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印象派とは?わかりやすく

10月 30, 2026
印象派は、19世紀後半のフランスで生まれた絵画の流れです。モネやルノワール、モリゾなどの画家たちは、アトリエの外で光の移ろいを描き、日常のパリを題材にしました。彼らは1874年に、官展の外でグループ展を開いています。

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4:54

印象派とは?わかりやすく

基本データ

時期
1860年代から1886年まで(第1回展は1874年)
場所
フランス・パリ
主な画家
モネ、ルノワール、ドガ、モリゾ、ピサロ、シスレー、カサット
代表作
モネ『印象・日の出』(1872年)
名前の由来
ルイ・ルロワの風刺的な展覧会評(1874年4月25日)
最後の展覧会
1886年、第8回展

年表

項目をタップすると詳しく読めます。矢印キーで移動できます。

  1. 1856年ごろ(伝承)

    ブラックモンが『北斎漫画』に出会う

    よく紹介される話では、版画家のフェリックス・ブラックモンが、印刷所で北斎の画集『北斎漫画』を見つけたとされています。ただし、この出来事の細部は後世の語り直しに基づくため、伝承として読んでください。フランスのジャポニスムの出発点として語られることが多い場面です。

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  2. 1863年5月15日

    落選展(サロン・デ・ルフュゼ)がパリで開幕

    1863年の落選展に出品された、マネの『草上の昼食』の絵画
    Édouard Manet, public domain, via Wikimedia Commons

    ナポレオン3世の命令で、官展の審査で落とされた作品を展示する展覧会が開かれました。その年、5,000点を超える出品作のうち、約2,200点が落選したと伝えられています。マネの『草上の昼食』は『水浴』の題名で出品され、笑いと反発の両方を招きました。

    1863年のほかの記事:1863年の記事をもっと

  3. 1870年

    普仏戦争が始まり、画家たちが散り散りになる

    フランスとプロイセンの戦争が7月に始まり、秋にはパリが包囲されました。モネは9月半ばにロンドンへ渡り、ピサロは12月に南ロンドンの親類のもとへ移っています。ピサロのルーヴシエンヌの家は、プロイセン軍によって馬小屋として使われたといわれています。

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  4. 1872年

    モネが『印象・日の出』を描く

    ル・アーヴルの港を夜明けに描いた作品で、霧の中の小舟と、低く昇るオレンジ色の太陽が描かれています。1874年の第1回展に出品され、その題名がグループの名前の由来になりました。

  5. 1873年12月

    画家たちが共同組織を作る

    モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、モリゾ、ドガらが参加しました。官展の審査を通さずに作品を見せることを目指し、翌年の第1回展へとつながりました。

  6. 1874年4月15日

    第1回グループ展がカプシーヌ大通り35番地で開幕

    パリのカプシーヌ大通り35番地にあった、ナダールのアトリエの正面写真
    Nadar, public domain, via Wikimedia Commons

    写真家ナダールの元アトリエで開かれ、5月15日まで続きました。約30人の画家が参加し、作品は約165点とされています。数え方によっては、もっと多いとする資料もあります。

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  7. 1874年4月15日〜5月15日

    展覧会の目録が作られる

    1874年の第1回展の目録ページ(カプシーヌ大通り35番地)
    Imprimerie Alcan-Levy, public domain, via Wikimedia Commons

    展覧会のために作られた目録です。出品作の中には、モリゾの『ゆりかご』(1872年)もあり、批評家には好意的に受け止められましたが、売れませんでした。

  8. 1874年4月25日

    ルイ・ルロワの風刺的な展覧会評が『ル・シャリヴァリ』に載る

    ルロワは、対話の形で展覧会を笑いものにしました。その中で、モネの『印象・日の出』の題名が使われています。「印象派」という言葉は、悪口として生まれましたが、のちに定着しました。

  9. 1877年

    第3回展にルノワールの舞踏会の絵が出品される

    ルノワールは1876年にモンマルトルの屋外ダンスホールを描き、その作品が1877年の第3回展に出品されました。木漏れ日が、日曜日に集まった人々の上にゆれる場面です。

  10. 1879年

    カサットがグループ展に加わる

    ドガに仲間として迎えられたアメリカ出身の画家、カサットが、この年からグループ展に出品しました。のちの『子供の入浴』(1893年)は、浮世絵の影響がよく指摘される作品です。

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  11. 1886年5月

    第8回展が開かれ、最後の展覧会となる

    公園で過ごすパリの人々を点描で描いた、スーラの絵画
    Georges Seurat, public domain, via Wikimedia Commons

    点描の技法を使うスーラとシニャックが参加し、グループ内では誰を招くかをめぐって意見が割れました。スーラの『グランド・ジャット島の日曜の午後』は、会場の中心的な作品の一つでした。

  12. 1910年

    ロンドンで『マネと後期印象派』展が開かれる

    批評家で画家のロジャー・フライが、ロンドンのグラフトン画廊で展覧会を開きました。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティスの作品が、英国の観客に紹介されています。この展覧会から「後期印象派」という言葉が広まったとされていますが、最初に使ったのは誰かは議論されています。

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地図

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  • 1876年の、二十の区に分かれたパリの詳細な街路図

    オーギュスト・ロジェが描いた1876年のパリ地図。二十の区に分かれた街を示しています。

    Auguste Logerot, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1870年のパリと周辺の地図。城壁が描かれている

    1870年のパリと周辺の地図。城壁が描かれており、普仏戦争が始まった年の地図です。

    Publisher: L. Prang & Co, public domain, via Wikimedia Commons

  • セーヌ川の谷を含む、パリ西方の道路地図

    年代不明の19世紀のパリ近郊の道路地図。パリ西方のセーヌ川の谷を示し、多くの印象派の画家が絵を描いた場所です。

    Bibliothèque nationale de France, public domain, via Wikimedia Commons

印象派とは、19世紀後半のフランス、とくにパリを中心に活動した画家たちの絵画の流れです。モネ、ルノワール、ドガ、モリゾ、ピサロなどが代表的な画家で、屋外で見た光や色の移ろいを、素早く迷いのない筆づかいで描きました。題材は、カフェや大通り、川辺、ダンスホールといった当時の暮らしです。名前は、ある批評家の皮肉から生まれ、やがて画家たち自身も使うようになりました。

この記事では、印象派とは何か、どこで生まれ、どのように広まったのかを順番に説明します。日本の読者にとくに身近なのは、浮世絵が印象派に与えた影響です。全体の流れは、19世紀の美術と文化の記事とあわせて読むと理解しやすくなります。

印象派とは?基本の三つのポイント

印象派の画家たちには、三つの共通した習慣がありました。第一に、アトリエで仕上げるよりも、屋外で景色を前にして描くことを重んじました。光は刻々と変わるため、その瞬間の色をすばやく捉える必要があったのです。第二に、影を黒や焦げ茶で塗るのをやめ、青や紫などの色で表そうとしました。第三に、神話や歴史の物語よりも、いま目の前にある都市や自然、人々の暮らしを題材にしました。

「印象」という言葉が示すように、彼らが目指したのは、ある瞬間に目に映った印象を画面に残すことでした。細部を完璧に仕上げるよりも、水面の揺らぎや空気の湿り気、夏の日差しの強さといった感覚を伝えることに関心が向いていたのです。

印象派の歴史:生まれた背景と1863年の落選展

印象派の出発点は、官展(サロン)にあります。当時のフランスでは、毎年開かれる官展の審査に通ることが、画家として認められるための大きな関門でした。1863年、審査員は多くの作品を落としました。皇帝ナポレオン3世は、落とされた作品を集めた展覧会を開くように命じます。これが「落選展」(サロン・デ・ルフュゼ)で、1863年5月15日にパリで開幕しました。5,000点を超える出品作のうち、およそ2,200点が落選したと伝えられています。

この落選展で大きな話題になったのが、エドゥアール・マネの『草上の昼食』です。服を着た男性たちの間に、裸の女性がくつろいで座る構図が、人々の笑いと反発を招きました。マネはこの作品を『水浴』という題名で出品しています。マネ自身は、のちの印象派の展覧会には加わりませんでした。それでも、現代の人々を堂々と描いたマネの姿勢は、若い画家たちに大きな刺激を与えたのです。

1860年代の初めには、のちに印象派となる多くの画家が、シャルル・グレールのアトリエに通っていました。モネ、ルノワール、シスレー、フレデリック・バジールはここで知り合い、やがて屋外で一緒に描くようになります。屋外で描く習慣には、少し前の世代であるバルビゾン派の影響もあります。この派については、ミレーとバルビゾン派の記事で紹介しています。

舞台になったパリの街

印象派の画家たちが描いたのは、大きく姿を変えつつあるパリでした。広い大通りや新しい公園が、街の景色を少しずつ塗り替えていたのです。次の地図は、1876年のパリを二十の区に分けて示したものです。ルノワールが舞踏会の絵を描いた丘のモンマルトルは北側にあり、最初のグループ展が開かれたカプシーヌ大通りは中心部にあります。同じ街の中で、描かれた場所がどこにあったのかを、地図で確かめてみてください。

1876年の、二十の区に分かれたパリの詳細な街路図
オーギュスト・ロジェが描いた1876年のパリ地図。二十の区に分かれた街を示しています。Auguste Logerot, public domain, via Wikimedia Commons

戦争とロンドン、そして画家たちの新しい組織

1870年7月、フランスはプロイセンとの戦争に入りました。同じ年の秋にはパリが包囲され、画家たちの暮らしも大きく変わります。モネは9月半ばにロンドンへ渡り、ピサロは12月に、南ロンドンに住む親類のもとへ移りました。ピサロのルーヴシエンヌの家は、プロイセン軍によって馬小屋として使われたといわれています。モネがロンドンで描いた風景は数点にとどまりますが、同じように戦禍を逃れてロンドンに来ていた画家ジェームズ・ティソとも交流がありました。

1870年のパリと周辺の地図。城壁が描かれている
1870年のパリと周辺の地図。城壁が描かれており、普仏戦争が始まった年の地図です。Publisher: L. Prang & Co, public domain, via Wikimedia Commons

1873年12月、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、モリゾ、ドガらは、官展の審査を通さずに作品を発表するため、画家や彫刻家、版画家による協同組合を作りました。この組織が、翌1874年の第1回グループ展の土台になります。

第1回グループ展(1874年)

第1回展は、1874年4月15日に始まりました。会場は、写真家ナダールの元アトリエだったカプシーヌ大通り35番地の最上階です。会期は5月15日まででした。約30人の画家が参加し、作品は約165点とされています。数え方によっては、もっと多いとする資料もあります。

展覧会を伝える新聞の反応はまちまちで、もっとも有名な批評は、あからさまにからかう調子でした。作品の中には、ベルト・モリゾの『ゆりかご』(1872年)もありました。妹のエドマが、眠る赤ちゃんを見守る場面です。批評家には好意的に受け止められましたが、売れませんでした。

「印象派」という名前の由来

1874年4月25日、批評家のルイ・ルロワが、風刺新聞『ル・シャリヴァリ』に展覧会を皮肉る記事を書きました。対話の形をとったこの記事は、モネの『印象・日の出』という題名を取り上げて、グループ全体を笑いものにしています。ルロワは、画家たちを「印象派」と呼びました。これは、もともとはからかいの言葉です。作品は「印象」を描いただけで、きちんと仕上げられていないと、そしる意味が込められていたのです。

しかし、からかいの言葉は、書いた本人の思惑を超えて残りました。名前は次第に定着し、画家たち自身もこの呼び名を使うようになります。今日「印象派」は、一つの展覧会だけでなく、光と色を重んじる描き方全体を指す言葉になりました。皮肉な名前が、もっとも有名な流派の名前になったのです。

描き方の特徴:光・色・筆づかい

印象派の絵の特徴は、描き方そのものにあります。まず、屋外で景色を前にして描くことが多く、光が変わる前に描き上げようとしました。次に、影に黒や暗い茶色を使わず、色で表そうとしました。そして、ふつうの人々の日常、たとえば舟遊びや川辺、大通りの人波、洪水であふれた道などを、真剣に描く価値のある題材として扱いました。

筆のあとを滑らかに消さず、見える形で残したことも大切です。近くで見ると荒っぽく見えますが、少し離れると、水面や木の葉のきらめきがひとつにまとまって見えてきます。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876年)は、その代表例です。人々や木漏れ日が、細かな色の筆で組み立てられています。この作品は、1877年の第3回展に出品されました。写真が広まりつつあった時代でもあり、大胆な切り取り方を写真と結びつけて語られることもありますが、画家たちは色と筆づかいで描いた点に、写真との違いがありました。

ドガは、パリ・オペラ座の古い稽古場で、バレエの生徒たちと先生を描きました。『踊りの教室』と呼ばれるこの作品は、1874年の作品とされています。シスレーの『ポール=マルリーの洪水』(1876年)は、パリの西にある町の通りに水があふれ、灰色の空の下で居酒屋が水に浸かっている様子を描いています。どちらも、歴史の一場面ではなく、同じ時代の暮らしを描いた絵です。

セーヌ川の谷を含む、パリ西方の道路地図
年代不明の19世紀のパリ近郊の道路地図。パリ西方のセーヌ川の谷を示し、多くの印象派の画家が絵を描いた場所です。Bibliothèque nationale de France, public domain, via Wikimedia Commons

パリの西、セーヌ川沿いには、モネがアルジャントゥイユで、シスレーがポール=マルリーで描いたように、画家たちが足を運んだ村が点在していました。水辺の光や木々の緑は、印象派の屋外制作を象徴しています。

この描き方は、1870年代だけのものではありません。ピサロの『モンマルトル大通り、春』は1897年の作品で、第1回展から二十年以上あとに描かれました。カサットの『子供の入浴』(1893年)も、1870年代の作品ではありません。年代を見ることで、印象派の流れが長く続いたことがわかります。

印象派の画家たち:モリゾとカサット

ベルト・モリゾは、八回のうち七回の展覧会に出品した、グループでも特に息の長い画家です。作品には、家庭の中の女性や子どもがよく登場します。『ゆりかご』は、現在パリのオルセー美術館にあります。

メアリー・カサットは、アメリカ出身で、パリで活動した画家です。ドガに仲間として迎えられ、1879年からは印象派の展覧会に作品を出しました。『子供の入浴』は、母親が子どもを湯で洗う場面を、上から見下ろすように描いています。画面の平らさや左右非対称の構図には、浮世絵の影響がよく指摘されます。

浮世絵とジャポニスム:日本からの影響

19世紀半ばから、日本の美術品や版画がヨーロッパに届くようになりました。フランスでは、この流行をジャポニスムと呼びます。その出発点としてよく語られるのが、版画家フェリックス・ブラックモンの逸話です。1856年ごろ、彼は印刷所で北斎の『北斎漫画』を見つけたとされます。ただし、この話は後世の語り直しに基づくため、ここでは伝承として扱います。

浮世絵の特徴は、はっきりした輪郭線、平らな色の面、そして思い切った切り取り方にあります。人物が画面の端で途切れていたり、高い位置から地面を見下ろしたりする構図は、奥行きのある西洋の伝統的な舞台とは違う描き方でした。印象派の画家たちは、そこから新しい絵の組み立て方を学んだのです。

いくつかの例を見てみましょう。歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』(1857年)は、雨にけぶる橋と町を、大胆で平らな構図で描いています。モネの『ラ・ジャポネーズ』(1876年)は、妻のカミーユを日本の着物姿で描いた作品です。どちらも、フランスの画家たちが浮世絵とどれほど深く向き合っていたかを示しています。

日本の読者にとって、印象派は浮世絵という身近な美術を通して入りやすい流派です。画家たちが日本の版画から何を取り入れ、どのように自分の絵に生かしたのかを見ると、印象派の画面の見え方が変わってくるでしょう。

八回の展覧会と変わっていったグループ

1874年から1886年にかけて、グループは八回の展覧会を開きました。参加する画家は回によって入れ替わり、誰を招くかをめぐって、主催者の間で意見が分かれることもありました。ピサロは八回すべてに出品したとされています。1877年の第3回展にはルノワールの舞踏会の絵が出品され、1879年からはカサットが加わりました。

1886年5月に開かれた第8回展が、最後の展覧会になりました。ここには、小さな色の点を並べて描く画家、ジョルジュ・スーラとポール・シニャックが参加しています。そして、スーラの『グランド・ジャット島の日曜の午後』が、会場の中心的な作品の一つとなりました。同じ部屋には、ピサロが新しい点描の作品を並べていました。

言葉の整理:印象派、新印象派、後期印象派

印象派、新印象派、後期印象派は、似た言葉ですが、指す内容が違います。印象派は、1874年から1886年のグループ展を中心とする画家たちを指します。新印象派は、スーラやシニャックのように、色の点を並べて画面を組み立てた描き方を指します。後期印象派は、印象派の光への関心を受け継ぎながら、それぞれ独自の道を進んだ画家たちを、まとめて呼ぶ言葉です。

スーラたちの点描は、色の点を並べて画面を組み立てる、より理論的な技法でした。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マティスなども、それぞれ別の道を進みました。三つの言葉の区切りは、今でも研究者によって考え方が違います。ひとまず、「いつ・どこで・どの描き方なのか」を分けて覚えると、理解しやすくなります。

「後期印象派」(ポスト印象派)という言葉を広めたのは、批評家で画家のロジャー・フライです。1910年、ロンドンのグラフトン画廊で『マネと後期印象派』と題する展覧会を開きました。ただし、この言葉を最初に使ったのが誰で、いつだったのかについては、今も議論が続いています。

印象派が今も大切な理由

印象派の大きな功績は、絵画が「いま見えているもの」を描いてよいと示したことです。正確な写実よりも、光や空気、瞬間の感覚を重んじたことで、その後の近代絵画への道が開かれました。

作品を見るときの三つのコツ

一つ目は、少し離れて見ることです。近くで見ると筆のあとばかりが目立ちますが、距離をとると、光と色がひとつの場面にまとまります。二つ目は、影の色に注目することです。黒ではなく、青や紫が使われているかどうかで、画家の狙いが見えてきます。

三つ目は、作品の年代を確かめることです。1874年の展覧会に出た作品と、1890年代の作品とでは、同じ印象派でも町の景色の見せ方に違いがあります。年代を手がかりにすると、画家が何を見ていたのかが、より具体的に伝わってきます。

試験に出るポイント

美術や世界史の授業、試験では、次の三つがよく問われます。一つ目は、官展への反発と、1863年の落選展です。二つ目は、都市や余暇などの現代的な主題です。三つ目は、色と筆づかいの新しさです。年号では、1863年の落選展、1874年の第1回展、1886年の第8回展を押さえておくと、流れがつかみやすくなります。教科書でも、印象派は近代ヨーロッパの美術の変化を示す例として扱われることが多いです。

次に読むと理解が深まる記事

  • ミレーとバルビゾン派:印象派より前に、屋外で風景を描いた画家たちを紹介します。
  • 印象派の代表作と画家たち:この記事で触れた作品や画家を、さらに広く見渡せます。
  • ロマン主義とは?:印象派の前の世代が親しんだ、感情と劇的な表現の美術を解説します。

軍と部隊

  • 霧の立つ朝の港を描いた油彩画。小舟と、低いオレンジ色の太陽が見える 作品

    印象派

    クロード・モネ『印象・日の出』(1872年)

    1872年に、朝のル・アーヴルの港を描いた作品です。1874年の第1回展に出品され、批評家のルイ・ルロワがこの題名を皮肉に使いました。

    Claude Monet, public domain, via Wikimedia Commons

  • モンマルトルの屋外のダンスホールで、木々の下に集まって踊り、話す人々を描いた絵画 作品

    印象派

    ピエール=オーギュスト・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876年)

    1876年に、モンマルトルの屋外ダンスホールで踊る日曜日の人々を描いた作品です。木漏れ日が人々の上で揺れる明るい画面で、1877年の第3回展に出品されました。

    Pierre-Auguste Renoir, public domain, via Wikimedia Commons

  • 鏡と壁のポスターがある稽古場で、バレエの踊り子たちと先生を描いた絵画 作品

    印象派

    エドガー・ドガ『踊りの教室』(1874年)

    パリ・オペラ座の古い稽古場で、バレエの生徒たちと先生を描いた作品です。1874年の作品とされています。

    Edgar Degas, public domain, via Wikimedia Commons

  • 白い薄布で覆われた揺りかごの赤ちゃんを見つめる女性を描いた絵画 作品

    印象派

    ベルト・モリゾ『ゆりかご』(1872年)

    妹のエドマが、眠る赤ちゃんを見守る姿を描いた作品です。1874年の第1回展に出品され、現在はパリのオルセー美術館にあります。

    Berthe Morisot, public domain, via Wikimedia Commons

  • 春の光の中、木々や馬車が見える、上から眺めたパリの賑やかな大通りの絵画 作品

    印象派

    カミーユ・ピサロ『モンマルトル大通り、春』(1897年)

    高い位置から見下ろした、パリの大通りの春の風景です。第1回展の二十年以上あとに描かれ、ピサロが長く都市の風景を描き続けたことを示します。

    Camille Pissarro, public domain, via Wikimedia Commons

  • 水に浸かった町の通りに、居酒屋が灰色の空の下で立つ絵画 作品

    印象派

    アルフレッド・シスレー『ポール=マルリーの洪水』(1876年)

    セーヌ川があふれ、パリの西にあるポール=マルリーの通りが水に沈んだ様子を描いた作品です。灰色の空の下で、居酒屋が水に浸かっています。

    Alfred Sisley, public domain, via Wikimedia Commons

  • 子どもを桶の湯で洗う母親を、上から見下ろすように描いた絵画 作品

    印象派

    メアリー・カサット『子供の入浴』(1893年)

    アメリカ出身で、パリで活動したカサットの作品です。母親が子どもを湯で洗う場面を、上から描いています。1879年からグループ展に出品しました。

    Mary Cassatt, public domain, via Wikimedia Commons

  • 服を着た男性二人と、草の上でくつろぐ裸の女性を描いた絵画 作品

    先駆者

    エドゥアール・マネ『草上の昼食』(1863年)

    1863年の官展で落選し、落選展で『水浴』の題名で出品された作品です。現代の人物を大胆に描いたことで、若い画家たちに影響を与えました。マネ自身は印象派の展覧会には加わっていません。

    Édouard Manet, public domain, via Wikimedia Commons

よくある質問

印象派とは、どんな絵画ですか?

印象派は、19世紀後半のフランスで生まれた絵画の流れです。画家たちは屋外で光や色の変化を捉え、カフェや大通り、川辺などの暮らしの風景を、素早い筆づかいで描きました。目指したのは、完璧に仕上がった室内の絵ではなく、ある瞬間の見えかたを残すことでした。

なぜ「印象派」と呼ばれるのですか?

1874年4月25日、批評家のルイ・ルロワが『ル・シャリヴァリ』紙に風刺的な展覧会評を書きました。彼は、モネの『印象・日の出』の題名を取り上げ、画家たちを皮肉って「印象派」と呼びました。悪口として生まれた名前ですが、やがて画家たち自身も使うようになりました。

代表的な画家は誰ですか?

中心となったのは、モネ、ルノワール、ドガ、モリゾ、ピサロ、シスレーです。アメリカ出身のカサットも、1879年からグループ展に出品しました。マネは展覧会には加わりませんでしたが、若い画家たちに大きな影響を与えました。

印象派はいつ始まり、いつ終わりましたか?

起源は1860年代にあり、第1回のグループ展は1874年に開かれました。最後の第8回展は1886年です。その後、新印象派や後期印象派が、この流れから生まれています。

浮世絵は印象派にどんな影響を与えましたか?

浮世絵は、平らな色の面、はっきりした輪郭線、思い切った構図を特徴としています。印象派の画家たちは、そこから新しい画面の組み立て方を学びました。モネは1876年に妻を日本の着物姿で描き、カサットの『子供の入浴』にも、浮世絵の影響がよく指摘されます。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. 印象派の第1回グループ展がパリで開かれたのは、いつですか?

  2. グループに「印象派」という名前を与えた批評家は誰ですか?

  3. 落選展(サロン・デ・ルフュゼ)とは何ですか?

  4. モネの作品で、グループの名前の由来になったのはどれですか?

  5. 伝承によると、ブラックモンが1856年ごろ印刷所で見つけたとされる本は何ですか?

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著者について

Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

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