5分でわかる:ジョン・ロックとは?何をした人か
ジョン・ロック(ジョンロック)は、17世紀のイギリスで活躍した哲学者です。人の知識は経験から生まれると説き、政府は人々の同意によって正当化されると論じました。生まれながらの権利や抵抗権の考えは、のちの政治思想とアメリカ独立の議論にも影響を与えています。啓蒙思想を代表する一人として、啓蒙思想の解説ページでも取り上げられる人物です。
ジョン・ロックは1632年、イングランド南西部のサマセット州リントンで生まれました。父は法律の仕事をする人で、イングランド内戦では議会側に加わったとされています。ロックはオックスフォード大学のクライスト・チャーチで学び、医学や実験にもとづく自然科学に関心を深めました。
1660年代の半ばには、後にシャフツベリ伯となるアントニー・アシュリー=クーパーと出会い、その屋敷で医師であり政治の相談相手として仕えるようになります。当時のイングランドでは、国王の権力と議会の関係をめぐって激しい対立が続いていました。シャフツベリ伯が政治の中心から追われると、ロックにも危険が及び、1683年にオランダ共和国へ渡ります。そこで約6年間を過ごしました。
1688年の名誉革命で、オランダ総督のウィリアムと妻のメアリが王位につくと、ロックは1689年にイングランドへ戻ります。同じ年に、著書の『人間知性論』と『統治二論』が出版されました。晩年は交易と植民地を扱う委員会の委員を務め、1704年10月28日にエセックス州のオーツで亡くなっています。
思想① 人の心と知識について
代表作の『人間知性論』は、「人はどのようにして物事を知るのか」という問いから始まります。ロックは、人は生まれつき決まった観念を心に持っているという考えを退けました。心は生まれた時点ではほとんど白紙のような状態で、経験を通して少しずつ書き込まれていくと考えたのです。
観念の源は、大きく二つあります。一つは感覚で、見る、聞く、触れるといった外の世界からの経験です。もう一つは内省で、心が自分の働き、たとえば覚えること、疑うこと、望むことを振り返ることです。この考え方は経験論と呼ばれ、知識は経験にもとづいて組み立てるべきだという主張になります。
ただし、ロックはすべてを疑ったわけではありません。理性によって確かめられる真理もあると考え、神の存在はその代表例として挙げています。『人間知性論』は、知識を否定する本というより、人の心が届く範囲と届かない範囲を描いた地図のような本だといえるでしょう。
思想② 社会契約説と政府の役割
政治思想の分野で最も影響力を持ったのは『統治二論』です。1689年の末に、著者名を伏せて出版されました。第一論文は、ロバート・フィルマーの王権神授説に対する反論です。フィルマーは、王の権力は父が家族を支配するのと同じように神から直接与えられていると論じていました。ロックは、人は生まれながらに他人を支配する権利を持たないと示し、聖書の解釈にもとづくフィルマーの主張を退けました。
第二論文では、ロックは自分の理論を積極的に示しています。ロックは、政府ができる前の状態を「自然状態」と呼びました。そこでは人々は自由で平等であり、生命、自由、財産に対する自然権を持っています。ただし、自然状態には争いを公平に裁く共通の裁判官がいないため、安全は不安定です。そこで人々は同意して社会を作り、政府に権限を託します。政府の役目は自然権を守ることであり、その権力は人々の同意にもとづくという考え方です。これが社会契約説の骨組みです。
この理論からは、三つの重要な考えが導かれます。第一に、財産は労働から生まれるという考えです。人が土地や資源に自分の労働を加えたとき、その成果に対する権利が生まれるとロックは論じました。第二に、権力の分立です。法律を作る立法権、法律を実行する執行権、そして外国との関係を扱う連合権に分けて考えました。第三に、抵抗権です。政府が人々の信頼を裏切り、権利を繰り返し侵害するなら、人々は政府を取りかえる権利を持つと主張しました。
ただし、ロックは無秩序な反乱を勧めたわけではありません。抵抗が正当になるのは、権力の濫用が長く続き、もはや政府が人々のために働いていないと判断できる場合に限られるという、慎重な立場でした。この抵抗権の考え方は、のちの革命の時代に大きな意味を持つことになります。
思想③ 寛容と教育の考え方
1689年には、『寛容についての手紙』も出版されました。もとはラテン語で書かれた文章で、国家が人々に特定の宗教を信じるよう強制すべきではないと主張しています。教会が信仰を理由に罰を与える権限も持つべきではないと論じました。ロックは、魂の救いは個人の良心にかかわる問題であり、政府の役割は市民の生命や財産を守ることだと区別して考えたのです。
ただし、この寛容には明確な限界がありました。ロックは、カトリック教徒は外国の権威である教皇への忠誠を優先するかもしれないとみなし、無神論者は神を信じないために約束や誓いを信頼できないと考えて、寛容の対象から外しています。現代の読者からは、この点が理論の大きな弱点として指摘されることが多くあります。
1693年に出版した教育についての本では、子どもは体罰や丸暗記ではなく、経験、遊び、良い習慣を通して学ぶべきだと説きました。体の健康と心の健全さは結びついているという考えも示しています。ロックにとって教育の目標は、知識を見せびらかすことではなく、理性と徳と礼儀を身につけることでした。この本は『人間知性論』ほど有名ではありませんが、人は経験によって形作られるという同じ信念を感じさせます。
影響と批判
ロックの思想は、イギリスの外へも広がりました。フランスの啓蒙思想家たちは、ロックの寛容の考えや、恣意的な権力への警戒心を高く評価しました。アメリカの植民地では、自然権の言葉が政治の議論に広がり、1776年の独立宣言へとつながっていきます。独立宣言は、生命、自由、そして幸福の追求を権利として掲げていますが、この三つの組み合わせは、ロックの生命、自由、財産という考えと近い関係にあります。最後の一語は違いますが、言葉の並びはよく似ています。
哲学の分野では、デイヴィッド・ヒュームとイマヌエル・カントが、ロックが築いた経験論の流れを受けて自分の哲学を組み立てました。ヒュームはその考えを徹底して懐疑的な方向へ進め、カントはその問題に答えようとしたといわれています。
批判も忘れてはなりません。ロックの財産論は、彼自身の金銭的・植民地的な関わりと重ねて読まれることがあります。ロックは奴隷貿易の中心だった王立アフリカ会社に出資していました。1660年代末から1670年代にかけては、奴隷労働に頼るようになっていたカロライナの植民事業にも関わっています。歴史家の間では、こうした関わりが彼の思想にどう影響したのか、また原則と実際の行動にずれがなかったのかが議論されています。さらに、ロックの権利論は財産を持つ男性を念頭に置いていたとして、女性や貧しい人々、奴隷にされた人々が含まれていなかったという批判もあります。
試験に出るポイント
学校や大学の試験で、ロックはおもに三つの形で出題されます。一つ目は経験論で、白紙の心の比喩、感覚と内省の違い、生まれつきの観念を否定した理由などが問われます。二つ目は社会契約説で、自然状態、自然権、同意、抵抗権がどうつながるかが中心になります。三つ目はホッブズとの比較です。ホッブズは自然状態を非常に危険なものと見て、強大な主権者が必要だと考えました。ロックは自然状態を自由と平等の状態とみなしたうえで、共通の裁判官がいないために不安定になると考えた点が違います。
答案では、「何を言ったか」だけでなく、「なぜそう考えたのか」を一文添えると説得力が増します。ロックの議論は、生まれつきの身分や権威を当然とする考え方への反論として読むと理解しやすくなります。
あわせて読みたい
社会契約の考えをさらに急進的な方向へ進めた人物を知りたい方は、ルソーの『社会契約論』の解説が参考になります。ロックの政治論をまとめて読みたい方は、『統治二論』の解説もあわせてどうぞ。自然権の考えが女性の権利へどう広がったかを知りたい方は、メアリ・ウルストンクラフトの紹介へ進んでください。