5分でわかる
ウィーン体制とは、ナポレオン戦争が終わった後に、ヨーロッパの大国が協調して革命を抑え、秩序を守ろうとした仕組みです。簡単に言うと、大国が定期的に話し合い、古い王家の支配を守る取り決めのことです。1814年から始まったウィーン会議で基本の枠組みが作られ、オーストリアのメッテルニヒが中心となって進めました。この体制は1815年ごろから1848年ごろまで続いたとされ、その間、大国どうしの大きな戦争は起きませんでした。ただ、自由や国民の独立を求める動きは各地で広がり、体制は次第に行き詰まっていきます。
ウィーン体制ができた背景
1792年に始まったフランス革命の戦争は、ナポレオンが皇帝になったあとも長く続きました。ヨーロッパの多くの国は、領土を奪われたり、ナポレオンの支配下に置かれたりしました。1814年4月にナポレオンが退位してエルバ島に送られると、勝った国々はウィーンに集まり、戦後の国境と王家の配置を決めることにしました。これがウィーン会議です。
会議の議長を務めたのが、オーストリアの外相メッテルニヒでした。会議の最終議定書は1815年6月9日に署名されました。このとき、ナポレオンは1814年にエルバ島へ送られた後、1815年2月に脱出し、3月にはパリに戻っていました。「百日天下」と呼ばれる時期です。戦勝国は一時的に結束を強め、6月にワーテルローの戦いでナポレオンを破りました。
メッテルニヒや各国の君主たちは、革命の思想や国民主義が戦争と混乱の原因だと考えていました。そのため、古い王家の支配を守ること、そして大国の力のバランスを保つことを優先したのです。ナポレオン時代の流れはナポレオンの時代の解説でも確認できます。
ウィーン体制の仕組みと各会議
ウィーン体制の考え方は「正統主義」と呼ばれます。革命やナポレオンの支配で倒された王家を、正当な統治者と見なし、その地位を回復させるという考え方です。
もう一つの柱は「協調」です。大国は同盟を結び、定期的に会議を開いて、ヨーロッパ全体の問題を話し合いました。英語では「コンサート・オブ・ヨーロッパ(Concert of Europe)」と呼ばれ、ウィーン体制を支えた中心的な仕組みです。ただし、各国の利害は一致しないことも多く、常に足並みがそろっていたわけではありません。
- 神聖同盟(1815年):ロシア、オーストリア、プロイセンが結びました。キリスト教の道徳に基づく政治をうたいましたが、実際の効果は限られていました。
- 四国同盟(1815年):イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアが結びました。フランスが再び脅威になることを防ぎ、会議を定期的に開くことを約束しました。
- フランスの参加(1818年):アーヘン会議でフランスが同盟に加わり、五国による協調になりました。
さらに大国は、ある国で起きた革命が周りに広がるおそれがあると考えました。そこで、大国が共同で革命を抑えることも認められました。これを「干渉」と言います。それまでの勢力均衡とは違い、国内の政治にまで大国が口を出す点が、この体制の大きな特徴でした。
大国はこの考えに沿って、何度か会議を開きました。どの会議でも、革命にどう対応するかが大きな議題になりました。
- アーヘン会議(1818年):フランスの占領が終わり、フランスは大国の一員に戻りました。
- トロッパウ会議(1820年):オーストリア、プロイセン、ロシアが、革命で政府が倒された国には列強が介入できるという考えを示しました。
- ライバッハ会議(1821年):ナポリで起きた革命への対応が話し合われ、オーストリア軍が派遣されて反乱を鎮圧しました。
- ヴェローナ会議(1822年):スペインの情勢が話し合われ、フランスがスペインに干渉することが認められました。
この流れの中で、イギリスは次第に距離を置くようになりました。イギリスは体制の一員でしたが、他国の内政に軍事介入することには慎重でした。ヴェローナ会議でも、スペインへの干渉を支持しなかったことが知られています。ヴェローナ会議は、大国が集まった最後の大きな会議となりました。それでも1815年から1853年まで、大国どうしの大きな戦争が起きなかったことは、この体制の数少ない成果として評価されています。
ウィーン体制はなぜ崩壊したのか
ウィーン体制が崩れた理由は一つではありません。革命を抑えるという考え方は、自由を求める人々や、国として独立しようとする民族の動きを止められませんでした。また、大国どうしの利害も一致しなかったのです。主な出来事を順に見ていきましょう。
- ギリシャ独立戦争(1821年〜):オスマン帝国からの独立をめざす戦いで、ロシアとオーストリアの利害が対立しました。その後、イギリス、フランス、ロシアが共同でギリシャ独立を支える行動をとりました。
- 七月革命(1830年):フランスでシャルル10世が倒されました。ベルギーもオランダから独立へ向かい、ロンドンでの会議で解決が図られました。会議がまだ機能していた例です。
- 1848年の革命:ウィーンでも三月革命が起き、メッテルニヒは辞職してイギリスへ亡命しました。体制の中心人物が去り、正統主義の力は大きく弱まりました。
- クリミア戦争(1853〜1856年):ロシアがオスマン帝国と戦い、イギリスとフランスがオスマン側に立って参戦しました。オーストリアは中立を保ち、ロシアに対してドナウ公国から撤退するよう圧力をかけました。ロシアはこれに失望したとされます。1856年のパリ条約で戦争は終わりましたが、多くの歴史家は、この戦争で大国の協調が事実上崩れたと見ています。
ウィーン体制は、ある日突然なくなったわけではありません。1820年代の対立、1830年代の革命、1840年代の混乱が少しずつ積み重なって、力を失っていったと考えると理解しやすいです。
なお、ウィーン体制の終わりについては、見方が分かれます。1848年の革命を区切りとする説と、クリミア戦争を区切りとする説があります。どちらを採るかで答えが変わるため、試験では理由を添えて説明できるようにしておくと安心です。
よくある誤解と評価
ウィーン体制は、ひとつの条約ではありません。ウィーン会議の最終議定書と、その後に結ばれた同盟や会議の積み重ねを総称した言葉です。そのため、「1815年に決まった体制が、そのまま1848年まで続いた」と考えると、実態とずれてしまいます。会議ごとに大国の意見が変わり、体制の中身も少しずつ変わっていきました。
また、ウィーン体制はメッテルニヒ一人の政策だと思われがちですが、実際にはロシアのアレクサンドル1世や、イギリスの外相など、ほかの大国の協力があって成り立っていました。メッテルニヒは議長として中心的な役割を果たしましたが、それは大国全体の合意の上でのことでした。
さらに、ウィーン体制は国際連盟のような常設の組織ではありませんでした。本部も事務局もなく、大国の会議と同盟によって動いていた、ゆるやかな仕組みだったのです。
ウィーン体制の評価は、見る立場によって分かれます。肯定的に見る人は、1815年から1853年まで大国どうしの大きな戦争がなかったことを、大きな成果と考えます。長い戦争で疲れきったヨーロッパが安定を求めたことには、十分な理由がありました。
一方で、否定的に見る人は、この体制が自由や国民国家を求める動きを抑え込んだと指摘します。革命に対しては軍事的な干渉が行われ、言論や出版への統制も強まりました。そのため、ウィーン体制は「保守的な秩序」の象徴として語られることが多いです。どちらの見方もあると知っておくと、論述問題で役立ちます。
試験に出るポイント
試験では、次の3点が問われやすいです。作られた理由、主な考え方、そして崩れた理由です。
- 作られた理由:ナポレオン戦争後の秩序を安定させるため。
- 主な考え方:正統主義と協調、革命への干渉。
- 崩れた理由:ナショナリズムの高まり、大国の利害の対立、1848年の革命とクリミア戦争。
比較の例としては、第一次世界大戦後に作られた国際連盟があります。どちらも大国が話し合って平和を守ろうとした点は似ています。ただし、国際連盟には常設の事務局があり、ウィーン体制にはそのような組織がなかった、という違いを押さえておきましょう。
関連して読みたいページ
まずウィーン会議(1814〜1815年)で、戦後の交渉の流れを確認するとわかりやすいです。次にメッテルニヒの記事で、体制を動かした人物の考え方を読んでみてください。背景を知りたいときはナポレオン・ボナパルトとはも役立ちます。