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マリー・アントワネットがギロチンで処刑されたのは、1793年10月16日の正午過ぎです。夫ルイ16世が処刑されてから9か月後のことでした。革命政府は、彼女を外国と結んだ反逆者であり、王政の象徴だと見なしました。そのため、裁判は政治的な見せしめとして進められました。
処刑までの流れは、三つの要素で説明できます。一つ目は、彼女がオーストリア出身で、フランスが戦争を始めた相手国の王家につながっていたことです。二つ目は、革命が王政そのものを否定する方向へ進んだことです。三つ目は、恐怖政治のもとで、政治的な見せしめとなる裁判が使われたことです。
フランス革命の大きな流れは、フランス革命の全体像(1789〜1799年)で確認できます。
マリー・アントワネットはなぜ処刑されたのか
彼女は1755年11月2日にウィーンで生まれた、ハプスブルク家の大公女です。1770年にフランス王太子ルイ(のちのルイ16世)と結婚し、1774年に夫が国王に即位すると王妃になりました。外国の出身であることは、宮廷の内外で早くから注目を集める理由になりました。
革命が始まると、王室は国民の不満の的になりました。宮廷の華やかな暮らしや、財政が苦しいなかでの出費を批判する風刺画や小冊子が広く出回ります。彼女は「贅沢好きの王妃」として描かれることが増えました。どこまで実際に政治を動かしていたかについて、史家の評価は分かれています。それでも、人々が抱いた王妃のイメージは、のちの裁判にも大きく影を落としました。
1791年6月には、王一家が国外へ逃れようとして、途中のヴァレンヌで捕まる事件が起きました。この逃亡の失敗で、王室への信頼は大きく崩れます。同じ年の9月には新しい憲法が成立し、フランスは立憲君主制になりましたが、信頼が回復したとはいえません。
1792年4月には、フランスがオーストリアに宣戦布告し、戦争が始まりました。王妃がオーストリアの宮廷と連絡を取っているという噂は、このころから一段と強まります。8月10日には、パリの民衆と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃し、王一家は捕らえられてタンプル塔に幽閉されました。9月には王政が廃止されます。翌1793年1月21日には、夫のルイ16世が革命広場でギロチンにより処刑されました。
1793年の春には、対外戦争で苦戦が続き、西部ではヴァンデの反乱が広がりました。国内の不安が高まるなかで、政府は強権的な手段を重ねていきます。
王が亡くなったあとも、王妃は革命政府にとって危険な存在と見られ続けました。王党派や外国の君主が王家の復活をもくろんでいるという疑いが強まり、王妃は「王党派の旗頭」として警戒されたのです。夏には息子のルイ=シャルルも母親から引き離され、8月にはパリの牢獄コンシェルジュリーへ移されました。
裁判で問われた三つの罪
1793年10月14日、革命裁判所で王妃の裁判が始まりました。革命裁判所は、1793年3月に反革命的な罪を裁くために設けられた特別法廷です。同年9月には「容疑者法」が定められ、疑わしいとされた人物を逮捕できる範囲が大きく広がりました。検察官はフーキエ=タンヴィルが務めました。
判決で有罪とされた罪は、大きく三つに分けられます。
- 外国勢力と共謀し、フランスの敵に協力したこと。
- 国庫の財産を浪費し、国の財政を傷つけたこと。
- フランス国家の安全を危険にさらした大逆罪。
審理では、息子との関係をめぐる、きわめて悪質な告発もなされました。彼女はこれに直接答えず、その場にいた母親たちに訴えるような言葉で応じたと伝えられています。この告発は、彼女の評判を落とすための政治的な攻撃として語られることが多いです。
多くの史家は、この裁判を公正なものとは見ていません。王妃には弁明の準備をする時間がほとんど与えられず、夫ルイ16世の裁判と比べても、準備期間の短さが目立ちます。結論の決まった政治的な見せしめだったという見方が、今では一般的です。
王妃の処刑には、王党派に向けたメッセージという意味もあったとされています。王家は二度と戻らないと示すことで、革命の成果を守ろうとしたという解釈です。
判決は10月16日の未明、午前4時ごろに言い渡されました。有罪で、死刑です。彼女は牢獄に戻され、処刑までのわずかな時間を過ごしました。
処刑の日に何が起きたのか
10月16日の昼前、王妃は荷車に乗せられ、革命広場へ向かいました。広場の中央には、木製の高い処刑台が組まれ、ギロチンが据えられていました。道沿いには大勢の人が集まり、彼女の姿を見守っていたと伝えられています。
処刑は市民が見守るなかで公開で行われました。政府にとって、公開の場で刑を執行することは、力を示す手段でもあったのです。
裁判では未亡人の黒い服を着ていましたが、処刑の日には白い簡素な服だったと伝えられています。髪は短く切られ、両手は後ろで縛られていました。
処刑は午後12時15分ごろに行われました。執行人は、シャルル=アンリ・サンソンでした。サンソン家は、代々パリで死刑執行を担ってきた一族として知られています。
処刑台に上がる際、彼女は執行人の足を誤って踏んでしまい、そのことを詫びたという逸話が伝わっています。ただし、この話は後の記録によるもので、言葉の細部は資料ごとに異なります。ここでは、そう伝えられているという範囲にとどめておくのが適切です。
遺体は、パリのマドレーヌ墓地に無名の墓として葬られたとされています。享年は37歳でした。革命広場は、のちにコンコルド広場と呼ばれるようになり、今ではパリの代表的な広場の一つとして知られています。
処刑が残したもの
王妃の処刑は、王政がフランスでは完全に過去のものになったことを示す出来事でした。国王も王妃も失った革命政府は、王党派や外国勢力への警戒をさらに強め、恐怖政治の勢いは増していきます。
一方で、この処刑は革命の内部にも深い影を落としました。恐怖政治は、王政の支持者だけでなく、革命の仲間にも容赦なく向けられていきます。1794年7月、ロベスピエールが逮捕され処刑されると、恐怖政治は終わりに向かいました。多くの史家は、この時期を、革命が自分たちの指導者を裁き合った段階として読み解いています。
王政復古の時代には、彼女とルイ16世を追悼する礼拝堂が、二人が葬られた墓地の跡地に建てられました。王党派にとって、彼女は殉難者として記憶されていくのです。
王妃の死は、フランス革命が王家の人々にまで及んだことを示すとともに、政治的な裁判がどのように使われるかを後世に伝える例にもなっています。小説や映画で彼女の最期が描かれることは今も多いですが、物語の印象に引きずられると、政治的な事情が見えにくくなります。裁判の仕組みと時代の流れをあわせて見ることが、出来事を正しく理解する近道です。
試験に出るポイント
試験では、処刑の細かな時刻よりも、革命のどの段階で何が起きたのかという流れが問われることが多くあります。教科書でも、ルイ16世の処刑とあわせて、革命が急進化した事例として扱われることが一般的です。次の点を押さえておくと、問題を解きやすくなります。
- ルイ16世の処刑(1793年1月)と王妃の処刑(1793年10月)の順序と背景。
- 革命裁判所が、政治的な敵を素早く裁く役割を担ったこと。
- 恐怖政治が、ロベスピエールの失脚(1794年7月)で終わったこと。
王妃の処刑を、夫ルイ16世の処刑(1793年1月)と混同しないように注意してください。
「なぜ」を問われたら、オーストリアとの戦争、王政の否定、見せしめとしての裁判という三つを並べて説明すると、筋道の通った答えになります。この流れを自分の言葉で説明できることが、答案を組み立てる力になります。
次に読む
前提と流れを知りたいときは、次のページも続けて読んでみてください。
- マリー・アントワネットとは誰だったのか:生い立ちと宮廷での立場から、処刑に至る背景が見えてきます。
- ルイ16世はどんな王だったのか:夫が処刑(1793年1月)されるまでの経緯を、王の側から追えます。
- マリー・アントワネットの首はどうなったのか:処刑のあとに何が起きたのかを、別の角度から取り上げています。