ナポレオン戦争とは?5分でわかる
ナポレオン戦争は、1803年から1815年まで続いた、フランスの皇帝ナポレオンと、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアなどの大国との戦争です。ナポレオンはヨーロッパの広い地域に支配を広げようとし、それを止めようとする国々が何度も同盟を組み直しました。そのため、一つの戦争というより、約12年にわたる一連の戦いと言ったほうが正確です。
まず押さえたいのは、次の三点です。
- いつ:1803年から1815年まで
- 誰と誰:フランス(ナポレオン)対 イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアなど
- 結末:1814年にナポレオンが退位し、1815年のワーテルローの戦いで決定的に敗れた
戦場はスペインからロシアまで広がり、海の上ではイギリス海軍とフランスの貿易封鎖がぶつかり合いました。ナポレオンはどのように勢力を広げ、なぜ最後に敗れたのか。この二つを追うと、ナポレオン戦争の全体像がつかめます。
ヨーロッパ近代史の流れをつかむうえで、フランス革命とウィーン体制をつなぐこの戦争は欠かせない出来事です。
ナポレオン戦争のきっかけ
ナポレオン戦争の背景には、フランス革命(1789年)があります。革命の後、フランスは周辺の君主国にとって警戒すべき存在になりました。1799年、ナポレオンはクーデターで政権を握り、統領となります。1802年にはイギリスとのあいだで短い平和(アミアンの和約)が結ばれましたが、長くは続きませんでした。1803年5月、イギリスがフランスに宣戦し、戦争が再開されます。
対立は大きく二つありました。一つは陸の上の対立です。ナポレオンは、併合や従属国、同盟関係を通じて、フランスの影響力を広げていきました。オーストリアやプロイセン、ロシアの君主たちは、この拡大を自国への脅威と考えます。
もう一つは海と貿易の対立です。イギリスは当時もっとも強い海軍を持っていました。ナポレオンはその経済力をくじくため、ヨーロッパの港をイギリス船に閉ざす「大陸封鎖令」を、1806年11月に出します。どちらの側も相手を追いつめる手段を使い、そのたびに新たな戦いが起こりました。
こうした対立のなかで、ヨーロッパの国々は何度も同盟を組みました。これを「対仏大同盟」と呼びます。ナポレオン戦争の期間には、第3次(第三次)から第7次(第七次)まで、それぞれ異なる顔ぶれで結ばれ、そのたびに戦争の形が変わっていきました。
年表でみる主な戦い
ナポレオン戦争は、大きな戦いと外交の変化が交互にやってくる戦争でした。主な出来事を年表で確認しておきましょう。
- 1804年12月:ナポレオンがパリで皇帝に即位します。
- 1805年10月:トラファルガーの海戦で、イギリス海軍がフランス・スペインの連合艦隊を破ります。イギリス側の指揮官ネルソンは戦死しました。
- 1805年12月:アウステルリッツの戦いで、ナポレオンがオーストリアとロシアの連合軍を破ります。
- 1806年10月:イエナとアウエルシュタットの戦いで、プロイセン軍が大敗します。
- 1808年5月:スペインでマドリードの民衆蜂起が起き、半島戦争が始まります。戦いは1814年まで続きました。
- 1809年7月:ヴァグラムの戦いで、ナポレオンがオーストリアに勝ちます。
- 1812年6月:ナポレオンがロシアへの侵攻を始めます。
- 1812年9月:フランス軍がモスクワに入りますが、市街は大きく焼けていました。
- 1812年10月〜12月:モスクワからの撤退が始まり、飢えと寒さのなかで多くの兵士を失います。
- 1813年10月:ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で、フランス軍が大きく後退します。
- 1814年4月:連合軍がパリに入り、ナポレオンは退位してエルバ島へ送られます。
- 1815年3月:ナポレオンがエルバ島を脱出し、フランスに戻ります。これが「百日天下」の始まりです。
- 1815年6月:ワーテルローの戦いで、イギリス・プロイセンの連合軍がナポレオン軍を破ります。
前半:フランスの快進撃(1804〜1807年)
1805年のトラファルガーの海戦は、イギリス海軍の優位を決定づけた戦いです。ナポレオンはイギリス本土への侵攻を実現できず、戦いの中心は大陸へ移っていきます。同じ年のアウステルリッツの戦いでは、ナポレオンがオーストリアとロシアの連合軍を破りました。その後、イエナとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を破り、フランスはヨーロッパ中部で大きな力を持つようになります。
中盤:泥沼の半島戦争(1808〜1812年)
1808年にスペインでマドリードの民衆蜂起が起きると、フランス軍は占領に苦しみます。イギリスのウェリントン軍がポルトガルとスペインで戦い、この半島戦争は1814年まで続きました。ゲリラ戦が広がった戦場としても知られ、フランス軍の力を大きく消耗させます。同じ時期、ナポレオンはオーストリアとの戦い(1809年のヴァグラムの戦い)にも勝ちましたが、戦争の代償は少しずつ大きくなっていきました。
後半:包囲と終わり(1813〜1815年)
ロシア遠征の失敗のあと、ナポレオンは再び兵を集めますが、対抗する連合軍はすでに態勢を整えていました。1813年のライプツィヒの戦いでは、ヨーロッパの大軍が集まり、フランス軍は後退を余儀なくされます。1814年にパリが陥落し、ナポレオンは退位してエルバ島へ送られました。1815年に島を脱出して戻った「百日天下」の後、ワーテルローで敗れるまで、戦争はほぼ休みなく続きました。
ロシア遠征が転機になった理由
1812年のロシア遠征は、ナポレオン戦争の大きな転機です。ナポレオンはヨーロッパ各地から集めた大軍を率いて国境を越えました。兵士の多くは、フランス以外の同盟国や従属国から集められた人々でした。ロシアは大陸封鎖令を守りきれなくなっており、ナポレオンはそれを見過ごせなかったとされます。
ロシア軍は決戦を避けて退き続け、フランス軍の補給線は長く伸びていきました。9月のボロジノの戦いは両軍に大きな損害を出し、フランス軍はモスクワに入ります。しかし市街の大部分は火災で焼け、ロシア皇帝は和平の申し入れに応じませんでした。ナポレオンは講和が結ばれることを期待していたとされますが、その期待は叶いませんでした。
10月になると撤退が始まります。食料不足、病気、寒さが重なり、フランス軍は多くの兵士を失いました。捕虜や行方不明者を含めた損失は数十万人規模とされますが、数字には幅があり、正確な数は今も議論されています。この敗北を機に、プロイセンやオーストリアが反ナポレオンの側に回り、戦争は新たな局面に入りました。
ウィーン会議と戦争の結末
1814年、ナポレオンは退位してエルバ島に送られ、フランスではブルボン家の王政が復活しました。しかし1815年3月、ナポレオンはエルバ島を脱出してフランス南部に上陸し、パリへ向かいます。この「百日天下」は、6月18日のワーテルローの戦いで終わりました。イギリス軍とプロイセン軍の連合軍が勝利し、ナポレオンは再び退位します。彼は南大西洋のセントヘレナ島に流され、1821年にそこで亡くなりました。
戦争の後始末を担ったのは、ウィーン会議(1814〜1815年)です。各国の代表は、フランスの拡大を抑えつつ、大国どうしの力のバランスを保つことを目指しました。その取り決めは「ウィーン体制」と呼ばれ、1815年以降のヨーロッパの国際関係を支える枠組みになります。この会議では、革命の理念よりも君主国どうしの安定が重視されたことも特徴です。
同じ1815年の11月には、パリで講和条約が結ばれ、戦争は正式に終わりました。フランスは、ナポレオンが築いた領土の多くを失いました。一方でイギリスは海上の優位を固め、その後の世界で大きな影響力を持つことになります。
戦争の傷跡も大きいものでした。スペインやプロイセンでは、占領への抵抗を通じて民族意識が育ったと考えられており、それが後の時代のナショナリズムにつながっていきます。死者の数は数百万人規模とも言われますが、推定には幅があり、確かな数字は示しにくいのが実情です。
試験に出るポイント
世界史の授業や入試では、ナポレオン戦争だけを単独で扱うより、「フランス革命」「ウィーン体制」「ナショナリズム」の流れのなかで問われることが多くあります。押さえておきたいポイントは次の三つです。
- ナポレオンの大陸支配と、それに対する対仏大同盟の結成(ナポレオン戦争の期間は第3次(第三次)〜第7次(第七次))
- イギリスの海上支配と、大陸封鎖令をめぐる経済的な対立
- ウィーン会議による戦後秩序(ウィーン体制)が、その後のヨーロッパの安定を目指したこと
「なぜ」を答えるときは、ナポレオンの勢力拡大への警戒と、イギリスとフランスの経済的な対立をセットにすると説明しやすくなります。「どう変わったか」を問われたら、ロシア遠征とウィーン会議を結びつけて答えましょう。
次に読むなら
ナポレオン戦争の前後の流れをつかみたい方は、まずナポレオン時代の特集ページに目を通すと、帝国の成立から会議までが一度に見えてきます。そのうえで、次の記事もおすすめです。
- ナポレオン戦争の年表:年ごとの出来事をさらに細かく追えます。
- ワーテルローの戦い(1815年):最後の決戦がどのように進んだのかを追えます。
- ナポレオン・ボナパルトとは:コルシカ島の生まれから皇帝になるまでを追えます。
- 『高慢と偏見』(Pride and Prejudice):戦争が続くなか、イギリスの田舎町を舞台にした小説です。戦争は主に背景として描かれ、民兵連隊の士官や遠くの戦況のニュースから、当時の空気が伝わってきます。