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ナポレオン皇帝の帝国とは、1799年のクーデタで権力を握ったナポレオン・ボナパルトが、フランスを中心につくり上げた支配体制のことです。ナポレオンは16年ほどのあいだに皇帝の位につき、戦争に勝ち続け、最盛期にはヨーロッパ大陸の多くの地域を直接、あるいは同盟国を通じて支配しました。しかし、ロシア遠征の失敗や周辺国の連合、長引くスペインでの戦争によって力を失い、最後はワーテルローの戦いで敗れて、南大西洋のセントヘレナ島で生涯を終えます。
この時期は一般に「ナポレオン時代」と呼ばれ、1799年から1815年までを指します。流れをつかむには、ナポレオンの台頭、戦争、戦後の秩序づくりの三つに分けると整理しやすくなります。このページは、世界史 1700〜1918年のシリーズの一部でもあります。
原因:ナポレオンはどうして権力を握れたのか
ナポレオン時代の前提にあるのは、1789年に始まったフランス革命です。王政は倒れましたが、その後のフランスは長く混乱していました。1795年にできた総裁政府は人気がなく、財政難、ヨーロッパ各国との戦争、王党派や急進派の陰謀に苦しんでいました。革命の流れをくわしく知りたい方は、フランス革命のくわしい解説をご覧ください。
ナポレオンは、1796年から1797年にかけてのイタリア遠征で名声を得た若い将軍です。その後、1798年にはエジプト遠征を率いました。1799年11月、ブリュメール18日のクーデタで政治の協力者と軍の力を使い、総裁政府を終わらせます。彼は三人の統領のひとつとして権力の座につきましたが、すぐに第一統領の地位を政府の実質的な中心にしました。
権力を握ったナポレオンは、国内の制度づくりを急ぎました。1800年にはフランス銀行が設立され、お金の仕組みが安定していきます。1801年にはローマ教皇と政教協約(コンコルダート)を結び、フランス国内のカトリック教会と国家の関係を整えました。1802年にはアミアンの和約でイギリスとの戦争を一時休止させ、同じ年にレジオン・ドヌール勲章をつくって、能力や功績に応じて人を登用する仕組みを作りました。1803年にはルイジアナをアメリカ合衆国に売却しましたが、その資金は対英戦争の準備に使われたともいわれます。
1804年の民法典は、のちに「ナポレオン法典」と呼ばれ、財産、家族、契約などについて全国で同じ法律を使うしくみを作りました。ナポレオン法典は、征服地や周辺国の法制度にも影響を与えています。同じ1804年、元老院はナポレオンを「フランス人の皇帝」と宣言し、12月にはパリのノートルダム大聖堂で戴冠式が行われました。共和政の将軍が、世襲の皇帝へと立場を変えた瞬間です。
ナポレオン皇帝の帝国、戦争から没落まで
ナポレオンの強さの土台は、徴兵制による大軍と、それを素早く動かす指揮力でした。オーストリア、プロイセン、ロシア、イギリスなどが次々と同盟を組み替えるなかでも、ナポレオンは大きな会戦に勝ち続けます。ただし、負けた側は新しい同盟をつくり直し、戦争は終わりませんでした。
海ではイギリスが最大のライバルでした。1805年10月のトラファルガーの海戦で、フランスとスペインの連合艦隊はイギリス海軍に敗れ、イギリス本土への上陸計画はほぼ消えます。陸では、同じ年の12月にアウステルリッツの戦いで、オーストリアとロシアの連合軍を破りました。この戦いは「三帝会戦」とも呼ばれ、ナポレオンの用兵の見事さを示す戦いとして語られます。1806年には、神聖ローマ帝国が消滅しました。
イギリスは陸上で直接倒せなかったため、ナポレオンは経済の面から締め上げようとしました。1806年11月のベルリン勅令で始まった大陸封鎖令です。ヨーロッパの港をイギリス製品に閉ざす政策でしたが、大陸の商人は損失を受け、密輸が広がり、同盟国や占領地の不満も高まりました。封鎖がイギリス経済をどこまで打撃したかは、今も議論が分かれています。ただ、ロシアが封鎖を破って交易を続けたことが、1812年の遠征につながった点は重要です。
1808年、ナポレオンは兄のジョゼフをスペイン王に据えました。すると、スペインの民衆が各地で立ち上がり、イギリス軍も加わって、長い半島戦争が始まります。この戦争は「スペインの潰瘍」と呼ばれるほど、フランス軍の兵力と資金を少しずつ消耗させました。
1812年6月、ナポレオンは大陸軍を率いてロシアに侵攻しました。大陸軍には、フランス人だけでなく、ドイツ系、イタリア系、ポーランド系など多くの地域の兵士が含まれていました。兵力は約60万人ともいわれますが、数字は資料によって差があります。大陸軍は同年9月にモスクワに入りますが、市内の大部分は火災で焼け、ロシア皇帝アレクサンドル1世は講和に応じませんでした。冬が近づくなかでの撤退は、飢えと寒さのために大きな犠牲を生みます。川を渡った兵のうち、帰還できたのはごく一部でした。
1813年10月、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で、ロシア、プロイセン、オーストリアなどの連合軍がナポレオンを破りました。この戦いは、各国がナポレオンの支配に反対して手を結んだ象徴として知られています。連合軍はフランス国内に進み、1814年3月末にはパリに入城しました。
1814年4月、ナポレオンは退位し、地中海のエルバ島に送られました。ただし、エルバ島の統治は認められ、皇帝の称号も残されます。フランスではブルボン家のルイ18世が王に迎えられ、王政が復活しました。
1815年2月、ナポレオンはエルバ島を脱出し、3月にフランスに上陸しました。王政への不満も広がっていたため、軍と民衆の一部が彼を迎え、3月20日にはパリに戻ります。この約100日間の再起が「百日天下」です。6月18日、ワーテルローの戦いでは、ウェリントン公のイギリス軍を中心とする連合軍と、ブリュッヒャーのプロイセン軍に敗れました。ナポレオンは再び退位し、今度は南大西洋のセントヘレナ島に送られます。そこで1821年、51歳で亡くなりました。
影響:ウィーン会議と新しいヨーロッパ
ナポレオンの敗北後、勝った国々は戦後の秩序を決めるため、1814年秋からウィーンに集まりました。これがウィーン会議です。中心になったのは、オーストリアのメッテルニヒ、イギリスのキャッスルレー、ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセンのハルデンベルクなどでした。フランスは外交官のタレーランが代表を務め、敗戦国として発言権を取り戻そうとします。会議の最終議定書は1815年6月に署名されました。
会議の大きな目的は、勢力均衡をつくり、一国が再びヨーロッパを支配しないようにすることでした。フランスにはブルボン家が戻り、ネーデルラント王国が、フランスに対する備えとして新しくつくられます。ドイツ地域は数十の国家がゆるやかに連合する形にまとめられ、ポーランドの多くの地域はロシアの支配下に置かれました。この決定は、君主や王家の秩序を重んじるもので、国民の自決を優先したものではありませんでした。
ウィーン会議は、ナポレオンの改革をすべて消し去ったわけではありません。ナポレオン法典などの法制度や行政の仕組みは、征服地や周辺地域で残り、のちの多くの国の法律にも影響を与えました。また、外国の支配を受け、徴兵を経験した人々の間には、「国家は自分たちの手で治めるべきだ」という考えが広がっていきます。この時代は、そうした政治意識の変化を生んだ点でも重要です。
ナポレオン時代は、政治や戦争だけでなく、経済の変化とも重なっています。同じ時代の工業と社会の変化については、産業革命の解説もあわせて読むと、全体像がつかみやすくなります。
試験に出るポイント
日本の大学入試の世界史では、年号を覚えるだけでなく、原因と結果のつながりを説明させる問いがよく見られます。たとえば、ナポレオンがどのようにして権力を固めたのか、大陸封鎖令がなぜ思うような効果を上げられなかったのか、ウィーン会議がなぜ勢力均衡を目指したのか、といった問題です。
答案では、具体的な出来事を一つ挙げ、それがどのように次の出来事につながったのかを説明すると、説得力が増します。たとえば、ロシア遠征の失敗が、ライプツィヒでの敗北とその後の退位につながった、というように、因果の流れを一本の線で示すことを意識してください。
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