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バスティーユ牢獄襲撃は、1789年7月14日にパリの民衆が、東部にあった古い要塞バスティーユを襲った出来事です。この要塞は14世紀に建てられ、のちに国王の命令による投獄に使われた国家の牢獄でした。夕方には守備隊が降伏し、司令官のベルナール=ルネ・ド・ローネーは殺害されました。要塞に保管されていた火薬と武器も、民衆の手に渡りました。
ただし、この日要塞にいた囚人はわずか7人でした。「政治犯を数百人救い出した事件」という説明は誤解です。それでも、この日は民衆が自分たちの力で政治を動かし始めた瞬間として、フランス革命の大きな転機になりました。革命の全体の流れは、フランス革命の全体像でまとめています。
バスティーユ牢獄襲撃の理由
なぜ民衆はバスティーユ牢獄を襲ったのでしょうか。まず背景から見ていきましょう。1780年代後半のフランスは、アメリカ独立戦争への出費などで財政危機に陥っていました。税の負担は主に平民にのしかかり、特権身分は免税などの特権を持っていました。1788年の不作でパンの値段も上がり、都市の人々の生活は苦しくなっていました。
国王ルイ16世は、この危機を乗り切るために三部会を招集し、1789年5月に会議が始まりました。しかし、第三身分の代表は6月に自分たちを国民議会と名乗り、議会の仕組みを変えようとしました。国王と周囲の人々はこの動きに強く警戒し、7月にはパリの周辺に王軍を集めます。パリの人々は、王が力で議会と市民を抑えようとしているのではないかと感じるようになりました。
直接のきっかけは、7月11日に起きた出来事です。国王は、改革に理解があり、パリの人々に人気のあった財務総監ジャック・ネッケルを罷免しました。その知らせは翌日パリに届き、人々の怒りと不安が一気に広がります。王軍が迫っているという噂も飛び交い、街は不穏な空気に包まれました。
民衆が武器と火薬を求めたのも自然な流れでした。7月13日、パリの有権者たちは市民の民兵を組織し、武器を確保する必要に迫られます。そのとき広まったのが、「バスティーユには大量の火薬がある」という噂でした。実際には、アンヴァリッドの司令官が安全のために火薬をバスティーユへ移していたため、噂には一部の根拠があったことになります。
さらに、バスティーユそのものが王権の象徴とみなされていました。国王の封印状(レットル・ド・キャシェ)によって、裁判を経ずに人が投獄されることがあり、バスティーユはその仕組みを体現する場所だったからです。ただし、1789年の時点で収容者はわずかでした。「民衆は政治犯を解放するために襲った」という見方は、当たっていません。
ここまでの流れを整理すると、民衆を動かした理由は次の3つにまとめられます。
- ネッケル罷免への怒りと、王が力で議会を抑えるのではないかという不安
- 王軍が近づいているという恐怖
- 武器と火薬を手に入れたいという切実な必要
この3つが重なったことで、パリの緊張は限界に達しました。また、襲撃の担い手は、職人、商店主、日雇い労働者、そして兵士たちなど、さまざまな立場の人々でした。こうした幅広い人々が加わったことが、反乱を一気に広げた要因のひとつです。
1789年7月14日に何が起きたのか
7月14日の朝、民衆はまずアンヴァリッドに向かいました。アンヴァリッドはセーヌ川の左岸にある退役兵の施設で、大量の武器も保管されていました。ここで民衆は、約2万8千〜3万2千丁の銃と、いくらかの大砲を手に入れたとされています。資料によって数字は異なりますが、大規模な武器の略奪だったことは確かです。火薬は、すでにバスティーユへ移されていました。
民衆は火薬を求めて、バスティーユへ向かいました。昼ごろ、代表団が要塞に入り、司令官のベルナール=ルネ・ド・ローネーに、要塞と火薬の引き渡しを求めました。ド・ローネーは要求を拒否しました。交渉が決裂すると、やがて銃撃が始まり、戦闘は午後にかけて激しさを増していきます。
戦局を大きく変えたのは、フランス衛兵隊から脱走した兵士たちの参加でした。彼らは大砲を前線へ運び、民衆側の攻撃力は一気に高まります。守備隊は要塞の塔や城壁から応戦しました。守備隊は約114人で、そのうち約82人はアンヴァリッドの退役兵(実戦に耐えられない老兵)、残りの32人はスイス兵でした。人数では民衆側が圧倒的に多く、守備隊は次第に追い込まれていきます。
攻撃側の死者は、資料によって差がありますが、80〜100人ほどと推定されることが多いです。守備側の死者は少数でした。戦いは夕方に決着し、守備隊は降伏して、跳ね橋が下ろされました。
降伏のあと、司令官のド・ローネーは捕らえられ、市庁舎(オテル・ド・ヴィル)へ連行される途中で群衆に襲われ、命を落としました。何人かの守備隊員も殺されています。一方、要塞の中にいた囚人は解放されました。このときの囚人は7人です。内訳は、偽金づくりの罪に問われた4人、精神を病んでいたとされる2人、そして家族の依頼で投獄された伯爵1人でした。
この一日で、王権の象徴だった要塞は、民衆の手によって落とされました。政府にとって衝撃的な出来事であり、パリの人々に、自分たちの行動が政治を動かせるという自信を与えました。
その後の影響
襲撃のあと、パリの政治は数日のうちに大きく変わりました。7月17日、国王ルイ16世はパリを訪れて市庁舎に入り、新しい市長ジャン=シルヴァン・バイイから、パリの色である青と赤の帽章を受け取りました。国王が、民衆の蜂起から生まれた新しい市政を認めた形です。国王にとっては、軍の力だけに頼らず、パリとの対立を和らげる政治的な判断でもありました。
市民の民兵は、国民衛兵と呼ばれる組織に再編され、ラファイエット侯爵が指揮を執りました。武装した市民が、街の秩序を支える役割を持つようになったのです。
要塞そのものは、長くは残りませんでした。パリ市の依頼を受けた業者のピエール=フランソワ・パロワが取り壊しを進め、約5か月で大部分が撤去されました。王権の牢獄だった場所が空き地になったことは、革命が古い権力の象徴を取り除いたことを示すものとして受け止められています。
影響は、パリの外にも広がりました。農村では、封建的な権利を記した文書や年貢の記録が襲われる「大恐怖」と呼ばれる混乱が起きました。1789年8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を宣言します。パリでの一日の出来事は、国全体の制度改革へとつながっていったのです。
翌1790年7月14日には、連盟祭(フェデレーションの祭典)がパリで開かれ、一年前の出来事を記念しながら、国民の団結を示しました。その後、1880年にフランスの第三共和政は、7月14日を国の祝日とする法律を定めます。この法律は、1789年の襲撃と1790年の連盟祭の両方を記念する日として、7月14日を位置づけました。日本では、この日は「パリ祭」の名で広く知られています。
試験に出るポイント
世界史の試験では、バスティーユ牢獄襲撃を、革命の流れの中でどう位置づけるかが問われます。答えに必要な要素は、大きく3つです。
- 原因:ネッケル罷免、王軍への恐れ、パンの高値などの生活の苦しさ
- 経過:アンヴァリッドでの武器の獲得と、バスティーユの陥落
- 意義:民衆の行動が革命を急進化させ、王権の力がパリで後退したこと
「なぜ民衆が襲ったのか」と問われたら、王の政策への怒りと、武器や火薬の確保の両方を書くと、原因を広くとらえられます。「何を解放したのか」という問いには、囚人がわずか7人だったことを答えましょう。政治犯が大量に解放されたという説明は、答案では避けるのが無難です。
また、襲撃が自然発生的だったのか、パリの新しい指導者たちによって組織されたのかについては、研究の中でも検討が重ねられてきました。どちらか一方だけで決めつけず、両方の見方を比べて書けると、答えに厚みが出ます。
7月14日が国の祝日になった理由もよく問われます。1880年の法律が、1789年と1790年の両方を記念していることを押さえておくと、答えが安定します。
次に読むなら
- テニスコートの誓い(1789年):襲撃の数週間前に、第三身分の代表が解散命令に応じなかった経緯を読めます。
- ルイ16世とは:襲撃の引き金になった国王の判断を、人物の側から理解できます。
- パリ祭とは:7月14日が祝日になった理由と、その意味をまとめています。