5分でわかる:モンテスキューと三権分立
モンテスキュー(1689〜1755年)は、18世紀フランスの法律家であり、思想家です。彼が出した問いは、とても実際的なものでした。権力を持つ人が、その力を乱用しないようにするには、どうすればよいのか。その答えを『法の精神』(De l'esprit des lois)という一冊にまとめています。
答えは、権力を分けることです。法律をつくる機関、法律を実行する機関、そして争いを裁く機関を分け、それぞれが他を抑えられるようにする。これが三権分立です。今日の多くの国で、議会、内閣、裁判所の関係を考えるとき、この発想が土台になっています。
覚えておきたいのは、モンテスキューが「支配者が優しければ自由は守られる」とは考えなかったことです。自由は、支配者の人柄ではなく、仕組みによって守られる。この点が、彼の考えの核心です。啓蒙思想の流れ全体を知りたい方は、啓蒙思想の特集ページもあわせてご覧ください。
背景:モンテスキューが法律を考えた理由
モンテスキューは1689年、ボルドー近郊のラ・ブレード城に生まれました。貴族の家に生まれ、法律を学んでいます。1716年には、叔父から男爵の称号と、ボルドー高等法院の裁判官の職を引き継ぎました。この職は1726年に売却し、それ以後は執筆と学問に力を注いでいます。
当時のフランスは、国王が強大な権力を握る絶対王政の国でした。太陽王と呼ばれたルイ14世は1715年に亡くなりますが、その後も王を中心とする体制は続いています。そのうえ、法律や慣習は地方ごとにばらばらでした。裁判の進め方も税のかけ方も、地域によって大きく違っていたのです。モンテスキューは、法律学を通じて、なぜ国ごとに法律がこれほど違うのか、そして人々の自由を守る法律とはどのようなものかを考え続けます。
彼の名前を一躍有名にしたのが、1721年に匿名で出版された『ペルシア人の手紙』です。ペルシアから来た二人の旅人が、パリから故郷へ書いた手紙という形式で、フランスの社交界、宗教をめぐる争い、王の権力などを風刺しました。実際の政治を正面から批判するのではなく、外の目から見ることで、当たり前とされていたものを問い直す書き方です。この作品には、のちの『法の精神』にもつながる、比べて考える姿勢がすでに表れています。
1728年ごろから1731年ごろにかけて、彼はヨーロッパ各地を旅しました。イタリアやドイツなどを回ったあと、イギリスに滞在し、議会や裁判所の仕組みを観察しています。イギリスは、王の力が絶対ではなく、議会と裁判所も力を持つ国でした。この経験は、のちに彼が描く「自由な国家」のモデルの土台になります。
何が起きたのか:モンテスキューの『法の精神』
『法の精神』は1748年に刊行されました。長い年月をかけて書かれた大著で、政治、法律、経済、宗教、気候など、社会のあらゆる面を扱っています。読みにくいと感じる人も多いのですが、大きな考えは三つにまとめられます。
法律はその社会に合っている必要がある
モンテスキューは、よい法律を一つの国から別の国へそのまま持ち込めるとは考えませんでした。法律は、その国の気候、土地、宗教、習慣、経済などに合わせてつくられてこそ、人々に受け入れられ、機能すると論じました。彼はこうした社会全体の性格を「一般の精神」と呼んでいます。書名の「精神」は、法律と、それを取り巻くさまざまな要素との結びつきを指しています。
政治体制は三つに分けられる
彼は政治体制を、共和政(民主政と貴族政を含む)、君主政、専制政の三つに分けました。どの体制も、それを動かす「原理」と呼ばれる人間の感情によって支えられていると考えたのです。共和政では徳、君主政では名誉、専制政では恐怖が、その体制を支える原理です。
とくに専制政は、法律がなく、一人の意思によって人々を支配する体制として描かれています。恐怖によって人々を従わせるため、権力に歯止めがかからない。この、権力を止める仕組みがない体制をどう防ぐか、という問題意識が、のちの権力分立の議論につながります。
権力が権力を抑える
『法の精神』でもっとも有名なのは、第11編第6章でイギリスの国制を論じた部分です。モンテスキューは、権力を持つ人は、その権力を使いすぎる傾向があると見ました。そのため、権力を制限するには、権力そのものを分け、互いに抑え合わせる仕組みが必要だと考えたのです。そして国家の権力を三つに分けました。
- 立法権:法律をつくる権力
- 執行権(行政権):法律を実行し、外交や戦争と平和を担う権力
- 司法権:犯罪を裁き、人と人との争いを裁定する権力
たとえば、議会が法律をつくり、政府がそれを実行し、裁判所がその法律をめぐる争いを裁く。三つの役割が別々の機関にあれば、どこかが誤ったときに、ほかが止めることができます。反対に、同じ人や同じ機関が二つ以上の権力を握れば、人々の自由は危うくなる、とモンテスキューは考えました。
なお、彼は裁判官を、法律の文言をそのまま告げる存在に近いものとして描きました。その後、この見方は裁判の役割を軽く見すぎているとして批判されてきました。
もう一つ押さえておきたいのは、彼がイギリスを理想化していたという指摘です。当時のイギリスでは、大臣が議会の議員を兼ねるなど、三つの権力は実際にはかなり混ざり合っていました。モンテスキューの描く三権分立は、観察と理想が混ざったものだったと理解すると、読みやすくなります。
自由とは、安心して暮らせること
モンテスキューは、自由を、好きなことを何でもできる状態とは考えませんでした。法律が認める範囲で、人が安心して行動でき、だれかに無理やり従わされない状態を自由と捉えています。だからこそ、権力が暴走しない仕組みが必要になる。この一つの問いが、三権分立の議論全体を支えています。
その後の影響:モンテスキューと三権分立の広がり
『法の精神』は刊行直後から大きな反響を呼びました。2年足らずのあいだに二十を超える版を重ねたと伝えられています。その一方で、1751年にはカトリック教会が禁書目録に加えました。批判的な内容が宗教や社会の伝統に対するものと受け取られたためです。モンテスキューは、読まれることと警戒されることを同時に経験した思想家でした。
三権分立の考え方は、本の外へ広がっていきます。アメリカ合衆国では、1787年に起草された憲法が、連邦の権力を議会、大統領、連邦裁判所に分けました。1788年に発表された『フェデラリスト』第47編では、ジェームズ・マディソンが、権力の分立について論じる際にモンテスキューを権威として頼っています。ただし、マディソンは当時の州憲法を見て、権力が完全に分けられている例は一つもないとも指摘しました。紙の上の原理を実際の制度に落とすことの難しさが、ここにも表れています。
フランスでは、1789年8月に採択された「人及び市民の権利の宣言」が、権利の保障と権力の分立が定められていない社会は憲法をもたない、と述べています。権力を分けることが、憲法の成り立ちに関わる条件として位置づけられたのです。この宣言は、ルソーの社会契約の考えとともに、モンテスキューの権力分立の考えを土台にしたとされています。
一方で、モンテスキューには批判も向けられてきました。第15編では奴隷制を皮肉の形で強く批判していますが、気候と人々の性格を結びつけた議論の一部は、のちに人種差別的な主張を支えるために利用されました。現代の読者は、こうした文脈もふまえて、批判的に読む必要があります。
現代の私たちにとっての三権分立
日本国憲法も、国会、内閣、裁判所に権力を分けています。国会は国の唯一の立法機関として法律をつくり、内閣は行政権を担い、裁判所は司法権を持って、法律や処分が憲法に合っているかを審査する権限があります。モンテスキューが警戒したのは、権力者が善人かどうかではなく、権力が一か所に集まることでした。
ニュースで「政府が決めた」「議会が可決した」「裁判所が判断した」という言葉を目にしたとき、どの機関が、どの権限で動いているのかを考えてみてください。そうすると、三権分立が、遠い理論ではなく、毎日の政治を読み解く道具になります。『法の精神』は全体を読み通すのが大変な本ですが、第11編第6章と各部分の要点を押さえるだけでも、三権分立の話はずっと理解しやすくなります。
試験に出るポイント
モンテスキューについて問われるときは、次の四つを押さえておくと役立ちます。
- 三権分立の定義と、立法・行政(執行)・司法の三つの権力の役割を答えられること。
- 「権力が権力を抑える」という考えが、どのような理由から生まれたかを説明できること。イギリスの国制を例にすると書きやすくなります。
- ロック(政府は人々の同意に基づき、生命・自由・財産の権利を守るべきだという考え)やルソー(一般意志を政治の基礎とする考え)との違いを比べられること。モンテスキューは、制度と社会の条件によって自由を守ることに重点を置いた点が特徴です。
- アメリカ合衆国憲法や人権宣言にどう影響したかを、具体例とともに書けること。
説明するときは、「三権分立は大事です」と書くより、どの機関がどの権力を持つのかを具体的に示すほうが伝わります。
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