第1次世界大戦(第一次世界大戦とも表記されます)は、1914年6月のサラエボ事件をきっかけに始まりました。しかし、一つの暗殺事件が数週間でヨーロッパ全体を巻き込む戦争になったのは、各国が結んでいた同盟関係があったからです。この記事では、同盟という仕組みがどのように戦争の原因を広げたのかを、順を追って整理します。大きな流れは第1次世界大戦の解説ページでも確認できます。
5分でわかる
1914年以前のヨーロッパでは、大国どうしが軍事的な助け合いを約束する同盟や協定を次々と結んでいました。目的は、相手に攻撃をためらわせることでした。味方が必ず加勢すると分かっていれば、戦争を仕掛ける国は減るはずだと考えられたのです。しかし実際には、二国の争いが味方の国々を次々と引き込む仕組みになってしまいました。
ここで、言葉の違いを押さえておきましょう。同盟は、軍事的な援助を条約で明文化したものです。一方、協商は、主に植民地などの対立を話し合いで解決するための取り決めで、必ずしも援軍の約束を含みません。主な同盟と協定は次のとおりです。
- ドイツとオーストリア=ハンガリー(1879年):独墺同盟と呼ばれ、どちらかがロシアに攻撃された場合に助け合うことを決めました。
- イタリアの加入(1882年):ドイツ、オーストリア=ハンガリーとあわせて三国同盟になりました。ただしイタリアは、フランスとも秘密の了解を結んでおり、同盟への結びつきが比較的弱い国でした。
- フランスとロシア(1892〜1894年):露仏同盟です。どちらかがドイツ、またはドイツの支援を受けた国から攻撃された場合に、互いに助け合うと定めました。
- イギリスとフランス(1904年):英仏協商です。植民地をめぐる対立を解決するための取り決めで、軍事同盟ではありません。その後、軍事面の話し合いが進みました。
- イギリスとロシア(1907年):英露協商です。アジアでの対立を調整するもので、英仏協商とあわせて三国協商と呼ばれる協調の枠組みになりました。
イギリスは、フランスやロシアと、大陸に陸軍を送ることを義務づける条約を結んでいませんでした。この点は、のちの参戦の判断に大きく関わります。
第1次世界大戦を広げた同盟の仕組み
同盟は、いわば足をとられる綱のようなものでした。自国の安全が味方の存在に頼っている以上、ある地域の争いが別の国の争いに結びついてしまいます。では、なぜ各国はこうした同盟を結んだのでしょうか。
一方で、大国の対立がすぐ戦争になったわけではありません。1905年と1911年のモロッコ事件では、ドイツとフランスが激しく対立しましたが、会議や交渉によって戦争は避けられました。危機を収める外交の道も、確かに存在していたのです。
まず、不安が背景にありました。1870〜1871年の普仏戦争でフランスに勝ったドイツは、フランスとロシアに挟まれる包囲を恐れました。一方のフランスは、ドイツに対抗できる味方を必要としていました。イギリスは、植民地を守り、ヨーロッパ大陸の一国が優位に立つことを避けたいと考えていました。どの同盟も、相手への備えとして作られたものだったのです。
次に、同盟が固定的だったことです。味方を見捨てれば、自国は孤立するおそれがありました。そのため、リスクの大きい問題でも、味方を支える判断が取られやすくなりました。1914年7月、ドイツがオーストリア=ハンガリーを支持すると約束したことは、ウィーンの強硬な姿勢を後押ししました。この約束は、しばしば「白紙委任状」と呼ばれます。
三つ目は、軍の動員が時刻表のように決まっていたことです。鉄道を使った大規模な動員は、いったん始めると簡単には止められません。ドイツのシュリーフェン計画は、フランスを素早く破るためにベルギーを通って進軍し、そのあとロシアに向かうというものでした。ロシアがセルビアを守るために動員を始めると、ベルリンではそれが急いで対応すべき脅威と受け止められました。
さらに、中立を守ることにもリスクがありました。同盟国のために参戦しなければ、味方からの信頼を失うおそれがあります。かといって参戦すれば、自国と直接関係のない争いに巻き込まれかねません。イタリアは、三国同盟に加わっていながら、1914年には中立を選びました。イタリアは、三国同盟は防衛のための条約であり、今回の戦争はオーストリア=ハンガリーが始めたものだと主張しました。
バルカン半島は、とくに危うい場所でした。1912年と1913年のバルカン戦争で、セルビアは領土を広げ、自信を強めました。オーストリア=ハンガリーは、国内に南スラヴ系の人々を多く抱えており、セルビアの勢いを大きな脅威と感じました。ロシアは、バルカン半島のスラヴ系の国々を支える立場を自任していました。どの大国も相手の動きを脅威と読み、味方の支えを当てにしていたのです。
同盟の網が張り巡らされたことで、一か所の動きがほかの国々の判断を揺さぶるようになりました。これが、地域の争いを大戦へ広げた大きな理由です。
1914年7月に何が起きたのか
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーが、サラエボでボスニア出身のセルビア人青年に銃で撃たれ、亡くなりました。ウィーン政府は、この事件の背後にセルビア政府がいるとみなし、バルカン半島でのセルビアの影響力を抑えようとしました。
7月初め、ドイツはオーストリア=ハンガリーに全面的な支持を伝えました。7月23日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに最後通牒を突きつけました。内容は10項目に及ぶ厳しいもので、受け入れにくいものでした。セルビアは大部分の要求を受け入れましたが、すべてではありませんでした。7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告しました。
セルビアを保護する立場のロシアは、7月30日に総動員を命じました。ドイツは、これを自国への脅威とみなし、8月1日にロシアに、8月3日にフランスに宣戦布告しました。
8月4日、ドイツ軍はベルギーに侵入しました。ベルギーの中立は1839年の条約で保障されていたため、イギリスはこの日、ドイツに宣戦布告しました。ここで、一つの地域の争いは、ヨーロッパ全体の戦争へと変わったのです。
多くの歴史家は、1914年の指導者たちが全面戦争を望んでいたわけではないと指摘しています。それでも、各国の判断が重なり、戦争を止める道が閉ざされていきました。同盟の仕組みがあったために、それぞれの決断が次の決断を後押しする形になったと考えられます。
戦争はその後どうなったのか
バルカン半島の危機として始まった戦争は、世界大戦へと広がりました。オスマン帝国は1914年末に同盟国側で参戦しました。日本は、日英同盟を理由に1914年8月にドイツへ宣戦布告しました。イタリアは、1915年にロンドン秘密条約で領土の約束を得て、協商国側へ移りました。アメリカ合衆国は1917年4月に参戦しました。軍人の死者は約900万人にのぼり、そのほかにも多くの民間人が命を落とし、飢えや避難に苦しみました。
戦場は西部戦線だけではありませんでした。東部戦線ではロシアとドイツ・オーストリア=ハンガリーが激しく戦い、バルカン半島や中東、アフリカの植民地にも戦火が広がりました。
この戦争は、兵士だけでなく工業力や国民生活全体を動員する総力戦になりました。塹壕を使った長期の消耗戦が続き、決定的な勝利を得にくくなりました。1918年までに、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国が崩壊しました。オスマン帝国も1922年までに解体されました。平和を守るために結ばれた同盟の網は、戦争を止めることができなかったのです。戦後は、ヴェルサイユ条約で敗戦国の責任が重く問われ、その後の国際関係にも長い影響を残しました。
試験に出るポイント
入試では、「なぜ地域的な争いが世界大戦になったのか」という問いがよく出ます。答案では、次の三点を押さえると説明しやすくなります。一つめは、三国同盟と三国協商という二つの陣営の成り立ちと年代です。二つめは、サラエボ事件から、ドイツの宣戦布告、ベルギー侵入、イギリスの参戦までの流れです。三つめは、同盟があったために、どの国も簡単には引けなくなった点です。
あわせて、帝国主義、軍国主義、民族主義と並べて整理されることも多いです。同盟は、争いを広げる仕組みとして理解すると、答えがまとまりやすくなります。年号を丸暗記するより、「なぜ味方を見捨てられなかったのか」を説明できることが大切です。
答案の書き方の例を挙げます。「同盟によって一国の危機が連鎖し、各国が味方の動きに応じざるを得なかったため、地域紛争が世界大戦へ拡大した」というように、仕組みと流れを一文でつなげると、採点者に伝わりやすくなります。
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