三部会(さんぶかい)は、フランスで身分ごとの代表が集まった会議です。1789年5月5日、国王ルイ16世は、ヴェルサイユでこの三部会を開きました。1614年以来、約175年ぶりの開会です。
この会議は、深刻な財政危機を乗り越えるために、新しい税の承認を得ることを目的としていました。しかし、議決の方法をめぐって身分どうしが対立し、会議は行き詰まります。6月17日、第三身分は自らを国民議会と名乗り、この出来事がフランス革命の大きな出発点になりました。
フランス革命全体の流れは、フランス革命の解説(1789〜1799年)でまとめています。この記事では、三部会がなぜ開かれ、どこで行き詰まり、その後どのようにつながったのかを、順番に見ていきます。
三部会とは何か:身分の仕組み
フランス社会は、身分によって権利と義務が分かれていました。第一身分は聖職者で、教会の高位の聖職者から地方の司祭までが含まれます。第二身分は貴族で、領地や軍の要職、税の免除などの特権を持っていました。第三身分は、それ以外のすべての人々です。商人や職人、農民、法律家などがここに含まれ、国民の大部分を占めていました。
三部会は、この身分ごとに代表を集める会議でした。議決も身分単位で行うのが従来の方法とされていました。身分ごとに1票ずつ投じるなら、聖職者と貴族が手を組んだ時点で、第三身分の意見は通りにくくなります。
議員の顔ぶれ
聖職者の議員には、司教や修道院長から地方の司祭までが含まれました。貴族の議員は、宮廷に近い大貴族から地方の中小領主まで幅がありました。第三身分の議員は、弁護士などの法律家や商人、各種の専門職の人々が多く、議会での討論や手続きに慣れた人が目立ちました。
三部会が開かれた理由
1614年以来の空白
三部会が最後に開かれたのは1614年です。その後、国王は長く三部会を開きませんでした。税の決まりは、王の命令と高等法院の登録で進められていたのです。そのため、税制をめぐる不満は、長いあいだ解決されないまま残っていました。
財政危機
フランスは多額の借金を抱えていました。きっかけは、1778年にアメリカ独立戦争へ参戦したことで戦費がかさんだことです。政府は毎年約1億5000万リーヴルの赤字を出していたとされます。税の仕組みを改めなければ、財政を立て直せない状況でした。その時の税は、貴族や聖職者の負担が軽く、農民などの第三身分に重くかかっていました。
特権身分への課税をめぐる対立
改革案には、土地にかかる税を、特権身分にも課す内容が含まれていました。貴族や聖職者は、税を免除されることを特権と考えていたため、名士会や高等法院は改革に反対しました。彼らは、新しい税を承認できるのは三部会だけだと主張しました。最終的に国王は、三部会を開く決断をしたのです。
陳情書に込められた不満
三部会の招集が決まると、各地で選挙が行われ、代表たちは地域の不満や要望を陳情書(カイエ・ド・ドレアンス)にまとめました。税の公平化、法制度の改革、定期的な三部会の開催などを求める声が多くありました。財政の混乱は大臣たちの無能さのせいだという批判も、陳情書に多く見られます。
第三身分の不満
第三身分は、国民の大部分を占めながら、特権はほとんどありませんでした。税の負担は重く、高い身分や地位に就く道も限られていました。1789年初め、聖職者出身のシエイエスは、第三身分こそ国民そのものであり、政治の主役になるべきだという主張を小冊子で広く訴えました。
1788年末、国王は第三身分の代表数を2倍にすると決めました。その結果、第三身分はおよそ600人、聖職者と貴族はそれぞれおよそ300人の議席を持つことになりました。ただし、数を増やしても、議決が身分ごとに行われるなら、第三身分の票は3票のうち1票にとどまります。ここに、三部会が行き詰まる根がありました。
1789年5月から7月まで:何が起きたか
1789年5月5日、三部会はヴェルサイユのメヌ=プレジール館で開会しました。議事の進め方と議決の方法をめぐり、身分どうしの話し合いは進みませんでした。およそ6週間、会議は膠着状態に陥ります。
議決方法の対立
第一身分と第二身分は、身分ごとに1票を投じる方式(身分別議決)を求めました。これは特権を守るための方法でした。一方、第三身分は、議員一人ひとりが1票を持つ方式(頭数による議決)を求めました。人口の多い第三身分にとって、この方式なら多数を得られる可能性がありました。
第三身分の議員の中には、ミラボーのように、演説で議会の立場を強く打ち出す人物もいました。ミラボーは、革命の初期を代表する政治家として知られています。
国民議会の宣言
6月17日、第三身分は自分たちを「国民議会」と宣言しました。採決は491票対89票でした。三部会を構成する一つの身分ではなく、国民全体を代表するという考えを示したのです。この宣言は、議会の性格を大きく変える一歩でした。
球戯場(きゅうぎじょう)の誓い
6月20日、議場が閉鎖されたため、議員たちは近くの室内球技場(テニスコート)に集まりました。そこで彼らは、憲法ができあがるまで議会を解散しないと誓ったのです。これが「球戯場の誓い」で、別名は「テニスコートの誓い」です。ほぼ満場一致だったとされ、議会の決意を示す象徴になりました。
国王の会議と第三身分の残留
6月23日、国王は王の会議を開き、改革の方針を示しました。同時に、三部会を身分ごとに分かれて審議するよう命じました。しかし、第三身分の議員は退場せず、議場に残りました。6月27日、国王は聖職者と貴族にも第三身分と合流するよう告げました。こうして、身分ごとに審議するという古い形式は、事実上崩れていきました。
その後:革命はどう広がったか
7月9日、第三身分の議会は「憲法制定国民議会」と名前を改め、憲法づくりに取りかかりました。7月14日には、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃します。議会の動きと民衆の行動が重なり、革命は国王の思惑を超えて広がっていきました。
8月には、議会が封建的特権の廃止を決議し、人間と市民の権利の宣言も採択されました。1792年には王政が廃止され、共和政へと進みます。歴史家の多くは、三部会の行き詰まりが、古い身分制の枠組みを崩す転機だったと見ています。ただし、革命の原因は財政、思想、社会の不満が重なったものであり、三部会だけで説明できるわけではありません。
三部会と国民議会の違い
三部会は、身分ごとの代表が集まる、伝統的な会議の名前です。一方、国民議会は、1789年6月に第三身分が名乗った新しい議会の名前です。両者は連続していますが、名前と役割が変わった点を理解しておく必要があります。二つを混同しないことが、試験でも大切です。
当時の人々の暮らし
三部会が開かれた1789年は、人々の暮らしが苦しい時期でもありました。1788年は、夏の雹害(ひょうがい)や不作が重なり、パンの値段が高騰しました。都市の職人や農民にとって、食料を買えるかどうかは切実な問題でした。こうした生活の苦しさが、三部会への期待と、改革を求める声の背景にありました。
試験に出るポイント
世界史の試験では、三部会は革命の原因と経過の両方で扱われやすい項目です。押さえたいポイントは三つあります。一つ目は、財政危機と特権身分の免税が結びついていたこと。二つ目は、議決方法の争いが身分制そのものへの挑戦になったこと。三つ目は、第三身分が国民議会を名乗り、政治の主体は国民だという考えが表に出たことです。
論述問題では、「なぜ議決方法が問題になったのか」を、特権、身分、人口の関係から説明できると安心です。年号は、1789年5月5日(開会)、6月17日(国民議会)、6月20日(球戯場の誓い)、7月14日(バスティーユ襲撃)の順で整理しておきましょう。
次に読む記事
身分制度の背景を先に知りたい方は、アンシャン・レジームと三つの身分から読むと流れがつかめます。三部会のあとに生まれた議会については、1789年の国民議会で詳しく見ています。国王の立場から見たい方は、ルイ16世はどんな人物だったのかもあわせてどうぞ。