5分でわかる
フランス人権宣言は、1789年8月26日にフランスの憲法制定国民議会が採択した文書です。正式名称は「人間と市民の権利の宣言」で、人は生まれながらに自由であり、権利において平等であるとうたっています。全17条からなり、主権は国民にあるという考え方を示しました。フランス革命の出発点を示す文書として、教科書で必ず取り上げられるものの一つです。この記事では、フランス人権宣言の背景、内容、その後の影響を順番に整理します。革命全体の流れはフランス革命の解説ページにまとめてあります。
まず押さえたい要点は次の三つです。
- 人は生まれながらに自由で、権利において平等である。
- 主権の源は王ではなく国民にある。
- 理念は普遍的なものとして掲げられたが、実際には女性や植民地の人々には十分に及ばなかった。
なぜ作られたのか
革命前のフランスは、社会が身分によって分けられていました。第一身分の聖職者と第二身分の貴族は、税や特権の面で大きな優遇を受けていました。一方、人口の大多数を占める第三身分が多くの税を負担していました。財政危機を受けて、国王ルイ16世は1789年5月に三部会を招集します。しかし、身分ごとに一票という議決方法では、聖職者と貴族の二票に対して第三身分は一票しかなく、第三身分の代表は不満を強めました。
この状況に理論的な裏づけを与えたのが、シエイエスの小冊子『第三身分とは何か』(1789年1月)です。シエイエスは、第三身分こそ国民のすべてであるのに、政治の上では力を持たされてこなかったと論じました。6月に第三身分の代表は自らを国民議会と名乗り、20日には球戯場の誓いで、憲法ができるまで解散しないと約束します。その後、パリ周辺に軍隊が集められ、緊張が高まります。
7月14日にはパリでバスティーユ牢獄が襲撃され、地方でも農村で領主への反発が広がりました。議会は8月4日の夜、封建的な特権と領主への義務の廃止を決めます。古い身分社会は崩れつつあり、その代わりとなる原則を文書にまとめる必要が生まれました。
フランス人権宣言は誰が作ったのか
最初の草案は、アメリカ独立戦争に参加したラファイエット侯爵が1789年7月に作成したとされています。ラファイエットは、アメリカで作られた権利の宣言などを参考にしたと考えられています。パリでアメリカ公使を務めていたトマス・ジェファーソンも草案に目を通し、助言を送っていました。ただし、ジェファーソンは議会の正式な顧問ではありません。
草案は、その後の議会で審議にかけられました。8月に入ってから何度も議論が重ねられ、草案は大きく書き直されます。シエイエスなど多くの議員が草案の言葉を練り直しました。議会は、まず原則を宣言してから憲法を作るという順番を選びました。8月26日の採択の時点で、この文書は一人の作者の文章というより、議会全体の合意として完成したと見るのが適切です。
背景には、アメリカ独立宣言(1776年)やバージニア権利章典(1776年)、そしてロック、モンテスキュー、ルソーといった思想家の議論がありました。
フランス人権宣言の17条の内容
宣言は、短い前文と17の条文からなります。前文は、人権の無知や無視、軽視こそが社会の不幸と政府の腐敗の原因だと述べています。そのため、権利を明確に書き示すことが目的だとされました。条文は、テーマごとにまとめると理解しやすくなります。
- 平等と自然権(第1条・第2条): 人は生まれながらに自由で、権利において平等です。社会的な区別は、共通の利益に基づく場合にだけ認められます。自由、所有、安全、圧制への抵抗を、消えることのない自然権として挙げ、政治団体はこれを守るために存在するとしました。
- 主権(第3条): すべての主権の源は国民にあります。国民に由来しない権力を、王や個人が行使することは認められません。王が神から権力を授かるという考え方からの大きな転換でした。
- 自由と法(第4条〜第6条): 自由とは、他人を害さない限りどんなことでも行える状態のことです。法律が禁止できるのは、社会に有害な行為だけです。法は一般意志の表れでなければならず、市民は法の前に平等で、出自ではなく能力に応じて公職に就けます。
- 裁判と無罪の推定(第7条〜第9条): 法律によらない逮捕や拘束は認められません。有罪が確定するまでは、無罪とみなされます。
- 意見と表現(第10条・第11条): 宗教上の意見を含め、公の秩序を乱さない限り、意見によって不当に苦しめられることはありません。思想や意見を自由に伝えることは、もっとも貴重な権利の一つとされています。
- 税と説明責任(第13条・第15条): 税は、能力に応じて市民の間で公平に分担されます。社会は、すべての公務員に行政の説明を求める権利を持ちます。
- 憲法と財産(第16条・第17条): 権利の保障も権力の分立もない社会には、憲法があるとはいえないとされています。財産は侵すことのできない神聖な権利で、公の必要が明らかな場合に限り、正当な補償を条件に奪われます。
抽象的な言葉の意味を押さえると、条文の理解が深まります。たとえば「一般意志」は、ルソーの思想に由来する言葉で、個々人の利益の寄せ集めではなく、共同体全体の意思を指すとされます。「自然権」は、国家が与えるものではなく、人が生まれながらに持つと考えられた権利です。
もっともよく引用される第1条は、おおよそ次のような内容です。
「人は生まれながらに自由であり、権利において平等である」(第1条、当サイトの訳)
その後どうなったか
人権宣言は、それだけで政治体制を定めた憲法ではありませんでした。国王ルイ16世は8月の諸決議に応じず、抵抗を続けます。1789年10月初めにはパリの民衆がヴェルサイユに向かい、国王一家はパリに移されます。議会もパリへ移って審議を続けました。
1791年の憲法では、人権宣言が前文に置かれ、立憲君主制が定められました。しかし選挙権は、一定額以上の直接税を納める男性に限られ、彼らは「能動市民」と呼ばれました。理念は広く掲げられたものの、適用は限られていたのです。
女性は政治的な権利から外されたままでした。1791年にはオランプ・ド・グージュが「女性および女性市民の権利の宣言」を発表し、人権宣言が女性を含めていないことを批判します。フランス語のhommeが「人間」と「男性」の両方を指すことも、この議論の要点です。グージュは1793年に処刑されました。フランスの女性が国政選挙で投票できるようになったのは1944年で、革命から150年以上たってからのことです。
植民地の奴隷制について、人権宣言は具体的には触れていません。当時、サン=ドマング(現在のハイチ)では、奴隷制をめぐる対立が激しくなっていました。国民公会は1794年に奴隷制の廃止を決めましたが、ナポレオンは1802年に奴隷制を復活させます。
1793年には、別の人権宣言を含む憲法も作られましたが、実施されないまま終わりました。国内の混乱のなかで、理念と現実の差はさらに広がっていきます。
それでも、この宣言の考え方は、後の憲法や国際文書に影響を与えました。1958年に定められ、今も効力を持つ現在のフランス憲法の前文も、1789年の人権宣言を参照しています。1948年の世界人権宣言とは、普遍的な人権という考え方で響き合うところがあります。
試験に出るポイント
教科書では、フランス人権宣言は他の権利文書と並べて説明されることが多く、比較の問題として出やすい内容です。次の点を整理しておくと、答えを組み立てやすくなります。
フランス人権宣言とほかの宣言との違い
- アメリカ独立宣言(1776年)との違い: アメリカの宣言は、イギリスからの独立を宣言したものです。フランスの宣言は、国の中で生きる人々の権利と、国民の主権を示した点に特徴があります。
- 権利章典(イギリス、1689年)との違い: イギリスの権利章典は、国王の権限を制限し、議会の地位を守るための取り決めでした。フランスの宣言は、権利を王からの恩恵ではなく、生まれながらのものとして示しました。
- 世界人権宣言(1948年)との関係: 普遍的な人権という考え方は共通していますが、世界人権宣言は第二次世界大戦後の国際社会の経験を経て作られた別の文書です。
- 限界に触れる: 女性、植民地の奴隷、そして一定額以上の税を納めない男性の選挙権などが十分に含まれていなかった点に触れると、答案の説得力が増します。
よくある誤解は、人権宣言をそれだけで成立した憲法と考えることです。宣言は憲法を作るための原則であり、後に憲法の前文として位置づけられました。
教科書の記述を押さえておくと、共通テストの世界史や公民の問題にも対応しやすくなります。
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