アメリカ独立戦争は、北アメリカ大西洋岸の十三植民地と、その本国であるイギリスとの間で行われた武力による戦いです。1775年4月のレキシントンとコンコードでの戦闘で始まり、1783年9月のパリ条約で正式に終わりました。この記事では、戦争そのものの流れを追います。独立に至るまでの政治の動きは、アメリカ独立革命の特集で続けて読めます。

5分でわかる:アメリカ独立戦争はいつ始まり、なぜ勝てたのか
戦争は1775年4月19日に始まり、1783年9月3日のパリ条約で正式に終わりました。植民地側は大きな会戦の多くで負けており、勝った戦いの数はイギリスのほうが多くなっています。それでもアメリカが勝てたのは、軍を維持し続けたことと、強力な味方を得る機会をつかんだことによります。
勝因は大きく四つに分けられます。一つめは、1777年10月のサラトガでイギリス軍が降伏したことです。これがフランスを同盟へ踏み切らせました。二つめは、イギリスが大西洋を越えて兵と物資を運ぶ必要があり、時間も費用もかかったことです。三つめは、ワシントンが、一度の決戦に軍の全てを賭けることを避けたことです。四つめは、1781年9月にフランス海軍がヴァージニア沖の制海権を握り、コーンウォリス将軍がヨークタウンに閉じ込められたことです。
1775年:レキシントンとコンコードの戦い
戦いの前から、課税や貿易、ボストンに駐留するイギリス軍をめぐる対立で、植民地の空気は張り詰めていました。1775年4月、約700人のイギリス正規兵が、植民地側が武器や物資を蓄えていたコンコードを目指してボストンを出発しました。19日の夜明け、レキシントンの村の広場では、70〜80人ほどの民兵が待ち構えていました。誰が最初に撃ったのかは今もわからず、銃撃戦が始まって民兵のおよそ8人が亡くなりました。
その後、コンコードでは約400人の民兵が北橋で応戦し、イギリス軍はボストンへ引き返す長い行軍に入ります。その道中、家や塀、森の中から撃たれ続け、被害が広がりました。双方の被害は歴史家によって数字が異なりますが、イギリス側はおよそ250〜300人、植民地側はおよそ90人とされています。
戦いの数週間後には、ニューイングランド各地の民兵がイギリス軍のいるボストンを取り囲みました。1775年6月、大陸会議はジョージ・ワシントンを総司令官に選び、ワシントンは7月3日にケンブリッジで軍の指揮を執ります。この時点で、戦争はマサチューセッツだけの争いではなく、植民地全体の戦いになっていました。
1776年:ボストン撤退とニューヨークの敗北
イギリス軍はボストンを保てず、1776年3月17日に海路でノバスコシアのハリファックスへ去りました。ワシントンは、次の攻撃がニューヨークに向かうと見て、軍を南へ動かします。同年7月4日、大陸会議は独立宣言を採択しました。これ以後、戦争は帝国の中での権利をめぐる争いから、独立をかけた戦いへと姿を変えていきます。
イギリス軍の本格的な攻撃は8月に始まりました。1776年8月27日、ロングアイランドの戦いでイギリス軍が勝ち、植民地軍はブルックリンから追い出されます。ワシントンの軍は包囲されて全滅しかねない状況でした。しかし8月29日から30日の夜、濃い霧に紛れてイースト川を渡り、マンハッタンへ退くことに成功します。この撤退は、負けた戦いの中で軍を救った例として語られることが多いです。
その秋には、イギリス軍がニューヨークの大部分を押さえ、ワシントンの軍はニュージャージーを押し戻されるように後退しました。次の地図は、その経路を示しています。

1776年末:トレントンの奇襲
1776年末、大陸軍は兵の数が減り、疲れ切っていました。12月25日の夜、ワシントンは氷の浮かぶデラウェア川を渡ります。翌26日の朝、ニュージャージー州トレントンにいたヘッセン兵の守備隊を攻撃しました。守備隊は約1,200〜1,400人とされ、ほとんどがヘッセン=カッセル出身の兵でした。不意を突かれた兵の多くが捕虜になり、捕虜の数は870〜900人前後とする資料が多いものの、それより多く数える説もあります。指揮官のラル大佐は致命傷を負い、その日のうちに亡くなりました。トレントンの勝利で戦争が終わったわけではありません。それでも、大陸会議と軍に必要な自信を与えました。
1777年:サラトガの勝利が戦争の転機になる
1777年、イギリス軍のジョン・バーゴイン将軍は、カナダから南下してオールバニを目指しました。ニューイングランドを他の植民地から切り離すことが狙いでした。しかし、ニューヨーク州のサラトガ付近で、9月19日のフリーマンズ・ファームの戦い、10月7日のベミス・ハイツの戦いで足止めされます。補給が乏しくなり、救援も来ないまま、バーゴインは10月17日、アメリカ軍のホレイショ・ゲーツ将軍に降伏しました。降伏した兵は、資料により約5,700〜6,200人とされています。
サラトガが重要だったのは、アメリカが野戦でイギリス正規軍を打ち破れることを、フランスに示したからです。1778年2月6日、パリでアメリカとフランスの代表が同盟条約に署名しました。同じ日に通商条約も結ばれています。大陸会議は同年5月4日に両条約を批准しました。フランスは艦船、資金、兵を戦争に投入し、この戦争は世界規模の争いへと広がります。イギリスは、植民地だけでなく、各地の交易路や拠点も同時に守らなければならなくなりました。
1778年から1780年:戦場は南部へ
フランスが参戦すると、イギリス軍は北部での早い勝利を期待できなくなり、目を南部に向けました。イギリスは、南部には王党派(イギリス王に忠誠を誓った植民地の人々)が多く、味方になると考えていました。南部の作戦は、1780年のチャールストンで大きく進みます。3月末に包囲が始まり、5月12日、ベンジャミン・リンカーン将軍が街と、5,000人を超える兵を降伏させました。これはアメリカ独立戦争で最大規模の降伏です。その後は、コーンウォリス将軍が南部の作戦を率い、カロライナからヴァージニアへと進んでいきます。地図は、彼の作戦の戦場を示しています。

イギリス軍はなぜ苦戦したのか
イギリス軍は、訓練された正規兵と強力な海軍を持つ強国の軍隊でした。大きな会戦でも勝っています。それでも勝利を長く保つことはできませんでした。理由の一つは距離です。兵も食料も弾薬も大西洋を越えて運ばなければならず、占領した土地を守るには、本国にとって余裕のない兵力が必要でした。もう一つは、王党派の支持が期待ほど広がらなかったことです。さらに本国では、遠い植民地での長くて高くつく戦争に、議会と世論が疲れていきます。
1781年のヨークタウンの戦い:勝負を決めた戦い
1781年半ば、コーンウォリスは軍をヴァージニア州のヨークタウンに移し、イギリス本国からの船と増援を待つことにしました。ワシントンは当初ニューヨークへの攻撃を計画していましたが、フランスのロシャンボー伯爵と合流し、連合軍を南のヴァージニアへ向けます。勝負を決めたのは、海での戦いでした。1781年9月5日、フランス海軍のド・グラス提督の艦隊が、ヴァージニア岬沖でイギリス艦隊と戦いました。ある資料では、フランスの戦列艦が約24隻、イギリスが約19隻とされています。戦いの結果は決定的とはいえませんでしたが、フランスがチェサピーク湾の制海権を保ち、イギリス海軍はヨークタウンへの救援も補給も届けられませんでした。

包囲戦は1781年9月28日から10月19日まで続きました。連合軍の大砲がイギリス軍の陣地へ近づくと、10月14日、フランス軍とアメリカ軍が、イギリス軍の前線にある二つの砦(第9砦と第10砦)を攻め落とします。第9砦はヴィオメニル男爵率いるフランス軍が、第10砦はアレクサンダー・ハミルトンが指揮した部隊が攻略しました。これで連合軍の砲撃がヨークタウンの中心に届くようになりました。最後の数日、コーンウォリスは夜の闇にまぎれてヨーク川を渡る脱出を試みましたが、失敗に終わります。10月19日、コーンウォリスは降伏しました。彼は病気を理由に剣を渡しに出ず、チャールズ・オハラ准将が剣を届けています。イギリスの守備隊は、およそ7,000〜9,000人の兵と数百人の水兵で、連合軍の陸上部隊はおよそ15,000〜17,600人と推定されています。
1783年:パリ条約と戦争の終わり
戦闘が下火になってからも、和平交渉は数か月続きました。アメリカ側の代表は、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、ジョン・ジェイ、ヘンリー・ローレンスです。イギリス側はリチャード・オズワルドとヘンリー・ストレイチーが務めました。予備条項は1782年11月30日にパリで合意され、最終的なパリ条約は1783年9月3日に署名されました。イギリスはアメリカの独立と新しい国の国境を認め、大陸会議は1784年1月14日に条約を批准しています。
独立後のアメリカには、新しい政府を機能させるという大きな課題が残りました。イギリス側についた王党派の多くは、カナダやイギリス本国へ去りました。戦争は、ゆるやかにつながった州の連合でも戦い抜けることを示しましたが、資金や兵を集める難しさも浮き彫りにしました。
兵士たち:大陸軍、民兵、外国の兵
大陸軍は、ワシントンのもとで戦った正規の部隊です。その隣で、各州の民兵や、短い予告で集まれるよう準備したミニットマンが、多くの戦いに加わりました。イギリス軍の中核は、赤い軍服を着た正規兵です。一斉射撃と銃剣戦に訓練されていました。しかし、イギリスはドイツの諸邦から雇った補助軍にも大きく頼りました。その多くはヘッセン=カッセルの兵で、資料によって数は違いますが、およそ30,000人前後がアメリカで戦ったとされています。ヘッセン兵という呼び名は、ドイツ出身の兵全体を指すようになりました。王党派の義勇兵もイギリス側で戦っています。1778年以降は、フランスの陸軍と海軍がアメリカ側で戦いました。
ワシントンの戦略:軍を残すこと
ジョージ・ワシントンは、1775年から戦争が終わるまで、大陸軍の総司令官を務めました。彼の仕事は、勝つことと同じくらい、負けても軍を失わないことでした。ロングアイランドで敗れた後の撤退や、冬の寒さの中で行ったトレントンの奇襲は、その表れです。いくつもの戦いで敗れても兵を立て直し、攻めるべき機会を待ちました。この粘り強さが、イギリス軍が勝利を確定させにくい状況を作ったのです。
なぜアメリカが勝てたのか:主な見方
歴史家の間でも、どの要因をどれだけ重く見るかは分かれます。それでも、よく挙がるのは次のような点です。外交の面では、サラトガの勝利がフランスを参戦させました。地理の面では、イギリスが大西洋の向こうから兵と物資を送らなければならなかったのに対し、アメリカは自分たちの土地で戦い、敗北から立て直すことができました。戦略の面では、ワシントンが、全てを賭けた一度の決戦を避けて軍を残すことを優先しました。海の面では、フランス海軍が肝心なときに海の支配を与えてくれました。そして、ヨークタウンの後、イギリス国内で戦争を支持する声は弱まっていきます。どれか一つだけで結果を説明することはできません。
試験に出るポイント
共通テストの世界史や日本史では、アメリカ独立戦争の経過や、その後の影響が問われることがあります。大切なのは、出来事を原因と結果でつなげることです。サラトガの勝利がフランスとの同盟を生み、その同盟が海の支配を通じてヨークタウンの勝利を支え、その結果としてパリ条約が結ばれた、という流れを押さえておくと答えやすくなります。また、イギリスが戦いの多くに勝っていたことも覚えておくと、「なぜ勝てたのか」を考えるときに役立ちます。
次に読む記事
戦争の前後の流れは、次の記事とあわせて読むと理解が深まります。
- アメリカ独立革命の原因:植民地とイギリスが、そもそもなぜ対立したのかを整理できます。
- 独立宣言をわかりやすく:1776年の宣言が、戦争の意味をどのように変えたのかを確認できます。
- ボストン茶会事件(1773年):戦いが始まる前に、本国との対立を深めた抗議運動です。