5分でわかる
帝国主義は、第1次世界大戦を単独で引き起こしたわけではありません。しかし、1880年代から1914年ごろにかけて、ヨーロッパの列強が植民地や市場、原料、国の威信をめぐって争ったことで、対立と軍拡競争の土台ができました。その土台の上で、1914年6月のサラエボ事件が、ヨーロッパ全体を巻き込む戦争へ発展したのです。まずは第1次世界大戦の総合ページで大戦全体の流れをつかんでおくと、この記事もよく理解できるでしょう。
帝国主義とは何か
この記事でいう帝国主義とは、国家が海外の土地を支配し、そこから原料や市場、利益、そして国の威信を得ようとする動きのことです。19世紀後半になると、工業が急速に発展したヨーロッパの国々は、海外に植民地を求めるようになりました。植民地は、本国の工場に原料を送り、できあがった製品を売る市場として重視されたのです。
帝国主義は第1次世界大戦をどう招いたか
1880年代、ヨーロッパ諸国はアフリカの分割に向けて競い合うようになりました。1884年から1885年にかけて開かれたベルリン会議では、アフリカの土地を領有するためのルールが話し合われています。1900年ごろには、エチオピアとリベリアを除くアフリカのほとんどがヨーロッパの支配下に置かれました。競争の舞台はアフリカだけではありません。アジアや太平洋でも、列強は貿易の拠点や海上の補給路を求めて争いました。
植民地は、経済的な利益だけでなく、国民の誇りとも結びつきました。新聞や学校が海外の領土を国力の証として伝えたことで、植民地を持たない国は「遅れている」と感じる人も増えていきます。こうした空気が、政治家が強硬な外交を選ぶ後押しになりました。
遅れて海外進出を進めたのがドイツです。ドイツは1871年に統一を果たし、短期間で世界有数の工業国になりましたが、海外の植民地はごくわずかでした。1897年には、ドイツ外交の責任者だったベルンハルト・フォン・ビューローが、ドイツにも「日の当たる場所」が必要だと主張しました。
海軍も大きな争点になりました。ドイツは1898年3月に第1次海軍法を成立させ、艦隊の建造を進めます。世界最大の海軍国だったイギリスは、これを自国の制海権への挑戦と見なしました。1906年2月、イギリスは大口径の主砲を統一して備えた新型戦艦ドレッドノートを進水させます。それまでの主力艦を時代遅れにしたこの艦をきっかけに、両国は大型艦の建造を競い合い、軍艦の数が国力を示す指標になっていきました。
植民地をめぐる競争は、列強どうしの不信を強めました。とくに「どの国が世界で力を持つのか」という問いは、政府や世論にとって身近なものになったのです。ただし、植民地の争いが、そのまま戦争に直結したわけではありません。多くの場合、外交交渉による妥協が図られました。
対立を深めた危機
列強は、植民地をめぐる小さな衝突を何度も経験しました。外交で収まったものもあれば、相手への不信を深め、次の危機の火種になったものもあります。主な出来事を順に見ていきましょう。
- 1898年、ファショダ事件:スーダンのファショダで、イギリスとフランスの部隊が対峙しました。フランスが撤退したことで、戦争は避けられています。
- 1904年、英仏協商:イギリスとフランスが、エジプトとモロッコをめぐる長年の対立を解消しました。フランスはエジプトでのイギリスの立場を認め、イギリスはモロッコでのフランスの立場を認めています。同盟ではありませんが、両国の距離は大きく縮まりました。
- 1905〜1906年、第1次モロッコ事件:1905年3月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコのタンジールを訪れ、フランスの影響力に異議を唱えました。翌1906年のアルヘシラス会議では、フランスの立場を支持する国が多く、ドイツを支持したのはオーストリア=ハンガリーだけでした。ドイツは外交的に孤立したのです。
- 1907年、英露協商:イギリスとロシアは、ペルシア、アフガニスタン、チベットをめぐる対立を調整しました。英仏協商とあわせて、イギリス、フランス、ロシアの結びつきは「三国協商」と呼ばれるようになります。
- 1908〜1909年、ボスニア危機:1908年10月、オーストリア=ハンガリーは、1878年から行政を任されていたボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言しました。セルビアとその後ろ盾のロシアは強く反発しましたが、ロシアは1909年3月、ドイツの強い圧力のもとで併合を認めます。セルビアには強い不満が残りました。
- 1911年、第2次モロッコ事件(アガディール事件):1911年7月、ドイツは砲艦パンター号をモロッコの港アガディールへ派遣しました。イギリスがフランスを支持する姿勢を示すと、ドイツは譲歩し、フランス領赤道アフリカの一部を得る代わりに、フランスのモロッコ支配を認めています。
- 1912〜1913年、バルカン戦争:バルカン諸国がオスマン帝国をヨーロッパ側の領土からほぼ追い出し、その後、戦利品をめぐって互いに争いました。セルビアは領土を大きく広げ、自信を深めます。一方、オーストリア=ハンガリーは、セルビアの勢いを強い脅威と感じるようになりました。
これらの危機を経て、列強は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの三国同盟と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商という二つの陣営にまとまっていきました。
1914年7月から大戦へ
対立の舞台は整っていましたが、戦争の直接のきっかけは、バルカン半島で起こりました。1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボで、オーストリア=ハンガリーの皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーが、若いボスニア系セルビア人の民族主義者ガヴリロ・プリンツィプに銃撃され、ふたりとも亡くなりました。
オーストリア=ハンガリーは、事件の背後にセルビア政府の関与があると疑いました。ドイツは7月初めに、オーストリア=ハンガリーへの全面的な支持を伝えます。これは「白紙委任状」と呼ばれています。オーストリア=ハンガリーは7月23日、セルビアに厳しい最後通牒を突きつけました。セルビアは大部分を受け入れましたが、全面的には応じず、7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦布告しました。
ロシアは、セルビアを見捨てればバルカンでの影響力を失うと考え、動員を始めます。ドイツは8月1日にロシアへ、3日にフランスへ宣戦し、4日にはベルギーへ侵攻しています。イギリスは、ベルギーの中立を守るという約束を理由に、同じ4日にドイツへ宣戦しました。8月6日には、オーストリア=ハンガリーもロシアへ宣戦し、ヨーロッパの主要国の多くが戦争状態に入ります。
三国同盟と三国協商という二つの陣営は、同盟と動員の仕組みで結ばれていました。一つの国が軍を動かすと、ほかの国も遅れを取らないよう続いて動かざるを得なくなります。帝国主義が対立の土台を作り、同盟と動員の連鎖がその対立を一気に全面戦争へ広げた、と整理すると理解しやすいでしょう。
帝国主義は本当に主な原因だったのか
歴史家の間でも、帝国主義がどれほど重い原因だったのかについては、考え方が分かれています。1916年、ロシアの革命家レーニンは、帝国主義どうしの競争こそが戦争の根本原因だと論じました。その後の研究では、ドイツの戦争目的や、1914年7月の政策決定に注目したフリッツ・フィッシャーのように、ドイツの責任を重く見る立場も現れています。
一方で、現在では植民地の争いを、同盟や軍国主義、民族主義と並ぶ要因の一つと考える人が多いといえます。植民地をめぐる対立は緊張を高めましたが、英仏協商やファショダ事件のように、外交で解決された例も少なくありません。帝国主義は、局地的な危機を大戦に変えやすい背景だった、と捉えるのが妥当でしょう。
試験に出るポイント
大学入学共通テストなどの歴史問題では、原因を並べるだけでなく、どれが重要だったかを評価させる形式が出題されることがあります。答案では、帝国主義による列強の対立、モロッコ事件やボスニア危機といった具体例、同盟や民族主義との関係、そして7月危機で戦争が一気に広がった理由を、順番に書くと筋が通ります。
まず列強の植民地争い、次にモロッコ事件などの危機、同盟網、サラエボ事件、そして動員の連鎖、という順に書くと整理しやすいでしょう。帝国主義だけで戦争が起きたと言い切るのではなく、ほかの要因との関係で説明すると、論述の説得力が増します。
また、「第一次世界大戦」と「第1次世界大戦」は同じ戦争を指します。教科書や問題文によって表記が違うことがあるので、どちらが出ても戸惑わないようにしておきましょう。
次に読みたいページ
- 同盟と第1次世界大戦:植民地の対立が、どのような同盟網の形で二つの陣営にまとまったのかを確認できます。
- 民族主義と第1次世界大戦:バルカン半島の対立が激しくなった理由を、民族主義の面から見ていきます。
- 軍国主義と第1次世界大戦:軍拡競争や戦争計画が、戦争の拡大にどうつながったかを扱います。