への進出は日本との対立を生み、1904年に日露戦争が始まります。ロシアは旅順を失い、奉天会戦に敗れ、1905年5月の日本海海戦では地球を半周してきたバルチック艦隊を失いました。国内では1905年1月、司祭ガポンに率いられて請願に向かった労働者の行進に軍が発砲する血の日曜日事件が起きます。ストライキ、農民の反乱、戦艦ポチョムキンの反乱が続き、労働者の評議会ソヴィエトも生まれました。追いつめられたニコライ2世は、9月にポーツマス条約で日本と講和したあと、10月には十月宣言で市民的自由と国会(ドゥーマ)の開設を約束しました。
しかし譲歩は中途半端でした。1906年の国家基本法は軍や大臣を動かす皇帝の力を残し、皇帝ははじめの二つのドゥーマを解散しています。首相ストルイピンは反乱を厳しく取りしまる一方、農民がミールをぬけて自分の農地を持てる改革を進めましたが、1911年にキエフで暗殺されました。
第一次世界大戦と帝国の崩壊(1914〜1917年)
1907年の英露協商で三国協商の一員となっていたロシアは、1914年8月、セルビアを支えて第一次世界大戦に加わりました。開戦直後のタンネンベルクの戦いで大敗し、その後の2年間で数百万人の兵士が死傷し、または捕虜になりました。1915年にニコライ2世はみずから前線の総司令官となり、首都の政治は皇后アレクサンドラと、彼女が信頼した祈とう僧ラスプーチンの影響を強く受けます。ラスプーチンは1916年12月に貴族らに殺されました。
1917年のはじめ、ペトログラード(戦争中にペテルブルクから改めた名前)ではパンと燃料が足りなくなっていました。ロシア暦の2月末に起きたストライキと女性たちのデモは、またたく間に市全体の蜂起となり、首都の守備隊も民衆の側につきました。これが二月革命(西暦では三月革命)です。ニコライ2世は1917年3月15日に退位し、弟ミハイルも帝位を受けなかったため、約300年続いたロマノフ朝はここで終わりました。その後は臨時政府とペトログラード・ソヴィエトが並び立つ「二重権力」となりますが、臨時政府は戦争を続けて支持を失い、11月(ロシア暦10月)にはボリシェヴィキが権力を握りました。これが十月革命です。1918年7月、ニコライ2世と皇后、5人の子どもはエカテリンブルクで銃殺されました。
なぜ帝国は倒れたのでしょうか。理由は三つが重なっています。皇帝が権力を分けようとせず、穏やかな改革派の行き場がなかったこと。農民は土地を、労働者は権利を求め、どちらも十分には得られなかったこと。そして総力戦が、すでに無理をかかえていた国家を押しつぶしたことです。
試験に出るポイント
- 年代の柱:1721年 帝国の成立(ニスタット条約)、1812年 ナポレオンのロシア遠征、1825年 デカブリストの乱、1853〜1856年 クリミア戦争、1861年 農奴解放令、1905年 血の日曜日事件と第1次ロシア革命、1917年 ロシア革命。
- 南下政策の流れ:クリミア戦争(パリ条約)→露土戦争(サン=ステファノ条約→ベルリン会議)→極東進出→日露戦争。「どこで、だれに止められたか」を整理しておくと、共通テストの並べ替え問題に強くなります。
- 日露関係:1792年ラクスマンの根室来航、1804年レザノフの長崎来航、1855年日露和親条約(択捉島と得撫島のあいだに国境、樺太は両国民の雑居地)、1875年樺太・千島交換条約、1891年大津事件、1895年三国干渉、1905年ポーツマス条約。日本史と世界史の両方で出ます。
- 上からの近代化の比較:ロシアの大改革、明治維新、オスマン帝国のタンジマートは、どれも西洋の軍事や技術を取り入れて生き残ろうとした改革です。共通点と、政治体制の違いを説明できるようにしておきましょう。
- 用語の言いかえ:二月革命=三月革命、十月革命=十一月革命(暦の違いによる呼び方)。ドゥーマ=国会。
次に読む
- 世界史1700〜1918年:革命・産業・帝国・戦争:ロシアをほかの大国と並べて見られる、時代全体のまとめです。
- 19世紀のアメリカ:西部への拡大、南北戦争、金ぴか時代:同じ1860年代に奴隷制を終わらせ、ロシアからアラスカを買った大陸国家の歩みです。
- ラテンアメリカの独立(1791〜1826年):ロシアが勝ったナポレオン戦争が、スペインの帝国をどう崩したかがわかります。
- 『罪と罰』:大改革期のペテルブルクを舞台にした、ドストエフスキーの代表作です。