5分でわかる
フランス革命の原因は、ひとつの出来事ではありません。国の借金、不公平な税金、凶作によるパンの値上がり、啓蒙思想、そして改革をめぐる政治の行き詰まりが重なり、1789年の革命へとつながりました。国王が三部会を開くことになったのは、お金と政治の問題をどうしても解決できなかったからです。
原因は「経済」「社会」「思想」「政治」に分けて説明されることが多いのですが、それぞれはつながっています。財政が苦しいので改革が必要になり、改革は特権身分の利益を脅かすので反対が起きます。反対で改革が止まると、お金の問題はさらに深刻になります。この連鎖をつかむと、革命の流れが見えてきます。
革命の全体像は、フランス革命の流れをまとめた記事で確認できます。
フランス革命の原因を五つに分けて見る
ここでは、多くの歴史書が取り上げる五つの原因を順に見ていきます。どれか一つだけで革命が起きたわけではなく、五つが互いを強めあいました。
1. 戦争と借金による財政危機
フランスは18世紀を通じて戦争を重ね、その費用の多くを借金でまかなっていました。1778年にはアメリカ独立戦争に参戦し、戦費はさらに膨らみます。1780年代になると、国は毎年の収入以上に支出し、そのすき間を借金で埋めるようになりました。戦争の費用は、国の一年分の収入を大きく上回る額だったとも伝えられています。
借金が増えると、利子の支払いが予算の大きな部分を占めるようになります。貸し手も慎重になり、お金を借りることはますます難しくなりました。返済のためにまた借りるという悪循環に入り、政府は新しい税金を探すしかなくなります。
ここで問題になったのは、その税金を誰が払うのかという点です。これが次の原因へとつながります。
2. 不公平な税金と特権
革命前のフランス社会は、聖職者(第一身分)、貴族(第二身分)、そして第三身分に分かれていました。聖職者と貴族をあわせても人口の2パーセントほどで、残りの約98パーセントが第三身分です。第三身分には、農民、都市の職人や労働者、商人、法律家などが含まれていました。
税金の負担は、この第三身分に重くのしかかっていました。聖職者は多くの直接税を免除され、貴族の多くも、平民に比べてはるかに少ない税で済んでいました。人口の大半を占める農民も、土地の三分の一ほどを持つにすぎなかったといわれます。
そのため、特権身分にも公平に税を負担させる改革は、古い秩序そのものへの挑戦になりました。特権身分が強く反対したのは、自分たちの地位を守ろうとした当然の反応だったともいえます。改革が難しかった理由は、ここにあります。
3. 凶作とパンの値上がり
当時のフランスでは、パンが人々の食事の中心でした。家計の多くをパンに使う人々にとって、パンの値段は生活の安定そのものです。1780年代半ばには経済が不振に陥り、賃金が物価の上昇に追いつきませんでした。1786年の英仏通商条約も、フランスの製造業に大きな打撃を与えたとされています。
さらに1788年には、作物が大きな被害を受けます。夏には激しい雹(ひょう)が畑を襲い、冬は寒さで川が凍って、小麦粉をひく水車の作業も止まりました。パリでは、四ポンドの丸いパンの値段が、1789年の初めまでに約8スー(当時の小銭の単位)から約14スーへと上がったといわれています。家計にゆとりのない人々にとって、これは生活を直撃する出来事でした。
値段が上がると、人々は「商人や領主が穀物を買い占めているのではないか」と疑いやすくなります。実際にどうだったかにかかわらず、怒りの矛先は政府や特権層へ向かいました。1789年の春から夏にかけては、飢えの脅威も高まっていきます。パンをめぐる不安は、政治の危機を身近な問題として感じさせたのです。
4. 啓蒙思想
ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーといった思想家たちは、絶対王政や身分による特権を批判しました。ルソーの『社会契約論』(1762年)は、権力の正当性は人々の同意にあると論じています。彼らの著作は、パリをはじめ各地の教養ある人々に読まれました。
思想家たちは、権利、法の前の平等、そして権力は人々の同意にもとづくべきだという考え方を広めました。改革を求める人々にとって、それは共通の言葉になりました。
ただし、思想がどこまで革命の原因だったのかについては、今も研究者の間で議論があります。思想だけで危機が生まれたわけではありません。しかし、お金や食料の問題に対して、古い体制を疑う言葉を与えたことは確かです。
5. 政治の行き詰まり
最後の原因は、政治の仕組みそのものです。新しい税を実施するには、貴族や、王の法令を登録する権限を持つ高等法院の同意が必要でした。高等法院が登録を拒めば、王の改革は効力を持ちにくくなります。改革を進めようとする大臣たちは、この壁に何度もぶつかりました。
財務総監のカロンヌは、1787年2月に名士会(貴族、聖職者、高官などからなる会議)を招集し、税制改革への支持を得ようとしました。しかし名士会は十分な賛成を与えず、カロンヌは同年4月に罷免されます。後任のブリエンヌも、高等法院の反対に直面しました。高等法院は新しい税の登録を拒み、三部会の開催を求めました。
1788年6月7日、政府が地方の高等法院の構成員を追放したことに抗議して、グルノーブルで群衆が王の軍隊と衝突しました。屋根瓦が投げられたことから、この出来事は「屋根瓦の日」と呼ばれています。同年8月、ブリエンヌは辞職し、ネッケルが財務を任されました。三部会は、翌1789年5月に開かれることになりました。
三部会は1614年以来開かれていませんでした。その会議を再び呼び出したことは、政治の行き詰まりを打開するための重い決断だったのです。
原因が重なった1789年
1789年5月5日、三部会がヴェルサイユで開会しました。最初に問題になったのは、議決の方法です。慣例では身分ごとに一票ずつの投票でした。つまり、聖職者と貴族の二票に対して、第三身分は一票しかありません。第三身分は600人の議員を持ち、ほかの二身分の合計より多かったのですが、投票の仕組みは特権身分に有利でした。
第三身分の議員の大半は、法律家など都市の中産階級(ブルジョワ)でした。彼らは人数による投票を求めて、約1か月にわたり議会の対立を続けます。国王の側は、三部会を古い慣例どおりに進めようとしました。
6月17日、第三身分は自らを「国民議会」と宣言しました。シエイエスの小冊子『第三身分とは何か』が、第三身分こそが国民だという考えを広めていたことが背景にあります。
6月20日、国王は会場の閉鎖を命じます。議員たちは近くの球戯場(テニスコート)に集まり、憲法ができるまで解散しないと誓いました。これが「テニスコートの誓い」です。
7月11日には、第三身分に理解を示していたネッケルが罷免され、パリの空気は一気に張りつめました。7月14日、群衆はバスティーユ要塞へ向かい、これを攻略します。バスティーユは王の要塞であり、牢獄でもありました。この日は、後にフランスの革命記念日になります。
こうして、お金の問題が国王の選択を縛り、特権が改革を難しくしました。凶作が人々の怒りを強め、思想がその怒りに言葉を与え、政治の行き詰まりが三部会を開かせたのです。1792年9月、フランスは王政を廃止します。
よくある誤解
フランス革命を学ぶとき、次の三つの誤解がよく見られます。
- 革命は突然起きた、という誤解。危機は、1770年代以来の戦争から、1787年と1788年の改革の失敗まで、何年もかけて積み重なっていました。
- 貧しい人だけが改革を求めた、という誤解。法律家や商人などの中産階級も、第三身分の中心にいて、公平な税制と政治への発言権を求めていました。
- 思想だけで革命が起きた、という誤解。思想は大切ですが、お金と食料と政治の危機が重なったときに、特に大きな力を持ちました。
試験に出るポイント
試験では「原因を説明しなさい」「最も重要な原因はどれか」といった問いがよく出ます。答案を書くときは、次の三つを押さえると説得力が増します。
- 原因を一つ挙げ、具体的な事実を添える(例:1787年の名士会)。
- 次の原因とのつながりを説明する(例:改革の失敗が三部会の招集につながった)。
- 長期的な構造と、直接のきっかけを区別して評価する。
たとえば「財政危機が直接のきっかけだったが、特権と政治の仕組みがあったために、危機を穏やかに解決できなかった」といった形で、自分の主張をはっきり示しましょう。
次に読む
革命の出来事を時系列で確認したい人は、フランス革命の年表(1789〜1799年)が役立ちます。改革を試みた国王については、ルイ16世はどんな王だったのかで詳しく見られます。革命の時代が小説でどう描かれたかに関心があれば、『二都物語』の歴史背景と、小説そのものの『二都物語』もどうぞ。