0% • 残り6分

ナポレオン皇帝とは?ナポレオン時代の戦争とウィーン会議

10月 29, 2026
ナポレオン時代とは、フランスの実権を握ったナポレオン・ボナパルトが、戦争と改革を進めた1799年から1815年までの時期です。ワーテルローの戦いで敗れたあと、ウィーン会議が戦後のヨーロッパの秩序を決めました。
ナポレオン皇帝とは?ナポレオン時代の戦争とウィーン会議

基本データ

時期
1799年〜1815年
場所
フランスとヨーロッパ大陸の多く
中心人物
ナポレオン・ボナパルト
転機
1812年のロシア遠征
結末
ワーテルローの戦いで敗北、セントヘレナ島へ流刑
戦後の決定
ウィーン会議(1814〜1815年)
残したもの
ナポレオン法典

年表

  1. 1799年11月9日

    ブリュメール18日のクーデタで総裁政府が倒れ、ナポレオンが第一統領になります。

  2. 1804年12月2日

    パリのノートルダム大聖堂で、ナポレオンが皇帝として戴冠します。

  3. 1805年10月21日

    トラファルガーの海戦で、イギリス海軍がフランスとスペインの連合艦隊を破ります。

  4. 1805年12月2日

    アウステルリッツの戦いで、オーストリアとロシアの連合軍を破ります。

  5. 1806年11月

    ベルリン勅令が出され、イギリスとの貿易を断つ大陸封鎖令が始まります。

  6. 1812年6月

    ロシアへの侵攻が始まります。モスクワは焼け、冬の撤退で大軍の多くが失われます。

  7. 1813年10月16日〜19日

    ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で、連合軍がナポレオンを破ります。

  8. 1814年4月6日

    ナポレオンが退位し、地中海のエルバ島に送られます。

  9. 1814年9月

    ウィーン会議が始まり、戦後のヨーロッパの秩序を話し合います。最終議定書は1815年6月に署名されます。

  10. 1815年3月20日

    ナポレオンがパリに戻り、百日天下が始まります。

  11. 1815年6月18日

    ワーテルローの戦いで敗れ、ナポレオンは再び退位します。

  12. 1821年5月5日

    セントヘレナ島での流刑中に、ナポレオンが亡くなります。

5分でわかる

ナポレオン皇帝の帝国とは、1799年のクーデタで権力を握ったナポレオン・ボナパルトが、フランスを中心につくり上げた支配体制のことです。ナポレオンは16年ほどのあいだに皇帝の位につき、戦争に勝ち続け、最盛期にはヨーロッパ大陸の多くの地域を直接、あるいは同盟国を通じて支配しました。しかし、ロシア遠征の失敗や周辺国の連合、長引くスペインでの戦争によって力を失い、最後はワーテルローの戦いで敗れて、南大西洋のセントヘレナ島で生涯を終えます。

この時期は一般に「ナポレオン時代」と呼ばれ、1799年から1815年までを指します。流れをつかむには、ナポレオンの台頭、戦争、戦後の秩序づくりの三つに分けると整理しやすくなります。このページは、世界史 1700〜1918年のシリーズの一部でもあります。

原因:ナポレオンはどうして権力を握れたのか

ナポレオン時代の前提にあるのは、1789年に始まったフランス革命です。王政は倒れましたが、その後のフランスは長く混乱していました。1795年にできた総裁政府は人気がなく、財政難、ヨーロッパ各国との戦争、王党派や急進派の陰謀に苦しんでいました。革命の流れをくわしく知りたい方は、フランス革命のくわしい解説をご覧ください。

ナポレオンは、1796年から1797年にかけてのイタリア遠征で名声を得た若い将軍です。その後、1798年にはエジプト遠征を率いました。1799年11月、ブリュメール18日のクーデタで政治の協力者と軍の力を使い、総裁政府を終わらせます。彼は三人の統領のひとつとして権力の座につきましたが、すぐに第一統領の地位を政府の実質的な中心にしました。

権力を握ったナポレオンは、国内の制度づくりを急ぎました。1800年にはフランス銀行が設立され、お金の仕組みが安定していきます。1801年にはローマ教皇と政教協約(コンコルダート)を結び、フランス国内のカトリック教会と国家の関係を整えました。1802年にはアミアンの和約でイギリスとの戦争を一時休止させ、同じ年にレジオン・ドヌール勲章をつくって、能力や功績に応じて人を登用する仕組みを作りました。1803年にはルイジアナをアメリカ合衆国に売却しましたが、その資金は対英戦争の準備に使われたともいわれます。

1804年の民法典は、のちに「ナポレオン法典」と呼ばれ、財産、家族、契約などについて全国で同じ法律を使うしくみを作りました。ナポレオン法典は、征服地や周辺国の法制度にも影響を与えています。同じ1804年、元老院はナポレオンを「フランス人の皇帝」と宣言し、12月にはパリのノートルダム大聖堂で戴冠式が行われました。共和政の将軍が、世襲の皇帝へと立場を変えた瞬間です。

ナポレオン皇帝の帝国、戦争から没落まで

ナポレオンの強さの土台は、徴兵制による大軍と、それを素早く動かす指揮力でした。オーストリア、プロイセン、ロシア、イギリスなどが次々と同盟を組み替えるなかでも、ナポレオンは大きな会戦に勝ち続けます。ただし、負けた側は新しい同盟をつくり直し、戦争は終わりませんでした。

海ではイギリスが最大のライバルでした。1805年10月のトラファルガーの海戦で、フランスとスペインの連合艦隊はイギリス海軍に敗れ、イギリス本土への上陸計画はほぼ消えます。陸では、同じ年の12月にアウステルリッツの戦いで、オーストリアとロシアの連合軍を破りました。この戦いは「三帝会戦」とも呼ばれ、ナポレオンの用兵の見事さを示す戦いとして語られます。1806年には、神聖ローマ帝国が消滅しました。

イギリスは陸上で直接倒せなかったため、ナポレオンは経済の面から締め上げようとしました。1806年11月のベルリン勅令で始まった大陸封鎖令です。ヨーロッパの港をイギリス製品に閉ざす政策でしたが、大陸の商人は損失を受け、密輸が広がり、同盟国や占領地の不満も高まりました。封鎖がイギリス経済をどこまで打撃したかは、今も議論が分かれています。ただ、ロシアが封鎖を破って交易を続けたことが、1812年の遠征につながった点は重要です。

1808年、ナポレオンは兄のジョゼフをスペイン王に据えました。すると、スペインの民衆が各地で立ち上がり、イギリス軍も加わって、長い半島戦争が始まります。この戦争は「スペインの潰瘍」と呼ばれるほど、フランス軍の兵力と資金を少しずつ消耗させました。

1812年6月、ナポレオンは大陸軍を率いてロシアに侵攻しました。大陸軍には、フランス人だけでなく、ドイツ系、イタリア系、ポーランド系など多くの地域の兵士が含まれていました。兵力は約60万人ともいわれますが、数字は資料によって差があります。大陸軍は同年9月にモスクワに入りますが、市内の大部分は火災で焼け、ロシア皇帝アレクサンドル1世は講和に応じませんでした。冬が近づくなかでの撤退は、飢えと寒さのために大きな犠牲を生みます。川を渡った兵のうち、帰還できたのはごく一部でした。

1813年10月、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で、ロシア、プロイセン、オーストリアなどの連合軍がナポレオンを破りました。この戦いは、各国がナポレオンの支配に反対して手を結んだ象徴として知られています。連合軍はフランス国内に進み、1814年3月末にはパリに入城しました。

1814年4月、ナポレオンは退位し、地中海のエルバ島に送られました。ただし、エルバ島の統治は認められ、皇帝の称号も残されます。フランスではブルボン家のルイ18世が王に迎えられ、王政が復活しました。

1815年2月、ナポレオンはエルバ島を脱出し、3月にフランスに上陸しました。王政への不満も広がっていたため、軍と民衆の一部が彼を迎え、3月20日にはパリに戻ります。この約100日間の再起が「百日天下」です。6月18日、ワーテルローの戦いでは、ウェリントン公のイギリス軍を中心とする連合軍と、ブリュッヒャーのプロイセン軍に敗れました。ナポレオンは再び退位し、今度は南大西洋のセントヘレナ島に送られます。そこで1821年、51歳で亡くなりました。

影響:ウィーン会議と新しいヨーロッパ

ナポレオンの敗北後、勝った国々は戦後の秩序を決めるため、1814年秋からウィーンに集まりました。これがウィーン会議です。中心になったのは、オーストリアのメッテルニヒ、イギリスのキャッスルレー、ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセンのハルデンベルクなどでした。フランスは外交官のタレーランが代表を務め、敗戦国として発言権を取り戻そうとします。会議の最終議定書は1815年6月に署名されました。

会議の大きな目的は、勢力均衡をつくり、一国が再びヨーロッパを支配しないようにすることでした。フランスにはブルボン家が戻り、ネーデルラント王国が、フランスに対する備えとして新しくつくられます。ドイツ地域は数十の国家がゆるやかに連合する形にまとめられ、ポーランドの多くの地域はロシアの支配下に置かれました。この決定は、君主や王家の秩序を重んじるもので、国民の自決を優先したものではありませんでした。

ウィーン会議は、ナポレオンの改革をすべて消し去ったわけではありません。ナポレオン法典などの法制度や行政の仕組みは、征服地や周辺地域で残り、のちの多くの国の法律にも影響を与えました。また、外国の支配を受け、徴兵を経験した人々の間には、「国家は自分たちの手で治めるべきだ」という考えが広がっていきます。この時代は、そうした政治意識の変化を生んだ点でも重要です。

ナポレオン時代は、政治や戦争だけでなく、経済の変化とも重なっています。同じ時代の工業と社会の変化については、産業革命の解説もあわせて読むと、全体像がつかみやすくなります。

試験に出るポイント

日本の大学入試の世界史では、年号を覚えるだけでなく、原因と結果のつながりを説明させる問いがよく見られます。たとえば、ナポレオンがどのようにして権力を固めたのか、大陸封鎖令がなぜ思うような効果を上げられなかったのか、ウィーン会議がなぜ勢力均衡を目指したのか、といった問題です。

答案では、具体的な出来事を一つ挙げ、それがどのように次の出来事につながったのかを説明すると、説得力が増します。たとえば、ロシア遠征の失敗が、ライプツィヒでの敗北とその後の退位につながった、というように、因果の流れを一本の線で示すことを意識してください。

あわせて読みたい

よくある質問

ナポレオン時代はいつからいつまでですか?

一般には、1799年11月のブリュメール18日のクーデタから、1815年6月のワーテルローの戦いまでを指します。ただし、区切り方は本によって少し異なり、フランス革命の戦争から始めて説明する場合もあります。

ナポレオンはなぜ失脚したのですか?

主な理由は三つあります。1812年のロシア遠征で大軍を失ったこと、スペインでの長い戦争で兵力と資金を消耗したこと、そして各国の連合が何度も立ち上がったことです。1814年にパリが占領されると、国内の支持も大きく失われました。

ナポレオンはなぜエルバ島に送られたのですか?

連合国は、皇帝の称号を残したまま、小さな島エルバを統治させる形をとりました。これは妥協の産物でした。ナポレオンは1815年2月に島を脱出し、フランスに戻っています。

ウィーン会議は何を決めたのですか?

ナポレオン後のヨーロッパの秩序を決めた国際会議です。目的は勢力均衡をつくり、一国が再び支配的な力を持たないようにすることでした。フランスではブルボン家が復帰し、ネーデルラント王国が生まれ、ドイツ地域はゆるやかな連合にまとめられました。

ナポレオン法典は今も影響がありますか?

ナポレオン法典は、フランスで改正を重ねながら、法律を体系的にまとめる方法の手本として、多くの国に影響を与えました。財産、家族、契約などを一つの法典で扱う考え方は、その後の法制度にも受け継がれています。

理解度チェック

各問題に答えてから、タップして答えを確認しましょう。

  1. ナポレオンが第一統領となったクーデタは、いつ起きましたか?

    1. 1789年
    2. 1799年
    3. 1804年
    4. 1815年
    答えを見る

    1799年 — ブリュメール18日のクーデタは1799年11月に起き、総裁政府を倒しました。

  2. 百日天下を終わらせた戦いはどれですか?

    1. アウステルリッツの戦い
    2. トラファルガーの海戦
    3. ライプツィヒの戦い
    4. ワーテルローの戦い
    答えを見る

    ワーテルローの戦い — 1815年6月18日のワーテルローの戦いで敗れ、百日天下が終わりました。

  3. 大陸封鎖令の目的はどれですか?

    1. イギリス製品をヨーロッパから締め出し、イギリス経済を弱めること
    2. フランス国内の教会を廃止すること
    3. ロシアと同盟を結ぶこと
    4. アメリカ合衆国の独立を支援すること
    答えを見る

    イギリス製品をヨーロッパから締め出し、イギリス経済を弱めること — 大陸封鎖令は、イギリスとの貿易を断つことで、イギリス経済を打撃しようとした政策です。

  4. ナポレオンが最後に送られ、亡くなった島はどこですか?

    1. エルバ島
    2. セントヘレナ島
    3. コルシカ島
    4. マルタ島
    答えを見る

    セントヘレナ島 — ナポレオンは1815年に南大西洋のセントヘレナ島に送られ、1821年にそこで亡くなりました。

  5. ウィーン会議の大きな目的はどれですか?

    1. フランスを共和政にすること
    2. 勢力の均衡をつくり、一国の支配を防ぐこと
    3. ナポレオンを皇帝に戻すこと
    4. ロシアにヨーロッパ全体を任せること
    答えを見る

    勢力の均衡をつくり、一国の支配を防ぐこと — 会議では、一国が再びヨーロッパを支配しないように、各国の力のバランスを作ることが目指されました。

「ナポレオン・ボナパルト」の記事一覧

  1. ナポレオンの名言:出典が残る二つの言葉と帰属の確認
  2. ワーテルローの戦い:欧州の歴史を変えた転換点
  3. ナポレオンの身長は何cm?史料と風刺画から考える
  4. ナポレオン・ボナパルトとは何者か:コルシカ島から不滅の遺産を築くまで
  5. ナポレオン戦争とは?わかりやすく
  6. ナポレオン法典とは
共有:

著者について

Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

続きを読む →

続けて読む

要約

記事

このテーマを探る: ナポレオン・ボナパルト