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南北戦争(アメリカ南北戦争)は、1861年から1865年まで続いた、アメリカ合衆国の内戦です。奴隷制をめぐる対立から、北部の合衆国(北軍)と、南部の州が作った南部連合(南軍)が戦いました。
いつ始まり、いつ終わったのか。戦いは1861年4月12日に、南部連合の砲撃でサムター要塞が攻撃されたことで始まりました。事実上の終わりは1865年4月9日です。南軍のロバート・E・リーが、バージニア州アポマトックス・コートハウスで北軍のユリシーズ・S・グラントに降伏しました。勝ったのは北軍です。戦争は奴隷制の廃止へとつながり、死者は約620,000人から約750,000人とされています。
この記事は19世紀アメリカの関連記事をまとめたトピックに含まれます。北軍を率いた大統領の人物像は、エイブラハム・リンカーンの記事でくわしく扱っています。
南北戦争はいつ始まって、いつ終わったのか
戦争は1861年4月に始まり、主な戦闘は1865年4月に終わりました。終わりの日付は、何を基準にするかで変わります。
- 開始:1861年4月12日。南部連合の砲台が午前4時30分にサムター要塞へ撃ち始めました。北軍の守備隊を率いたロバート・アンダーソン少佐は、約34時間の砲撃のあと、4月13日に降伏しました。
- 事実上の終結:1865年4月9日。リーがアポマトックスで降伏し、南軍の主力は戦闘をやめました。兵士たちは仮釈放され、家に帰ることを許されました。
- 最後の大きな降伏:1865年6月2日。ミシシッピ川以西の南軍を率いたエドモンド・カービー・スミスが、ガルベストン湾の北軍の船の上で降伏文書に署名しました。
- 奴隷制の法的な廃止:1865年12月6日。ジョージア州が批准したことで、合衆国憲法修正第13条が必要な4分の3の州の数に達しました。この修正条項は、罪に対する刑罰として科される場合を除き、全国で奴隷制を禁じています。
戦争の原因は何だったのか
多くの歴史家は、奴隷制が中心の原因だったと考えています。争点は、新しく開拓される西部の準州や州に奴隷制を広げてよいかどうかでした。南部の指導者たちの多くは、共和党の大統領が奴隷制に反対する政策をとるのではないかと恐れていました。その恐れが、1860年の大統領選挙をきっかけに一気に高まりました。原因の流れをくわしく知りたい方は、南北戦争の原因の記事を、背景はアメリカの奴隷制の記事をご覧ください。
エイブラハム・リンカーンは、1860年11月6日に大統領に選ばれました。得票率は40%ほどでしたが、選挙人団では過半数を得ました。南部の多くの州では、彼の名前は投票用紙に載っていませんでした。リンカーンの当選は、南部の離脱を直接のきっかけにしました。
1860年12月20日、サウスカロライナ州が連邦からの離脱を決めました。チャールストンでの州会議は169対0で可決しました。2月2日までにさらに6州が続き、合計で7州が離脱しました。1861年2月上旬には、離脱した州の代表がアラバマ州のモンゴメリーに集まり、暫定憲法を採択しました。そしてミシシッピ州のジェファーソン・デイヴィスが大統領に選ばれ、副大統領はジョージア州のアレクサンダー・スティーヴンズでした。主要な投票の日付は資料によって4日から9日まで差があります。南部連合には、最終的に11州が加わりました。
北部と南部はどこが違ったのか
北部と南部は、人口、工業、鉄道、そして戦争の目的が大きく違いました。くわしい比較は北軍と南軍の比較でも扱っています。主な違いは次のとおりです。
- 人口:1860年の国勢調査では、アメリカ合衆国の総人口は31,443,321人でした。そのうち奴隷にされていた人は3,953,760人で、ほとんどは奴隷州に住んでいました。
- 兵力:国立公園局によると、北軍に入隊した人は2,672,341人です。南軍は記録が失われたり不完全だったりするため数えにくく、国立公園局は750,000人から1,227,890人という幅で示しています。
- 工業と鉄道:工場の多くは北部にありました。1861年時点の鉄道は、北部の州が22,385マイル、南部連合が8,783マイルでした(国立公園局)。南部は農業に頼っており、武器や機関車、レールをつくる力が弱かったのです。
- 目的:北部は国の統一を守ることを目指しました。南部は独立と、奴隷制に支えられた社会を守ることを目指しました。
どちらが勝ったのか
勝ったのは北軍です。北部は人口、工業、鉄道、そして海を押さえる力で上回っていました。南部の港を海上から封鎖する作戦は、南部の貿易を大きく制限しました。戦争の途中で、北軍は奴隷制の廃止を戦争の目的としてはっきり掲げるようになりました。その結果、アフリカ系アメリカ人の兵士が北軍に加わり、合衆国有色人種部隊には約179,000人(国立公園局の記録では178,975人)が従軍しました。
戦争の経過
戦いは東と西の二つの戦場で進みました。東部では、バージニア州を中心に、北軍の首都ワシントンと南部連合の首都リッチモンドのあいだで戦いが続きました。西部では、ミシシッピ川、テネシー、ジョージアの方面で戦況が動きました。
1861年:サムター要塞、ブル・ラン、アナコンダ計画
1861年4月12日の砲撃のあと、戦いは全国に広がりました。最初の大きな戦いは、1861年7月21日、バージニア州マナサス付近の第一次ブル・ランの戦いです。南軍が勝ち、北軍は退却してワシントンに戻りました。両軍の死傷者は合計で約5,000人とされています。資料によっては開戦日を7月20日とするものもあるため、日付は慎重に扱う必要があります。
北軍の総司令官だったウィンフィールド・スコットは、南部を締めつけるための戦略を立てました。これは「アナコンダ計画」と呼ばれています。この計画は、南部の海岸を海上封鎖することと、ミシシッピ川を支配することを組み合わせたものでした。下の地図は、この計画を大蛇が締めつけるように描いた1861年の風刺地図です。

1862年:装甲艦、アンティータム、解放への道
1862年3月8日、北軍のメリマック号を改造した南軍の装甲艦ヴァージニア号が、バージニア州ハンプトン・ローズで北軍の艦船2隻を沈めました。翌3月9日、北軍の装甲艦モニター号が現れ、回転式の砲塔を備えたモニター号とヴァージニア号が戦いました。装甲艦同士が戦った最初の戦いです。どちらの側も勝てず、引き分けとされています。
1862年9月、リーは部隊をメリーランド州へ進めました。9月17日、アンティータム・クリークのほとりで両軍が戦いました。この日は、南北戦争で一日の死傷者が最も多かった日とされています。北軍が戦術的に勝ったと見なされることが多いです。5日後の9月22日、リンカーンは予備的な奴隷解放宣言を出しました。反乱を続ける州の奴隷は、1863年1月1日の時点で自由とすると予告したものです。
1863年:解放宣言の発効、ゲティスバーグ、ビックスバーグ
1863年1月1日、リンカーンは最終的な奴隷解放宣言を発効させました。これは反乱を続けている州だけに適用されました。すべての奴隷を一度に解放したわけではありません。しかし、奴隷制の廃止を戦争の目的としてはっきり掲げ、アフリカ系アメリカ人が北軍に入る道を開きました。
戦争の流れを決めたのが、1863年7月1日から3日までのペンシルヴェニア州ゲティスバーグの戦いです。南軍のリーは北部への侵攻を試みましたが、丘と農場の広がる町の周辺で北軍と激突しました。ゲティスバーグの戦いでは、参加兵力の数は資料によって幅があります。戦場の保存団体Battlefields.orgの数字では、北軍93,921人、南軍71,699人が参加しました。死傷者はおよそ北軍23,000人、南軍28,000人とされています。ただし、古い資料では北軍が約88,000人、南軍が約75,000人とされているため、数字は幅で見るのが安全です。3日目には、ロングストリート将軍の指揮で約12,500人の南軍兵士が北軍の中央(セメタリー・リッジ)に突撃しました。これは「ピケットの突撃」と呼ばれ、失敗に終わりました。リーは7月4日に撤退を始めました。

同じ7月4日、ミシシッピ州のビックスバーグが、グラント率いる北軍の包囲戦の末に降伏しました。ミシシッピ川の要衝を失った南部連合は、領土が東西に分断されました。これは、北軍が目指していたアナコンダ計画の目標の一つでもありました。
1864年:グラントとシャーマン
1864年3月、グラントは北軍全体の総司令官になりました。5月4日、リーの軍に向けたオーバーランド作戦が始まり、北軍はラピダン川を渡って南へ進みました。戦いは厳しいものでした。5月31日から6月12日までのコールド・ハーバーの戦いでは、北軍に大きな損害が出ました。グラントは回想録で、6月3日の正面攻撃を戦争中で最も大きな誤りだったと書いています。その後、北軍はリーの軍の補給を支えていたピーターズバーグへ向かいました。1864年6月から、ピーターズバーグの長い包囲が始まり、1865年4月まで続きました。
西部では、シャーマン将軍の軍が、鉄道の要衝であるアトランタを占領しました。1864年9月初めのことです。南軍は8月末から9月初めにかけて市から撤退しており、資料によって日付に差があります。11月中旬、シャーマンはアトランタを出発し、約62,000人の兵とともに海岸を目指しました。この行軍は「海への行軍」と呼ばれ、12月21日にジョージア州のサバナに入りました。下の地図は、その経路を示す陸軍省の地図です。

1865年:アポマトックスと戦争の終わり
1865年4月3日、南部連合の首都リッチモンドが陥落し、リーの軍は西へ退却しました。リッチモンドは1861年5月から南部連合の首都でした。
1865年4月9日、リーはバージニア州アポマトックス・コートハウスのウィルマー・マクリーンの家で、グラントに降伏しました。グラントは南軍兵士の仮釈放を認め、家に帰ることを許しました。仮釈放された人数は、資料によって27,805人から28,356人とされています。
4月14日の夜、俳優のジョン・ウィルクス・ブースが、ワシントンのフォード劇場でリンカーン大統領を撃ちました。リンカーンは翌4月15日の朝に亡くなりました。6月2日には、ミシシッピ川以西の南軍を率いたエドモンド・カービー・スミスが降伏しました。これで大きな南軍の降伏は終わりました。
主要な人物
- エイブラハム・リンカーン(北部):大統領。奴隷解放宣言を出し、1865年4月に暗殺されました。
- ジェファーソン・デイヴィス(南部):1861年2月に、南部連合の大統領に選ばれました。
- ユリシーズ・S・グラント(北部):1864年3月に北軍の総司令官となり、リーの降伏を受け入れました。
- ロバート・E・リー(南部):北バージニア軍の司令官で、アポマトックスで降伏しました。
- ウィリアム・T・シャーマン(北部):アトランタを占領し、海への行軍を率いました。
死者数と代償
約100年の間、一般的に使われてきた数字は、兵士の死者約620,000人でした。その多くは、戦闘ではなく病気で亡くなりました。2011年、歴史学者のJ・デイヴィッド・ハッカーは国勢調査の記録をもとに、実際の数は約750,000人で、650,000人から850,000人の幅があると推定しました。新しい推定を妥当と見る歴史家も多いですが、正確な数字はわかっていません。
国立公園局の数字では、戦闘による死者は北軍110,100人、南軍94,000人です。病気による死者は北軍224,580人、南軍164,000人、捕虜収容所での死者は北軍30,218人、南軍25,976人です。これらを合計すると約649,000人になります(本記事の計算による)。この数字では、病気で亡くなった人のほうが、戦闘で亡くなった人より多くなっています。
戦争のあとに変わったこと
合衆国憲法修正第13条は、1864年4月8日に上院で38対6、1865年1月31日に下院で119対56で可決されました。1865年12月6日にジョージア州が批准し、必要な州の数に達しました。戦争は奴隷制を終わらせましたが、人種による不平等まで消えたわけではありません。続く再建期には、新しい憲法修正や、解放された人々の権利をめぐる激しい争いが続きました。
試験に出るポイント
南北戦争は、世界史の授業で、奴隷制をめぐる対立、北部と南部の違い、奴隷解放宣言の意味を問う題材として扱われることが多いです。大学入学共通テストの世界史でも、資料や地図を読み取らせる形で、同じような論点が問われる可能性があります。北部と南部のどちらが有利だったのか、なぜ戦争の目的が変わったのかを説明できると、答えやすくなります。年号を覚えるだけでなく、「なぜそうなったか」を言えるようにしておきましょう。
次に読む
- 南北戦争の原因:奴隷制をめぐる争いが、1860年から1861年の離脱につながった流れ。
- 北軍と南軍の比較:人口、工業、兵力、目的の違い。
- エイブラハム・リンカーン:北軍を率いた大統領の歩み。
- 『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind):南北戦争期のジョージアを舞台にした小説。