5分でわかるフランス革命の年表
この記事では、フランス革命 年表として押さえたい出来事を、1789年から1799年まで年代順に並べて説明します。フランス革命とは、絶対王政から立憲君主政へ、そして共和政へと進み、恐怖政治を経て総裁政府の時代を迎えた、10年間の大きな変動です。一般に革命の区切りとされるのは、1799年11月のナポレオンによるクーデタです。全体像はフランス革命の解説ページで、流れは本ページでつかんでください。
流れを一言でいえば、お金が足りなくなり、国王が議会を招集し、その議会が政治の主導権を握り、戦争が政治を過激にし、恐怖政治へ至った、ということです。この大きな流れを頭に入れておくと、個々の年号が覚えやすくなります。
革命の背景:財政危機と身分制
1780年代後半のフランスは、財政が破綻の瀬戸際にありました。アメリカ独立戦争へ支援を送るなど、戦争が続いた結果、国の借金は膨らむ一方でした。税の負担は、国民の大多数を占める第三身分に重くのしかかります。一方で、聖職者や貴族は特権によって税が軽く、不公平感が強まっていました。
政治のしくみにも問題がありました。三部会は1614年以来開かれておらず、社会に積もる不満を正式に話し合う場がなかったのです。そこへ、理性や権利への関心が知識人の間で広がっていました。さらに1788年の不作でパンの値段が上がり、都市の労働者は収入の多くをパンの購入に充てるようになります。生活の苦しさと政治への不満が結びついたのが、革命前夜のフランスでした。
こうした不満を前に、国王ルイ16世は新しい税の承認を得るため、三部会を招集することにしました。財政の問題が、やがて政治の問題へと広がっていく出発点です。くわしい背景はフランス革命の原因で確認できます。
1789〜1792年:三部会から立憲君主政へ
1789年5月5日、ルイ16世はヴェルサイユで三部会を開きました。議論はすぐに、議決の方法をめぐる対立へ移ります。第三身分は、議員一人ひとりが1票を持つ方式を求めました。ほかの二つの身分は、身分ごとに1票とする方式を主張しました。同じ年の1月には、聖職者出身のシエイエスが、第三身分こそ国民の実体でありながら政治的な力を持たないと訴える小冊子を出版しています。
6月17日、第三身分は自らを国民議会と宣言しました。3日後の6月20日には、会議場が閉鎖されていたため、議員たちは屋内のテニスコート(球戯場)に集まり、憲法ができるまで解散しないと誓います。これが「球戯場の誓い」です。
1789年7月14日、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃しました。この牢獄に収監されていたのは7人だけでしたが、王権の象徴として知られていたため、革命を代表する出来事となりました。地方では、7月末から8月にかけて「大恐怖」と呼ばれる混乱が広がり、農民が領主の館を襲い、封建的な権利証書を焼く事件が相次ぎました。8月4日の夜、国民議会は封建的特権の廃止を決めます。そして8月26日、「人間および市民の権利の宣言」(人権宣言)を採択しました。全17か条のこの宣言は、人は生まれながらに自由で、権利において平等であると述べています。しかし、女性や植民地の奴隷は、その権利の対象として明記されていませんでした。この限界は、試験でもよく問われるポイントです。10月には、多くの女性を含む大勢の民衆がヴェルサイユへ行進し、国王一家はパリへ連れ戻されました。
1791年6月20日から21日にかけて、国王一家はパリを脱出しようとしましたが、ヴァレンヌで見つかり、連れ戻されました。これがヴァレンヌ逃亡事件です。この事件によって、国王への信頼は大きく損なわれます。同年9月、国民議会は立憲君主政を定めた1791年憲法を完成させ、10月には立法議会が始まりました。国王は君主として残りますが、その権限は憲法によって制限されたのです。
1792〜1794年:共和政、戦争、恐怖政治
1792年4月、フランスはオーストリアに宣戦布告しました。しかし戦況は思うように進まず、国内の不安も高まります。8月10日には、民衆と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃し、国王の権限が停止されました(8月10日事件)。9月にはパリで多くの囚人が殺害される九月虐殺が起きています。9月20日、ヴァルミーの戦いでフランス軍が、侵攻してきたプロイセン軍を食い止めました。翌21日、新しく選ばれた国民公会は王政の廃止を決めます。共和政は、9月22日を共和暦元年の始まりとして数えるようになりました。
1793年1月21日、ルイ16世はパリで処刑されました。同年10月には、王妃マリー・アントワネットも処刑されています。同年2月にはイギリスやオランダにも宣戦布告し、戦争は国境の外へ広がりました。3月にはヴァンデ地方で反乱が起き、国内の対立も激しくなります。6月2日、国民公会は穏健派のジロンド派を追放し、ロベスピエールを中心とするジャコバン派が主導権を握りました。8月には国民総動員令(大衆動員令)が出され、国民に兵役が求められます。同じ8月、新しい1793年憲法が国民投票で承認されましたが、戦時中であることを理由に、実施されることはありませんでした。
9月になると、恐怖政治が政府の方針となりました。9月17日の容疑者法は、「共和国の敵」とみなされた人々の逮捕を広く認めるものです。革命裁判所は迅速に判決を下し、多くの人々が処刑されました。歴史家の多くは、公式の処刑者はおよそ1万7000人と推定しています。ただし、数え方によって差があり、牢獄での死や、各地の反乱鎮圧による犠牲者を加えると、被害はさらに大きくなります。その過程では、政治的な対立者や、無関係とされた人々まで裁きの対象になりました。
1794〜1799年:テルミドールから総裁政府、ナポレオンへ
1794年7月27日(テルミドール9日)、国民公会の議員たちはロベスピエールに反旗を翻しました。ロベスピエールは逮捕され、翌28日(テルミドール10日)に処刑されます。これがテルミドールのクーデタです。歴史学ではこの局面をテルミドールの反動と呼び、恐怖政治の最も激しい時期は、ここで終わりを迎えました。
1795年に制定された新しい憲法は、二院制の議会と、5人の総裁からなる行政府(総裁政府)を定めました。総裁政府は同年11月に発足します。しかし、総裁政府は多くの難題を抱えていました。紙幣であるアシニャ紙幣の価値は大きく下がり、インフレが続きます。議会と行政の対立もたびたび起き、王党派の陰謀や続く戦争にも直面しました。1799年11月9日(ブリュメール18日)、軍人のナポレオン・ボナパルトがクーデタを起こし、総裁政府は倒されます。ナポレオンは新しい統領政府を作り、ここで革命の時代は一区切りを迎えたと、多くの歴史家が考えています。
革命の影響は、その後も長く続きました。絶対王政と封建的特権は失われ、法の下の平等という考え方は残りました。1794年2月に決められた植民地での奴隷制廃止は、1802年にナポレオン政権が一部の植民地で奴隷制を復活させたことで後退します。1804年の民法典(ナポレオン法典)は、革命で生まれた改革の多くを受け継ぎました。また、フランスの県制度は革命期に作られたもので、今日のフランスの地方行政の基礎になっています。
試験に出るポイント
試験では、原因、転換点、そして革命の意義が問われることが多くあります。特に次の流れを、説明できるようにしておくと安心です。
- 財政危機から三部会の招集、そして国民議会の成立へ
- 戦争と王政の動揺が、共和政と恐怖政治を生んだこと
- テルミドールの反動を経て、総裁政府からナポレオンへ
人権宣言は、革命の理念をまとめた重要な文書です。ただし、女性や植民地の奴隷が含まれていなかったという限界も、あわせて説明できると答案に深みが出ます。年代は、1789年(三部会・人権宣言)、1792年(王政の廃止)、1793年(国王の処刑・恐怖政治)、1794年(ロベスピエールの失脚)、1799年(ナポレオンのクーデタ)の5つを軸に覚えると、全体の流れがつかみやすくなります。
関連記事を読む
革命前の社会のしくみはフランス革命の原因で、革命がその後の社会に与えた変化はフランス革命の影響で扱っています。国王の立場から革命を見たい方は、ルイ16世とはどんな人物かもあわせて読んでみてください。