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「3B政策」とは、第一次世界大戦の前にドイツが東方で進めた、鉄道と経済の進出計画を指す呼び名です。ベルリン、ビザンティウム(イスタンブルの古い名前)、バグダードの三つの都市名の頭文字から名づけられました。中心にあったのは、オスマン帝国の内陸を通ってペルシア湾に近づく鉄道計画で、ベルリン・バグダード鉄道と呼ばれます。ドイツの資本と技術で鉄道を通し、貿易と政治的な影響力を広げることが狙いでした。
3B政策とは何か
3B政策は、ドイツ政府が公式に掲げた政策の名前ではありません。後の時代に、ドイツの動きをひと目で示すために使われるようになった通称です。実際には、鉄道建設、国への融資、貿易、政治的な影響力という、関係のある目標の集まりとして理解されています。まとまった一つの計画書があったわけではない点に注意が必要です。
この政策は、イギリスが構想した3C政策と並べて語られることが多くあります。3C政策は、カイロ、ケープタウン、カルカッタを結ぶ考え方で、インドへの海上ルートを守りたいイギリスの立場を表していました。3Bと3Cは、大国が植民地や勢力圏を広げようとした競争を象徴する言葉として比べられます。植民地競争の全体像は、帝国主義の解説で整理できます。
この政策が重要なのは、当時の最新技術である鉄道が、大国どうしの対立に直接つながっていた点です。3B政策は第一次世界大戦の唯一の原因ではありません。しかし、イギリスやロシアの警戒を強め、大戦前の対立を深める一つの要因になりました。
ドイツが東方に目を向けた理由
ドイツ帝国は1871年に成立し、工業国として急速に力を伸ばしました。しかし、海外に持つ植民地の数では、イギリスやフランスに大きく後れをとっていました。1888年にヴィルヘルム2世が皇帝になると、ドイツは「世界政策」と呼ばれる積極的な外交に乗り出します。どの大陸でも大国として発言できる国になることを目指した方針です。
一方のオスマン帝国は、財政が苦しく、外国の債権者に収入の一部を頼っていました。1881年からは、ヨーロッパの債権者の代表が加わった公債管理機関が、一部の税収を管理していました。遠く離れた地方を一つにまとめ、軍隊や物資を速く動かすためにも、近代的な鉄道が必要だと考えられていました。
ドイツの銀行は融資の機会を、ドイツの技術者は建設の仕事を見込んでいました。両者の思惑が重なったところから、3B政策の構想が生まれたのです。ドイツ側から見れば、鉄道は貿易の道であると同時に、政治的な存在感を示す手段でもありました。
ベルリン・バグダード鉄道の敷設権
1888年、ドイツ銀行を中心とする団体が、オスマン政府から、アナトリア鉄道の建設と運営を認める許可(敷設権)を得ました。アナトリア鉄道は、イスタンブルのアジア側から内陸へ延びる路線です。これは重要な第一歩でしたが、まだバグダードまでの計画そのものではありません。
その後の10年ほどの間に、オスマン政府にはバグダードへの鉄道を求める申請が数多く寄せられました。最終的に権利を得たのは、ドイツ銀行を中心とする団体です。合意は1903年3月に正式に結ばれ、ドイツの銀行が大きな影響力をもつバグダード鉄道会社が設立されました。
計画されたルートは、コンヤからタウルス山脈を越えてアレッポへ進み、北メソポタミアを通ってモースルとバグダードに至るものでした。将来的には、ペルシア湾岸のバスラまで延ばすことが目標です。ただし、初期の工事区間や細かな年代については、史料によって記述が分かれます。そのため、年代は大まかな目安として読むのが安全です。
1898年の皇帝の訪問
1898年の秋、ヴィルヘルム2世はオスマン帝国を公式に訪問し、イスタンブル、ダマスカス、エルサレムを回りました。当時のスルタンは、アブデュルハミト2世です。ダマスカスでは、イスラーム教徒の人々に向けて好意的な言葉を語りました。多くの歴史家は、これをスルタンの臣民の支持を得るための計算された動きとみています。
この訪問で両国の関係は親密になり、ドイツの鉄道計画を後押しする効果があったと考えられています。ただし、その効果がどこまで直接的だったかについては、今も議論が続いています。ここは「大きな成果を生んだ」と断定せず、慎重に書くのが妥当です。
同じ1898年、イギリスとフランスは、スーダンのファショダで戦争寸前まで対立しました。ファショダ事件は、バグダード計画が形になりつつあった時期に、植民地をめぐる緊張がどれほど高まっていたかを示しています。
イギリスとロシアの警戒
イギリスの懸念は、現実的なものでした。ペルシア湾に達する鉄道ができれば、ライバルのドイツがインドへの海上ルートや湾岸地域に近づくことになります。そのため、ロンドンは外交交渉を通じて、湾岸に終着駅が置かれないよう働きかけました。湾岸の首長たちとの関係も、その手段の一つでした。
1913年には、イギリスとオスマン帝国が取り決めを結びました。この取り決めにより、湾岸への延伸はイギリスとの了解なしには進めにくくなりました。同じ問題について、1914年6月にはイギリスとドイツがロンドンで合意に達しました。しかし、実行される前に戦争が始まってしまいます。
ロシアにも、ペルシアやカフカスをめぐる独自の懸念がありました。1907年、イギリスとロシアは、ペルシア、アフガニスタン、チベットをめぐる長年の対立を英露協商で解決しました。これに1904年の英仏協商と、フランスとロシアの同盟関係が加わり、三国協商の形が整いました。鉄道だけが同盟関係を生んだわけではありませんが、列強どうしの不信感を強める要因になりました。
大戦とその後
1914年8月、第一次世界大戦が始まったとき、鉄道はまだ大部分が未完成でした。ドイツとオスマン帝国は同盟を結び、オスマン帝国はその年の秋にドイツの側で参戦します。両国は1918年に敗れ、中東は委任統治と、イギリスやフランスの影響力のもとで新たに組み直されていきます。
イラク領内の未完成の区間は、1939年から1940年にかけて完成へ向かいました。全線が通じたのは1940年7月で、1888年の権利付与からおよそ半世紀が過ぎていました。イスタンブルからバグダードへの本格的な通し運転も、その数日後に行われています。そのころには、この鉄道が役立つはずだった政治の世界は、すっかり変わっていました。
3B政策は大戦の原因だったのか
多くの歴史家は、3B政策を第一次世界大戦の主な原因とはみていません。鉄道は、多くの要因のうちの一つにすぎませんでした。ドイツとイギリス、フランス、ロシアの間に不信感を生み、ペルシア湾やメソポタミアを、ライバルが互いに目を光らせる場所にしたのです。同盟の網の目、軍拡競争、バルカン半島の危機の方が、大きな役割を果たしたと考えられています。公正な見方は、3B政策が緊張を高める一因になったというものです。
試験に出るポイント
入試では、3B政策を帝国主義と大国の対立を示す例として扱うことが多く見られます。答えを組み立てるときは、三つの面から説明すると筋が通ります。経済面では、融資、鉄道の敷設権、市場への進出です。戦略面では、インドとペルシア湾を守りたいイギリスの懸念と、それに対抗する3C政策です。同盟面では、1907年の英露協商と三国協商です。
年代を整理するときは、1898年の訪問、1903年の合意、1914年の開戦、1940年の全線完成の四つを軸にすると覚えやすくなります。
- 3B政策(ドイツが、ベルリンからバグダードへ結ぶ構想)と、3C政策(イギリスが、ケープタウンからカイロを経てカルカッタへ結ぶ構想)の違いを確認しておきましょう。
- 鉄道はドイツの銀行を中心とする団体が資金を出した事業で、1914年にはまだ未完成、全線の完成は1940年だったことを押さえておきましょう。
- 問題で単一の原因を求められていない限り、「大戦の原因になった」ではなく「対立を深める一因になった」と書くのが無難です。
次に読むページ
- イギリスの3C政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタ)は、同じ対立を英国側から見た解説です。
- ファショダ事件(1898年)は、同じ年に起きた英仏の危機を取り上げています。
- 奴隷貿易と奴隷制の廃止は、帝国と貿易が広がった19世紀の別の一面を扱っています。