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三部会とは(1789年)

10月 29, 2026
三部会は、1789年5月にルイ16世がヴェルサイユで招集した、聖職者・貴族・第三身分の代表による会議です。財政危機の打開が目的でしたが、議決方法をめぐる対立から、第三身分は国民議会を名乗り、フランス革命が本格化しました。

シリーズ: フランス革命とは?わかりやすく(いつ・流れ・結果)

5分要約を聞く

5:26

三部会とは(1789年)

基本データ

開会日
1789年5月5日
場所
ヴェルサイユ(フランス)
招集者
国王ルイ16世
目的
財政危機の打開と新しい税の承認
前回の開会
1614年
転機
6月17日に第三身分が国民議会を宣言
議員数
約1,200人(うち第三身分は約600人)

年表

  1. 1614年

    三部会が開かれ、これが1789年以前の最後の開会になります。

  2. 1788年末

    国王が第三身分の代表数を2倍にすると決めます。

  3. 1789年初め

    各地で陳情書(カイエ・ド・ドレアンス)が作られます。

  4. 1789年5月5日

    三部会がヴェルサイユで開会します。

  5. 1789年5月から6月

    議決方法をめぐり、議事が行き詰まります。

  6. 1789年6月17日

    第三身分が自らを国民議会と宣言します。

  7. 1789年6月20日

    球戯場の誓いが行われます。

  8. 1789年6月23日

    国王が王の会議を開き、第三身分は議場に残ります。

  9. 1789年6月27日

    国王が聖職者と貴族に第三身分との合流を告げます。

  10. 1789年7月9日

    第三身分の議会が憲法制定国民議会と改称します。

  11. 1789年7月14日

    パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃します。

三部会(さんぶかい)は、フランスで身分ごとの代表が集まった会議です。1789年5月5日、国王ルイ16世は、ヴェルサイユでこの三部会を開きました。1614年以来、約175年ぶりの開会です。

この会議は、深刻な財政危機を乗り越えるために、新しい税の承認を得ることを目的としていました。しかし、議決の方法をめぐって身分どうしが対立し、会議は行き詰まります。6月17日、第三身分は自らを国民議会と名乗り、この出来事がフランス革命の大きな出発点になりました。

フランス革命全体の流れは、フランス革命の解説(1789〜1799年)でまとめています。この記事では、三部会がなぜ開かれ、どこで行き詰まり、その後どのようにつながったのかを、順番に見ていきます。

三部会とは何か:身分の仕組み

フランス社会は、身分によって権利と義務が分かれていました。第一身分は聖職者で、教会の高位の聖職者から地方の司祭までが含まれます。第二身分は貴族で、領地や軍の要職、税の免除などの特権を持っていました。第三身分は、それ以外のすべての人々です。商人や職人、農民、法律家などがここに含まれ、国民の大部分を占めていました。

三部会は、この身分ごとに代表を集める会議でした。議決も身分単位で行うのが従来の方法とされていました。身分ごとに1票ずつ投じるなら、聖職者と貴族が手を組んだ時点で、第三身分の意見は通りにくくなります。

議員の顔ぶれ

聖職者の議員には、司教や修道院長から地方の司祭までが含まれました。貴族の議員は、宮廷に近い大貴族から地方の中小領主まで幅がありました。第三身分の議員は、弁護士などの法律家や商人、各種の専門職の人々が多く、議会での討論や手続きに慣れた人が目立ちました。

三部会が開かれた理由

1614年以来の空白

三部会が最後に開かれたのは1614年です。その後、国王は長く三部会を開きませんでした。税の決まりは、王の命令と高等法院の登録で進められていたのです。そのため、税制をめぐる不満は、長いあいだ解決されないまま残っていました。

財政危機

フランスは多額の借金を抱えていました。きっかけは、1778年にアメリカ独立戦争へ参戦したことで戦費がかさんだことです。政府は毎年約1億5000万リーヴルの赤字を出していたとされます。税の仕組みを改めなければ、財政を立て直せない状況でした。その時の税は、貴族や聖職者の負担が軽く、農民などの第三身分に重くかかっていました。

特権身分への課税をめぐる対立

改革案には、土地にかかる税を、特権身分にも課す内容が含まれていました。貴族や聖職者は、税を免除されることを特権と考えていたため、名士会や高等法院は改革に反対しました。彼らは、新しい税を承認できるのは三部会だけだと主張しました。最終的に国王は、三部会を開く決断をしたのです。

陳情書に込められた不満

三部会の招集が決まると、各地で選挙が行われ、代表たちは地域の不満や要望を陳情書(カイエ・ド・ドレアンス)にまとめました。税の公平化、法制度の改革、定期的な三部会の開催などを求める声が多くありました。財政の混乱は大臣たちの無能さのせいだという批判も、陳情書に多く見られます。

第三身分の不満

第三身分は、国民の大部分を占めながら、特権はほとんどありませんでした。税の負担は重く、高い身分や地位に就く道も限られていました。1789年初め、聖職者出身のシエイエスは、第三身分こそ国民そのものであり、政治の主役になるべきだという主張を小冊子で広く訴えました。

1788年末、国王は第三身分の代表数を2倍にすると決めました。その結果、第三身分はおよそ600人、聖職者と貴族はそれぞれおよそ300人の議席を持つことになりました。ただし、数を増やしても、議決が身分ごとに行われるなら、第三身分の票は3票のうち1票にとどまります。ここに、三部会が行き詰まる根がありました。

1789年5月から7月まで:何が起きたか

1789年5月5日、三部会はヴェルサイユのメヌ=プレジール館で開会しました。議事の進め方と議決の方法をめぐり、身分どうしの話し合いは進みませんでした。およそ6週間、会議は膠着状態に陥ります。

議決方法の対立

第一身分と第二身分は、身分ごとに1票を投じる方式(身分別議決)を求めました。これは特権を守るための方法でした。一方、第三身分は、議員一人ひとりが1票を持つ方式(頭数による議決)を求めました。人口の多い第三身分にとって、この方式なら多数を得られる可能性がありました。

第三身分の議員の中には、ミラボーのように、演説で議会の立場を強く打ち出す人物もいました。ミラボーは、革命の初期を代表する政治家として知られています。

国民議会の宣言

6月17日、第三身分は自分たちを「国民議会」と宣言しました。採決は491票対89票でした。三部会を構成する一つの身分ではなく、国民全体を代表するという考えを示したのです。この宣言は、議会の性格を大きく変える一歩でした。

球戯場(きゅうぎじょう)の誓い

6月20日、議場が閉鎖されたため、議員たちは近くの室内球技場(テニスコート)に集まりました。そこで彼らは、憲法ができあがるまで議会を解散しないと誓ったのです。これが「球戯場の誓い」で、別名は「テニスコートの誓い」です。ほぼ満場一致だったとされ、議会の決意を示す象徴になりました。

国王の会議と第三身分の残留

6月23日、国王は王の会議を開き、改革の方針を示しました。同時に、三部会を身分ごとに分かれて審議するよう命じました。しかし、第三身分の議員は退場せず、議場に残りました。6月27日、国王は聖職者と貴族にも第三身分と合流するよう告げました。こうして、身分ごとに審議するという古い形式は、事実上崩れていきました。

その後:革命はどう広がったか

7月9日、第三身分の議会は「憲法制定国民議会」と名前を改め、憲法づくりに取りかかりました。7月14日には、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃します。議会の動きと民衆の行動が重なり、革命は国王の思惑を超えて広がっていきました。

8月には、議会が封建的特権の廃止を決議し、人間と市民の権利の宣言も採択されました。1792年には王政が廃止され、共和政へと進みます。歴史家の多くは、三部会の行き詰まりが、古い身分制の枠組みを崩す転機だったと見ています。ただし、革命の原因は財政、思想、社会の不満が重なったものであり、三部会だけで説明できるわけではありません。

三部会と国民議会の違い

三部会は、身分ごとの代表が集まる、伝統的な会議の名前です。一方、国民議会は、1789年6月に第三身分が名乗った新しい議会の名前です。両者は連続していますが、名前と役割が変わった点を理解しておく必要があります。二つを混同しないことが、試験でも大切です。

当時の人々の暮らし

三部会が開かれた1789年は、人々の暮らしが苦しい時期でもありました。1788年は、夏の雹害(ひょうがい)や不作が重なり、パンの値段が高騰しました。都市の職人や農民にとって、食料を買えるかどうかは切実な問題でした。こうした生活の苦しさが、三部会への期待と、改革を求める声の背景にありました。

試験に出るポイント

世界史の試験では、三部会は革命の原因と経過の両方で扱われやすい項目です。押さえたいポイントは三つあります。一つ目は、財政危機と特権身分の免税が結びついていたこと。二つ目は、議決方法の争いが身分制そのものへの挑戦になったこと。三つ目は、第三身分が国民議会を名乗り、政治の主体は国民だという考えが表に出たことです。

論述問題では、「なぜ議決方法が問題になったのか」を、特権、身分、人口の関係から説明できると安心です。年号は、1789年5月5日(開会)、6月17日(国民議会)、6月20日(球戯場の誓い)、7月14日(バスティーユ襲撃)の順で整理しておきましょう。

次に読む記事

身分制度の背景を先に知りたい方は、アンシャン・レジームと三つの身分から読むと流れがつかめます。三部会のあとに生まれた議会については、1789年の国民議会で詳しく見ています。国王の立場から見たい方は、ルイ16世はどんな人物だったのかもあわせてどうぞ。

よくある質問

三部会はいつ、どこで開かれましたか?

1789年5月5日に、フランスのヴェルサイユで開かれました。国王ルイ16世が招集し、聖職者、貴族、第三身分の代表が集まりました。前回の開会は1614年だったため、約175年ぶりの開会でした。

三部会はなぜ開かれたのですか?

きっかけは財政危機です。フランスは戦費などで多額の借金を抱え、新しい税が必要になりました。しかし、新しい税は三部会でしか承認できないという主張が強かったため、国王は会議を招集することにしたのです。

三部会はなぜ国民議会になったのですか?

議決を身分ごとに行うか、議員一人ひとりが1票を持つかで対立し、会議が進まなかったためです。第三身分は1789年6月17日に自分たちを国民議会と宣言しました。国民全体を代表するという考え方を示したものです。

第三身分とは、どんな人々でしたか?

聖職者と貴族以外のすべての人々を指し、商人、職人、農民、法律家などが含まれていました。特権はほとんどなく、税の負担は重い立場でした。人口の大部分を占めていたのに、議決では不利な立場に置かれていたのです。

球戯場の誓いとは何ですか?

1789年6月20日、議場が閉鎖されたため、議員たちが近くの室内球技場に集まって立てた誓いです。憲法ができあがるまで議会を解散しないと誓いました。別名は「テニスコートの誓い」です。

理解度チェック

各問題に答えてから、タップして答えを確認しましょう。

  1. 三部会が開会したのはいつですか?

    1. 1614年5月5日
    2. 1789年5月5日
    3. 1789年7月14日
    4. 1792年9月21日
    答えを見る

    1789年5月5日 — 三部会は1789年5月5日に開会しました。

  2. 第三身分とは、どんな立場の人々でしたか?

    1. 聖職者
    2. 貴族
    3. 聖職者と貴族以外のすべての人々
    4. 国王の側近
    答えを見る

    聖職者と貴族以外のすべての人々 — 第三身分は、聖職者と貴族以外の、商人や農民などを含む人々です。

  3. 議決方法をめぐる主な対立はどれですか?

    1. 身分ごとに1票とするか、議員一人ひとりが1票とするか
    2. 首都をどこにするか
    3. 税率を何パーセントにするか
    4. 使う言語をどうするか
    答えを見る

    身分ごとに1票とするか、議員一人ひとりが1票とするか — 身分ごとの議決は特権を守る方式で、第三身分は頭数による議決を求めました。

  4. 1789年6月17日、第三身分が名乗ったものは何ですか?

    1. 憲法制定会議
    2. 国民議会
    3. 王の会議
    4. 名士会
    答えを見る

    国民議会 — 第三身分は自らを国民議会と宣言しました。

  5. 球戯場の誓いが行われたのはいつですか?

    1. 1789年6月20日
    2. 1789年7月9日
    3. 1789年8月26日
    4. 1614年6月20日
    答えを見る

    1789年6月20日 — 議場が閉鎖されたため、議員たちは6月20日に球技場に集まり、誓いを立てました。

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著者について

Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

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