印象派とは、19世紀後半のフランス、とくにパリを中心に活動した画家たちの絵画の流れです。モネ、ルノワール、ドガ、モリゾ、ピサロなどが代表的な画家で、屋外で見た光や色の移ろいを、素早く迷いのない筆づかいで描きました。題材は、カフェや大通り、川辺、ダンスホールといった当時の暮らしです。名前は、ある批評家の皮肉から生まれ、やがて画家たち自身も使うようになりました。
この記事では、印象派とは何か、どこで生まれ、どのように広まったのかを順番に説明します。日本の読者にとくに身近なのは、浮世絵が印象派に与えた影響です。全体の流れは、19世紀の美術と文化の記事とあわせて読むと理解しやすくなります。
印象派とは?基本の三つのポイント
印象派の画家たちには、三つの共通した習慣がありました。第一に、アトリエで仕上げるよりも、屋外で景色を前にして描くことを重んじました。光は刻々と変わるため、その瞬間の色をすばやく捉える必要があったのです。第二に、影を黒や焦げ茶で塗るのをやめ、青や紫などの色で表そうとしました。第三に、神話や歴史の物語よりも、いま目の前にある都市や自然、人々の暮らしを題材にしました。
「印象」という言葉が示すように、彼らが目指したのは、ある瞬間に目に映った印象を画面に残すことでした。細部を完璧に仕上げるよりも、水面の揺らぎや空気の湿り気、夏の日差しの強さといった感覚を伝えることに関心が向いていたのです。
印象派の歴史:生まれた背景と1863年の落選展
印象派の出発点は、官展(サロン)にあります。当時のフランスでは、毎年開かれる官展の審査に通ることが、画家として認められるための大きな関門でした。1863年、審査員は多くの作品を落としました。皇帝ナポレオン3世は、落とされた作品を集めた展覧会を開くように命じます。これが「落選展」(サロン・デ・ルフュゼ)で、1863年5月15日にパリで開幕しました。5,000点を超える出品作のうち、およそ2,200点が落選したと伝えられています。
この落選展で大きな話題になったのが、エドゥアール・マネの『草上の昼食』です。服を着た男性たちの間に、裸の女性がくつろいで座る構図が、人々の笑いと反発を招きました。マネはこの作品を『水浴』という題名で出品しています。マネ自身は、のちの印象派の展覧会には加わりませんでした。それでも、現代の人々を堂々と描いたマネの姿勢は、若い画家たちに大きな刺激を与えたのです。
1860年代の初めには、のちに印象派となる多くの画家が、シャルル・グレールのアトリエに通っていました。モネ、ルノワール、シスレー、フレデリック・バジールはここで知り合い、やがて屋外で一緒に描くようになります。屋外で描く習慣には、少し前の世代であるバルビゾン派の影響もあります。この派については、ミレーとバルビゾン派の記事で紹介しています。
舞台になったパリの街
印象派の画家たちが描いたのは、大きく姿を変えつつあるパリでした。広い大通りや新しい公園が、街の景色を少しずつ塗り替えていたのです。次の地図は、1876年のパリを二十の区に分けて示したものです。ルノワールが舞踏会の絵を描いた丘のモンマルトルは北側にあり、最初のグループ展が開かれたカプシーヌ大通りは中心部にあります。同じ街の中で、描かれた場所がどこにあったのかを、地図で確かめてみてください。

戦争とロンドン、そして画家たちの新しい組織
1870年7月、フランスはプロイセンとの戦争に入りました。同じ年の秋にはパリが包囲され、画家たちの暮らしも大きく変わります。モネは9月半ばにロンドンへ渡り、ピサロは12月に、南ロンドンに住む親類のもとへ移りました。ピサロのルーヴシエンヌの家は、プロイセン軍によって馬小屋として使われたといわれています。モネがロンドンで描いた風景は数点にとどまりますが、同じように戦禍を逃れてロンドンに来ていた画家ジェームズ・ティソとも交流がありました。

1873年12月、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、モリゾ、ドガらは、官展の審査を通さずに作品を発表するため、画家や彫刻家、版画家による協同組合を作りました。この組織が、翌1874年の第1回グループ展の土台になります。
第1回グループ展(1874年)
第1回展は、1874年4月15日に始まりました。会場は、写真家ナダールの元アトリエだったカプシーヌ大通り35番地の最上階です。会期は5月15日まででした。約30人の画家が参加し、作品は約165点とされています。数え方によっては、もっと多いとする資料もあります。
展覧会を伝える新聞の反応はまちまちで、もっとも有名な批評は、あからさまにからかう調子でした。作品の中には、ベルト・モリゾの『ゆりかご』(1872年)もありました。妹のエドマが、眠る赤ちゃんを見守る場面です。批評家には好意的に受け止められましたが、売れませんでした。
「印象派」という名前の由来
1874年4月25日、批評家のルイ・ルロワが、風刺新聞『ル・シャリヴァリ』に展覧会を皮肉る記事を書きました。対話の形をとったこの記事は、モネの『印象・日の出』という題名を取り上げて、グループ全体を笑いものにしています。ルロワは、画家たちを「印象派」と呼びました。これは、もともとはからかいの言葉です。作品は「印象」を描いただけで、きちんと仕上げられていないと、そしる意味が込められていたのです。
しかし、からかいの言葉は、書いた本人の思惑を超えて残りました。名前は次第に定着し、画家たち自身もこの呼び名を使うようになります。今日「印象派」は、一つの展覧会だけでなく、光と色を重んじる描き方全体を指す言葉になりました。皮肉な名前が、もっとも有名な流派の名前になったのです。
描き方の特徴:光・色・筆づかい
印象派の絵の特徴は、描き方そのものにあります。まず、屋外で景色を前にして描くことが多く、光が変わる前に描き上げようとしました。次に、影に黒や暗い茶色を使わず、色で表そうとしました。そして、ふつうの人々の日常、たとえば舟遊びや川辺、大通りの人波、洪水であふれた道などを、真剣に描く価値のある題材として扱いました。
筆のあとを滑らかに消さず、見える形で残したことも大切です。近くで見ると荒っぽく見えますが、少し離れると、水面や木の葉のきらめきがひとつにまとまって見えてきます。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876年)は、その代表例です。人々や木漏れ日が、細かな色の筆で組み立てられています。この作品は、1877年の第3回展に出品されました。写真が広まりつつあった時代でもあり、大胆な切り取り方を写真と結びつけて語られることもありますが、画家たちは色と筆づかいで描いた点に、写真との違いがありました。
ドガは、パリ・オペラ座の古い稽古場で、バレエの生徒たちと先生を描きました。『踊りの教室』と呼ばれるこの作品は、1874年の作品とされています。シスレーの『ポール=マルリーの洪水』(1876年)は、パリの西にある町の通りに水があふれ、灰色の空の下で居酒屋が水に浸かっている様子を描いています。どちらも、歴史の一場面ではなく、同じ時代の暮らしを描いた絵です。

パリの西、セーヌ川沿いには、モネがアルジャントゥイユで、シスレーがポール=マルリーで描いたように、画家たちが足を運んだ村が点在していました。水辺の光や木々の緑は、印象派の屋外制作を象徴しています。
この描き方は、1870年代だけのものではありません。ピサロの『モンマルトル大通り、春』は1897年の作品で、第1回展から二十年以上あとに描かれました。カサットの『子供の入浴』(1893年)も、1870年代の作品ではありません。年代を見ることで、印象派の流れが長く続いたことがわかります。
印象派の画家たち:モリゾとカサット
ベルト・モリゾは、八回のうち七回の展覧会に出品した、グループでも特に息の長い画家です。作品には、家庭の中の女性や子どもがよく登場します。『ゆりかご』は、現在パリのオルセー美術館にあります。
メアリー・カサットは、アメリカ出身で、パリで活動した画家です。ドガに仲間として迎えられ、1879年からは印象派の展覧会に作品を出しました。『子供の入浴』は、母親が子どもを湯で洗う場面を、上から見下ろすように描いています。画面の平らさや左右非対称の構図には、浮世絵の影響がよく指摘されます。
浮世絵とジャポニスム:日本からの影響
19世紀半ばから、日本の美術品や版画がヨーロッパに届くようになりました。フランスでは、この流行をジャポニスムと呼びます。その出発点としてよく語られるのが、版画家フェリックス・ブラックモンの逸話です。1856年ごろ、彼は印刷所で北斎の『北斎漫画』を見つけたとされます。ただし、この話は後世の語り直しに基づくため、ここでは伝承として扱います。
浮世絵の特徴は、はっきりした輪郭線、平らな色の面、そして思い切った切り取り方にあります。人物が画面の端で途切れていたり、高い位置から地面を見下ろしたりする構図は、奥行きのある西洋の伝統的な舞台とは違う描き方でした。印象派の画家たちは、そこから新しい絵の組み立て方を学んだのです。
いくつかの例を見てみましょう。歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』(1857年)は、雨にけぶる橋と町を、大胆で平らな構図で描いています。モネの『ラ・ジャポネーズ』(1876年)は、妻のカミーユを日本の着物姿で描いた作品です。どちらも、フランスの画家たちが浮世絵とどれほど深く向き合っていたかを示しています。
日本の読者にとって、印象派は浮世絵という身近な美術を通して入りやすい流派です。画家たちが日本の版画から何を取り入れ、どのように自分の絵に生かしたのかを見ると、印象派の画面の見え方が変わってくるでしょう。
八回の展覧会と変わっていったグループ
1874年から1886年にかけて、グループは八回の展覧会を開きました。参加する画家は回によって入れ替わり、誰を招くかをめぐって、主催者の間で意見が分かれることもありました。ピサロは八回すべてに出品したとされています。1877年の第3回展にはルノワールの舞踏会の絵が出品され、1879年からはカサットが加わりました。
1886年5月に開かれた第8回展が、最後の展覧会になりました。ここには、小さな色の点を並べて描く画家、ジョルジュ・スーラとポール・シニャックが参加しています。そして、スーラの『グランド・ジャット島の日曜の午後』が、会場の中心的な作品の一つとなりました。同じ部屋には、ピサロが新しい点描の作品を並べていました。
言葉の整理:印象派、新印象派、後期印象派
印象派、新印象派、後期印象派は、似た言葉ですが、指す内容が違います。印象派は、1874年から1886年のグループ展を中心とする画家たちを指します。新印象派は、スーラやシニャックのように、色の点を並べて画面を組み立てた描き方を指します。後期印象派は、印象派の光への関心を受け継ぎながら、それぞれ独自の道を進んだ画家たちを、まとめて呼ぶ言葉です。
スーラたちの点描は、色の点を並べて画面を組み立てる、より理論的な技法でした。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティスなども、それぞれ別の道を進みました。三つの言葉の区切りは、今でも研究者によって考え方が違います。ひとまず、「いつ・どこで・どの描き方なのか」を分けて覚えると、理解しやすくなります。
「後期印象派」(ポスト印象派)という言葉を広めたのは、批評家で画家のロジャー・フライです。1910年、ロンドンのグラフトン画廊で『マネと後期印象派』と題する展覧会を開きました。ただし、この言葉を最初に使ったのが誰で、いつだったのかについては、今も議論が続いています。
印象派が今も大切な理由
印象派の大きな功績は、絵画が「いま見えているもの」を描いてよいと示したことです。正確な写実よりも、光や空気、瞬間の感覚を重んじたことで、その後の近代絵画への道が開かれました。
作品を見るときの三つのコツ
一つ目は、少し離れて見ることです。近くで見ると筆のあとばかりが目立ちますが、距離をとると、光と色がひとつの場面にまとまります。二つ目は、影の色に注目することです。黒ではなく、青や紫が使われているかどうかで、画家の狙いが見えてきます。
三つ目は、作品の年代を確かめることです。1874年の展覧会に出た作品と、1890年代の作品とでは、同じ印象派でも町の景色の見せ方に違いがあります。年代を手がかりにすると、画家が何を見ていたのかが、より具体的に伝わってきます。
試験に出るポイント
美術や世界史の授業、試験では、次の三つがよく問われます。一つ目は、官展への反発と、1863年の落選展です。二つ目は、都市や余暇などの現代的な主題です。三つ目は、色と筆づかいの新しさです。年号では、1863年の落選展、1874年の第1回展、1886年の第8回展を押さえておくと、流れがつかみやすくなります。教科書でも、印象派は近代ヨーロッパの美術の変化を示す例として扱われることが多いです。
次に読むと理解が深まる記事
- ミレーとバルビゾン派:印象派より前に、屋外で風景を描いた画家たちを紹介します。
- 印象派の代表作と画家たち:この記事で触れた作品や画家を、さらに広く見渡せます。
- ロマン主義とは?:印象派の前の世代が親しんだ、感情と劇的な表現の美術を解説します。