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南北戦争とは?わかりやすく

10月 30, 2026
南北戦争は、1861年4月から1865年4月まで続いたアメリカの内戦です。奴隷制をめぐる対立から北部と南部が分裂し、北軍が勝利しました。戦争は奴隷制の廃止へとつながり、アメリカの国のかたちを大きく変えました。

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南北戦争とは?わかりやすく

基本データ

いつ
1861年4月12日から1865年4月9日まで(事実上の終結)
どこで
東部(バージニア州など)と西部(ミシシッピ川、テネシー、ジョージア)
当事者
北軍(北部の州)対 南部連合(11州)
指導者
リンカーンとグラント対 デイヴィスとリー
転換点
ゲティスバーグとビックスバーグ(1863年7月1日から4日)
重要な文書
奴隷解放宣言(1863年1月1日発効)
結果
北軍の勝利。修正第13条により奴隷制が全国で禁じられた(1865年12月6日批准)
死者
約620,000人(従来の推定)から約750,000人(2011年の推定)

年表

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  1. 1860年11月6日

    エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれる

    リンカーンは得票率40%ほどで、選挙人団では過半数を得ました。南部の多くの州では名前が投票用紙に載っていませんでした。この当選が、深南部の離脱を直接促しました。

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  2. 1860年12月20日

    サウスカロライナ州が離脱し、南部連合が形を現す

    チャールストンの州会議は、12月20日に169対0で連邦からの離脱を可決しました。2月2日までにさらに6州が続き、2月上旬にはモンゴメリーの会議が暫定憲法を採択して、ジェファーソン・デイヴィスを大統領に選びました。主要な投票の日付は資料によって4日から9日まで差があります。

  3. 1861年4月12日から13日

    南部連合がサムター要塞を砲撃し、アンダーソンが降伏する

    1861年4月12日から13日にかけて、チャールストン港でサムター要塞を砲撃する南部連合の様子を描いた同時代の版画。
    Currier & Ives, public domain, via Wikimedia Commons

    4月12日の午前4時30分、アンダーソン少佐が退去を拒否したため、南部連合の砲台が砲撃を始めました。4月13日の午後2時30分に降伏し、守備隊は4月14日に要塞を離れました。

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  4. 1861年7月21日

    第一次ブル・ランの戦い

    バージニア州マナサス付近で戦われた、戦争最初の大きな戦いです。南軍が勝利し、北軍はワシントンへ退却しました。死傷者は合計で約5,000人とされ、資料によっては開戦日を7月20日とします。

  5. 1862年3月8日から9日

    ハンプトン・ローズで装甲艦が戦う

    3月8日、南軍の装甲艦ヴァージニア号が、北軍の艦船2隻を沈めました。翌9日、北軍の装甲艦モニター号が戦い、装甲艦同士の最初の戦いは引き分けに終わりました。

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  6. 1862年9月17日から22日

    アンティータムの戦い、そして予備的な奴隷解放宣言

    リーのメリーランド侵攻は、9月17日にアンティータム・クリークでの戦いで止まりました。この日は戦争で一日の死傷者が最も多かった日とされ、北軍が戦術的に勝ったと見なされることが多いです。5日後の9月22日、リンカーンは予備的な奴隷解放宣言を出しました。

  7. 1863年1月1日

    奴隷解放宣言が発効する

    最終的な宣言は、反乱を続けている州だけに適用されました。すべての奴隷を一度に解放したわけではありませんが、奴隷制の廃止を戦争の目的としてはっきり示し、アフリカ系アメリカ人が北軍に入る道を開きました。

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  8. 1863年7月1日から4日

    ゲティスバーグ、そしてビックスバーグ

    ペンシルヴェニア州ゲティスバーグで、リーの軍は敗れました。7月3日には約12,500人の南軍兵士がピケットの突撃に失敗しました。ビックスバーグは7月4日に降伏し、北軍はミシシッピ川の支配を強めました。

  9. 1864年3月から6月

    グラントが総司令官になり、オーバーランド作戦とコールド・ハーバーが続く

    3月にグラントは北軍全体の総司令官になりました。5月4日にオーバーランド作戦が始まり、コールド・ハーバーの戦いは5月31日から6月12日まで続きました。グラントは、6月3日の正面攻撃を自分の最大の誤りだったと回想録で書いています。

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  10. 1864年9月初め

    シャーマンがアトランタを占領する

    南軍は8月末から9月初めにかけてアトランタから撤退し、北軍が鉄道の要衝である市を押さえました。日付は資料によって差があります。この占領が、海への行軍の拠点になりました。

  11. 1864年11月から12月21日

    海への行軍がサバナに到達する

    シャーマンは11月中旬に、約62,000人の兵とともにアトランタを出発しました。行軍の開始日は、資料によって11月15日と16日に分かれます。12月21日、軍はジョージア州のサバナに入りました。

  12. 1865年4月9日

    リーがアポマトックスで降伏する

    1865年4月9日、アポマトックスでのリーの降伏を描いた当時の版画。
    Currier and Ives, New York, public domain, via Wikimedia Commons

    リーは、バージニア州アポマトックス・コートハウスのマクリーン邸で、グラントに降伏しました。約28,000人の南軍兵士が仮釈放され、リッチモンドはそれより前の4月3日に陥落していました。多くの歴史家は、この日を事実上の戦争の終わりとしています。

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  13. 1865年4月14日から15日

    リンカーンが撃たれ、翌朝亡くなる

    4月14日の夜、ジョン・ウィルクス・ブースがワシントンのフォード劇場でリンカーンを撃ちました。リンカーンは翌4月15日の朝に亡くなりました。このとき戦争はすでに終わりに近づいていました。

  14. 1865年6月2日

    南軍の最後の大きな降伏

    ミシシッピ川以西の南軍を率いたエドモンド・カービー・スミスが、ガルベストン湾の北軍の船の上で降伏文書に署名しました。その後も、小さな部隊は数週間にわたって抵抗を続けました。

  15. 1865年12月6日

    修正第13条が批准される

    上院は1864年4月8日に38対6で、下院は1865年1月31日に119対56で可決しました。12月6日のジョージア州の批准によって、必要な州の数に達しました。

地図

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  • 1861年のアメリカ合衆国を描いた風刺地図。大蛇が南部の州に巻きつき、海岸の封鎖とミシシッピ川が書き込まれています。

    「スコットの大蛇」と題された、J・B・エリオットによる1861年の風刺地図。大蛇は、海岸の封鎖とミシシッピ川の支配によって南部連合を締めつける、スコットの計画を表しています。

    J.B. Elliott, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1863年7月1日から3日のゲティスバーグの戦場を描いた詳細な地図。丘、道、農場、両軍の配置がわかります。

    1863年7月1日から3日のゲティスバーグの戦場の地図。ウォルトジェ&カッティングが1888年に刊行したものです。

    Woeltje And Cutting, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1864年末、アトランタからサバナまでのシャーマンの行軍経路を示す、当時の陸軍省の地図。

    陸軍省が作成した、シャーマンの「海への行軍」(1864年11月から12月、アトランタからジョージア州サバナまで)の地図。

    United States, War Department, public domain, via Wikimedia Commons

5分でわかる

南北戦争(アメリカ南北戦争)は、1861年から1865年まで続いた、アメリカ合衆国の内戦です。奴隷制をめぐる対立から、北部の合衆国(北軍)と、南部の州が作った南部連合(南軍)が戦いました。

いつ始まり、いつ終わったのか。戦いは1861年4月12日に、南部連合の砲撃でサムター要塞が攻撃されたことで始まりました。事実上の終わりは1865年4月9日です。南軍のロバート・E・リーが、バージニア州アポマトックス・コートハウスで北軍のユリシーズ・S・グラントに降伏しました。勝ったのは北軍です。戦争は奴隷制の廃止へとつながり、死者は約620,000人から約750,000人とされています。

この記事は19世紀アメリカの関連記事をまとめたトピックに含まれます。北軍を率いた大統領の人物像は、エイブラハム・リンカーンの記事でくわしく扱っています。

南北戦争はいつ始まって、いつ終わったのか

戦争は1861年4月に始まり、主な戦闘は1865年4月に終わりました。終わりの日付は、何を基準にするかで変わります。

  • 開始:1861年4月12日。南部連合の砲台が午前4時30分にサムター要塞へ撃ち始めました。北軍の守備隊を率いたロバート・アンダーソン少佐は、約34時間の砲撃のあと、4月13日に降伏しました。
  • 事実上の終結:1865年4月9日。リーがアポマトックスで降伏し、南軍の主力は戦闘をやめました。兵士たちは仮釈放され、家に帰ることを許されました。
  • 最後の大きな降伏:1865年6月2日。ミシシッピ川以西の南軍を率いたエドモンド・カービー・スミスが、ガルベストン湾の北軍の船の上で降伏文書に署名しました。
  • 奴隷制の法的な廃止:1865年12月6日。ジョージア州が批准したことで、合衆国憲法修正第13条が必要な4分の3の州の数に達しました。この修正条項は、罪に対する刑罰として科される場合を除き、全国で奴隷制を禁じています。

戦争の原因は何だったのか

多くの歴史家は、奴隷制が中心の原因だったと考えています。争点は、新しく開拓される西部の準州や州に奴隷制を広げてよいかどうかでした。南部の指導者たちの多くは、共和党の大統領が奴隷制に反対する政策をとるのではないかと恐れていました。その恐れが、1860年の大統領選挙をきっかけに一気に高まりました。原因の流れをくわしく知りたい方は、南北戦争の原因の記事を、背景はアメリカの奴隷制の記事をご覧ください。

エイブラハム・リンカーンは、1860年11月6日に大統領に選ばれました。得票率は40%ほどでしたが、選挙人団では過半数を得ました。南部の多くの州では、彼の名前は投票用紙に載っていませんでした。リンカーンの当選は、南部の離脱を直接のきっかけにしました。

1860年12月20日、サウスカロライナ州が連邦からの離脱を決めました。チャールストンでの州会議は169対0で可決しました。2月2日までにさらに6州が続き、合計で7州が離脱しました。1861年2月上旬には、離脱した州の代表がアラバマ州のモンゴメリーに集まり、暫定憲法を採択しました。そしてミシシッピ州のジェファーソン・デイヴィスが大統領に選ばれ、副大統領はジョージア州のアレクサンダー・スティーヴンズでした。主要な投票の日付は資料によって4日から9日まで差があります。南部連合には、最終的に11州が加わりました。

北部と南部はどこが違ったのか

北部と南部は、人口、工業、鉄道、そして戦争の目的が大きく違いました。くわしい比較は北軍と南軍の比較でも扱っています。主な違いは次のとおりです。

  • 人口:1860年の国勢調査では、アメリカ合衆国の総人口は31,443,321人でした。そのうち奴隷にされていた人は3,953,760人で、ほとんどは奴隷州に住んでいました。
  • 兵力:国立公園局によると、北軍に入隊した人は2,672,341人です。南軍は記録が失われたり不完全だったりするため数えにくく、国立公園局は750,000人から1,227,890人という幅で示しています。
  • 工業と鉄道:工場の多くは北部にありました。1861年時点の鉄道は、北部の州が22,385マイル、南部連合が8,783マイルでした(国立公園局)。南部は農業に頼っており、武器や機関車、レールをつくる力が弱かったのです。
  • 目的:北部は国の統一を守ることを目指しました。南部は独立と、奴隷制に支えられた社会を守ることを目指しました。

どちらが勝ったのか

勝ったのは北軍です。北部は人口、工業、鉄道、そして海を押さえる力で上回っていました。南部の港を海上から封鎖する作戦は、南部の貿易を大きく制限しました。戦争の途中で、北軍は奴隷制の廃止を戦争の目的としてはっきり掲げるようになりました。その結果、アフリカ系アメリカ人の兵士が北軍に加わり、合衆国有色人種部隊には約179,000人(国立公園局の記録では178,975人)が従軍しました。

戦争の経過

戦いは東と西の二つの戦場で進みました。東部では、バージニア州を中心に、北軍の首都ワシントンと南部連合の首都リッチモンドのあいだで戦いが続きました。西部では、ミシシッピ川、テネシー、ジョージアの方面で戦況が動きました。

1861年:サムター要塞、ブル・ラン、アナコンダ計画

1861年4月12日の砲撃のあと、戦いは全国に広がりました。最初の大きな戦いは、1861年7月21日、バージニア州マナサス付近の第一次ブル・ランの戦いです。南軍が勝ち、北軍は退却してワシントンに戻りました。両軍の死傷者は合計で約5,000人とされています。資料によっては開戦日を7月20日とするものもあるため、日付は慎重に扱う必要があります。

北軍の総司令官だったウィンフィールド・スコットは、南部を締めつけるための戦略を立てました。これは「アナコンダ計画」と呼ばれています。この計画は、南部の海岸を海上封鎖することと、ミシシッピ川を支配することを組み合わせたものでした。下の地図は、この計画を大蛇が締めつけるように描いた1861年の風刺地図です。

1861年のアメリカ合衆国を描いた風刺地図。大蛇が南部の州に巻きつき、海岸の封鎖とミシシッピ川が書き込まれています。
「スコットの大蛇」と題された、J・B・エリオットによる1861年の風刺地図。大蛇は、海岸の封鎖とミシシッピ川の支配によって南部連合を締めつける、スコットの計画を表しています。J.B. Elliott, public domain, via Wikimedia Commons

1862年:装甲艦、アンティータム、解放への道

1862年3月8日、北軍のメリマック号を改造した南軍の装甲艦ヴァージニア号が、バージニア州ハンプトン・ローズで北軍の艦船2隻を沈めました。翌3月9日、北軍の装甲艦モニター号が現れ、回転式の砲塔を備えたモニター号とヴァージニア号が戦いました。装甲艦同士が戦った最初の戦いです。どちらの側も勝てず、引き分けとされています。

1862年9月、リーは部隊をメリーランド州へ進めました。9月17日、アンティータム・クリークのほとりで両軍が戦いました。この日は、南北戦争で一日の死傷者が最も多かった日とされています。北軍が戦術的に勝ったと見なされることが多いです。5日後の9月22日、リンカーンは予備的な奴隷解放宣言を出しました。反乱を続ける州の奴隷は、1863年1月1日の時点で自由とすると予告したものです。

1863年:解放宣言の発効、ゲティスバーグ、ビックスバーグ

1863年1月1日、リンカーンは最終的な奴隷解放宣言を発効させました。これは反乱を続けている州だけに適用されました。すべての奴隷を一度に解放したわけではありません。しかし、奴隷制の廃止を戦争の目的としてはっきり掲げ、アフリカ系アメリカ人が北軍に入る道を開きました。

戦争の流れを決めたのが、1863年7月1日から3日までのペンシルヴェニア州ゲティスバーグの戦いです。南軍のリーは北部への侵攻を試みましたが、丘と農場の広がる町の周辺で北軍と激突しました。ゲティスバーグの戦いでは、参加兵力の数は資料によって幅があります。戦場の保存団体Battlefields.orgの数字では、北軍93,921人、南軍71,699人が参加しました。死傷者はおよそ北軍23,000人、南軍28,000人とされています。ただし、古い資料では北軍が約88,000人、南軍が約75,000人とされているため、数字は幅で見るのが安全です。3日目には、ロングストリート将軍の指揮で約12,500人の南軍兵士が北軍の中央(セメタリー・リッジ)に突撃しました。これは「ピケットの突撃」と呼ばれ、失敗に終わりました。リーは7月4日に撤退を始めました。

1863年7月1日から3日のゲティスバーグの戦場を描いた詳細な地図。丘、道、農場、両軍の配置がわかります。
1863年7月1日から3日のゲティスバーグの戦場の地図。ウォルトジェ&カッティングが1888年に刊行したものです。Woeltje And Cutting, public domain, via Wikimedia Commons

同じ7月4日、ミシシッピ州のビックスバーグが、グラント率いる北軍の包囲戦の末に降伏しました。ミシシッピ川の要衝を失った南部連合は、領土が東西に分断されました。これは、北軍が目指していたアナコンダ計画の目標の一つでもありました。

1864年:グラントとシャーマン

1864年3月、グラントは北軍全体の総司令官になりました。5月4日、リーの軍に向けたオーバーランド作戦が始まり、北軍はラピダン川を渡って南へ進みました。戦いは厳しいものでした。5月31日から6月12日までのコールド・ハーバーの戦いでは、北軍に大きな損害が出ました。グラントは回想録で、6月3日の正面攻撃を戦争中で最も大きな誤りだったと書いています。その後、北軍はリーの軍の補給を支えていたピーターズバーグへ向かいました。1864年6月から、ピーターズバーグの長い包囲が始まり、1865年4月まで続きました。

西部では、シャーマン将軍の軍が、鉄道の要衝であるアトランタを占領しました。1864年9月初めのことです。南軍は8月末から9月初めにかけて市から撤退しており、資料によって日付に差があります。11月中旬、シャーマンはアトランタを出発し、約62,000人の兵とともに海岸を目指しました。この行軍は「海への行軍」と呼ばれ、12月21日にジョージア州のサバナに入りました。下の地図は、その経路を示す陸軍省の地図です。

1864年末、アトランタからサバナまでのシャーマンの行軍経路を示す、当時の陸軍省の地図。
陸軍省が作成した、シャーマンの「海への行軍」(1864年11月から12月、アトランタからジョージア州サバナまで)の地図。United States, War Department, public domain, via Wikimedia Commons

1865年:アポマトックスと戦争の終わり

1865年4月3日、南部連合の首都リッチモンドが陥落し、リーの軍は西へ退却しました。リッチモンドは1861年5月から南部連合の首都でした。

1865年4月9日、リーはバージニア州アポマトックス・コートハウスのウィルマー・マクリーンの家で、グラントに降伏しました。グラントは南軍兵士の仮釈放を認め、家に帰ることを許しました。仮釈放された人数は、資料によって27,805人から28,356人とされています。

4月14日の夜、俳優のジョン・ウィルクス・ブースが、ワシントンのフォード劇場でリンカーン大統領を撃ちました。リンカーンは翌4月15日の朝に亡くなりました。6月2日には、ミシシッピ川以西の南軍を率いたエドモンド・カービー・スミスが降伏しました。これで大きな南軍の降伏は終わりました。

主要な人物

  • エイブラハム・リンカーン(北部):大統領。奴隷解放宣言を出し、1865年4月に暗殺されました。
  • ジェファーソン・デイヴィス(南部):1861年2月に、南部連合の大統領に選ばれました。
  • ユリシーズ・S・グラント(北部):1864年3月に北軍の総司令官となり、リーの降伏を受け入れました。
  • ロバート・E・リー(南部):北バージニア軍の司令官で、アポマトックスで降伏しました。
  • ウィリアム・T・シャーマン(北部):アトランタを占領し、海への行軍を率いました。

死者数と代償

約100年の間、一般的に使われてきた数字は、兵士の死者約620,000人でした。その多くは、戦闘ではなく病気で亡くなりました。2011年、歴史学者のJ・デイヴィッド・ハッカーは国勢調査の記録をもとに、実際の数は約750,000人で、650,000人から850,000人の幅があると推定しました。新しい推定を妥当と見る歴史家も多いですが、正確な数字はわかっていません。

国立公園局の数字では、戦闘による死者は北軍110,100人、南軍94,000人です。病気による死者は北軍224,580人、南軍164,000人、捕虜収容所での死者は北軍30,218人、南軍25,976人です。これらを合計すると約649,000人になります(本記事の計算による)。この数字では、病気で亡くなった人のほうが、戦闘で亡くなった人より多くなっています。

戦争のあとに変わったこと

合衆国憲法修正第13条は、1864年4月8日に上院で38対6、1865年1月31日に下院で119対56で可決されました。1865年12月6日にジョージア州が批准し、必要な州の数に達しました。戦争は奴隷制を終わらせましたが、人種による不平等まで消えたわけではありません。続く再建期には、新しい憲法修正や、解放された人々の権利をめぐる激しい争いが続きました。

試験に出るポイント

南北戦争は、世界史の授業で、奴隷制をめぐる対立、北部と南部の違い、奴隷解放宣言の意味を問う題材として扱われることが多いです。大学入学共通テストの世界史でも、資料や地図を読み取らせる形で、同じような論点が問われる可能性があります。北部と南部のどちらが有利だったのか、なぜ戦争の目的が変わったのかを説明できると、答えやすくなります。年号を覚えるだけでなく、「なぜそうなったか」を言えるようにしておきましょう。

次に読む

  • 南北戦争の原因:奴隷制をめぐる争いが、1860年から1861年の離脱につながった流れ。
  • 北軍と南軍の比較:人口、工業、兵力、目的の違い。
  • エイブラハム・リンカーン:北軍を率いた大統領の歩み。
  • 『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind):南北戦争期のジョージアを舞台にした小説。

軍と部隊

  • 1863年にアレクサンダー・ガードナーが撮影した、座るエイブラハム・リンカーンのスタジオ写真をもとにしたイラスト(illustration) 指揮官 イラスト

    北軍

    エイブラハム・リンカーン

    1861年3月から大統領を務め、北軍の最高司令官でした。この肖像は、アレクサンダー・ガードナーが1863年に撮ったスタジオ写真をもとにしたイラストです。

    Illustration after Alexander Gardner, public domain · 元の画像

  • 1864年、バージニア州コールド・ハーバーで、テントの前の木のそばに立つユリシーズ・S・グラントの写真をもとにしたイラスト(illustration) 指揮官 イラスト

    北軍

    ユリシーズ・S・グラント

    1864年3月に北軍全体の総司令官に任命されました。この絵は、1864年6月ごろにバージニア州コールド・ハーバーで撮られた写真をもとにしたイラストです。

    Illustration after Mathew Benjamin Brady, public domain · 元の画像

  • 1865年ごろ、軍服姿のウィリアム・T・シャーマンのスタジオ肖像をもとにしたイラスト(illustration) 指揮官 イラスト

    北軍

    ウィリアム・T・シャーマン

    1864年にアトランタを占領し、海への行軍を率いたのち、カロライナ州を北へ進みました。この肖像は、1865年ごろのブレイディの写真館の写真をもとにしたイラストです。

    Illustration after Mathew Benjamin Brady, public domain · 元の画像

  • 1865年4月、ロバート・E・リーの写真をもとにしたイラスト(illustration) 指揮官 イラスト

    南軍

    ロバート・E・リー

    北バージニア軍の司令官で、1865年4月9日にアポマトックスでグラントに降伏しました。この絵は、降伏のあとの1865年4月にリッチモンドで撮られたブレイディの写真をもとにしたイラストです。

    Illustration after Brady, Mathew B, public domain · 元の画像

  • 1862年3月、ハンプトン・ローズで戦うモニター号とメリマック号を描いた、カラーのカリアー&アイヴスのリトグラフをもとにしたイラスト(illustration) 艦船 イラスト

    北軍と南軍

    モニター号とヴァージニア号(元メリマック号)

    1862年3月9日、バージニア州ハンプトン・ローズで戦った装甲艦同士の最初の戦いです。回転式砲塔を備えた北軍のモニター号が、メリマック号の船体を使った南軍のヴァージニア号と戦いました。

    Illustration after Currier & Ives, public domain · 元の画像

  • 第54合衆国有色人種歩兵連隊のトンプソン中尉と兵士たちが、土塁の砦で大砲のそばに立つ写真をもとにしたイラスト(illustration) 歩兵 イラスト

    北軍

    合衆国有色人種部隊(USCT)

    アフリカ系アメリカ人の兵士が北軍に入隊し、約179,000人が従軍しました(国立公園局の記録では178,975人)。この絵は、第54合衆国有色人種歩兵連隊のトンプソン中尉と兵士たちが、土塁の砦で大砲のそばに立つ写真をもとにしたイラストです。

    Illustration after Liljenquist Family Collection of Civil War Photographs, public domain · 元の画像

  • 南軍歩兵の制服を着た、身元不明の若い兵士の写真をもとにしたイラスト(illustration) 歩兵 イラスト

    南軍

    南軍の歩兵

    南軍の歩兵は、リーの軍の大部分を占めていました。1863年7月3日のゲティスバーグでは、約12,500人の南軍兵士がピケットの突撃に加わりました。この絵は、身元不明の若い南軍兵士の写真をもとにしたイラストです。

    Illustration after Unknown Unknown . Jebulon for restoration, public domain · 元の画像

  • サーベルを抜いて突撃する北軍騎兵を描いた、1862年の版画シリーズ『The War for the Union』からのイラスト(illustration) 騎兵 イラスト

    北軍

    北軍の騎兵

    サーベルを抜いて突撃する北軍の騎兵を描いた、1862年の版画シリーズ『The War for the Union』の一場面です。1863年7月1日、ゲティスバーグではジョン・ブフォード率いる北軍の騎兵が、歩兵の到着まで南軍の進軍を食い止めました。

    Illustration after BPL, public domain · 元の画像

よくある質問

南北戦争はいつ始まりましたか?

1861年4月12日、南部連合の砲台がチャールストン港のサムター要塞を砲撃したことで始まりました。要塞の守備隊は翌13日に降伏しました。その後、同年7月の第一次ブル・ランの戦いなど、戦いは全国へ広がりました。

南北戦争はいつ終わりましたか?

事実上の終わりは、1865年4月9日、リーがアポマトックスでグラントに降伏した日です。最後の大きな南軍の降伏は同年6月2日でした。奴隷制を全国で禁じる修正第13条は、12月6日に批准されました。

なぜ南北戦争は起きたのですか?

中心には奴隷制をめぐる対立がありました。奴隷制を西部の新しい準州や州に広げてよいかどうかが争点で、1860年のリンカーンの当選を機に、サウスカロライナ州など7州が1861年2月までに連邦を離脱しました。最終的には11州が南部連合に加わりました。

南北戦争はどちらが勝ちましたか?

北軍が勝ちました。北部は人口、工業、鉄道の面で優位にあり、南部の港を封鎖する海上封鎖も効果をあげました。戦争の途中で奴隷制の廃止を目的に加えたことも、北軍の戦い方を大きく変えました。

南北戦争の死者はどのくらいですか?

長く使われてきた推定では約620,000人です。2011年に歴史学者のJ・デイヴィッド・ハッカーが国勢調査の記録から推定した数は、約750,000人で、650,000人から850,000人の幅があります。正確な数はわかっていません。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. 南北戦争が始まったのは何年ですか?

  2. リーがグラントに降伏した場所はどこですか?

  3. アナコンダ計画とは何ですか?

  4. 1863年7月1日から3日の戦いで、戦争の転換点とされるものはどれですか?

  5. 奴隷制を全国で禁じた憲法修正条項はどれですか?

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著者について

Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

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