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ナポレオン法典とは、1804年3月21日にフランスで公布され、同じ日から施行された民法典のことです。正式には『フランス人の民法典』と呼ばれ、ナポレオン・ボナパルトが深く関わったことから、『ナポレオン法典』という通称で広まりました。いまのフランスでは、単に『民法典』と呼ばれることが多いです。
簡単に言うと、民法とは、人と人とのあいだの私的なルールを決めた法律です。結婚や親子、相続、財産の持ち主、契約の結び方などが対象になります。この法典は、その基本をひとつにまとめた近代民法の代表例です。
この法典が掲げた柱は三つあります。第一に、生まれや身分による特権をなくし、民事上のルールを法の下で等しく適用すること。第二に、私有財産を強く守ること。第三に、当事者が自由に契約を結べることです。一方で、家族の中では夫を中心とする家父長制の考え方を取り入れており、この点は今も議論の的になっています。
ナポレオン時代の流れを押さえたい方は、ナポレオン時代(1799〜1815年)の記事も合わせてどうぞ。ここでは、法典が生まれた背景から順に見ていきます。
なぜ作られたのか
1789年のフランス革命では、貴族や聖職者が持っていた特権が廃止されました。しかし、革命の後も国全体で使える民事のルールは整っていませんでした。フランスは、北部の慣習法が強い地域と、南部のローマ法の伝統が強い地域に分かれていたとされ、同じ問題でも地域によって答えが違うことがありました。改革を求める人々は、市民を等しく扱う明確な法を求めていました。
1799年11月、ナポレオン・ボナパルトはクーデターで権力を握りました。社会を安定させるには、わかりやすく統一された法が必要だと考えられていました。1800年8月12日、政府は法律家4人を起草委員に任命し、民法典の草案づくりが始まりました。
ナポレオン自身も審議に深く関わり、法典をめぐる審議のうち半数以上を主宰したとされています。草案は国務院などで審議され、1804年3月に法律として成立します。
起草者として名前が挙がるのは、トロンシェ、ポルタリス、ビゴー=プレアムヌー、マルヴィルの4人です。草案はローマ法の教科書的な構成にならい、人、物、そして物の取得方法の順で組み立てられました。支持者たちは、文字で書かれた明確な法があれば、市民が法の内容を予測しやすくなると考えました。
一般の市民にとっては、地域ごとの慣習を調べる手間が減ることも、大きな利点でした。
ナポレオン法典の内容
当初の法典は三つの編に分かれていました。第1編は人に関する規定で、身分登録、婚姻、親子、後見などを扱います。第2編は財産に関する規定で、所有権や占有、土地に関する権利などです。第3編は所有権を取得する方法で、相続、贈与、契約、債務などが含まれます。
日常生活にとって大きかったのは、民事のルールが一つの文章にまとめられたことです。慣習や地方ごとの違いに頼るのではなく、条文を読めばおおよその答えがわかるようになりました。
平等な権利と私有財産
革命の理念を受け継ぎ、法典は身分による特権を民事の場から取り除きました。また、所有権は最も絶対的な形で認められるものとされ、私有財産は強く守られました。所有者が自分の財産を使い、処分する権利を持つ、という考え方が前面に出ています。
契約の自由と過失責任
当事者は、内容を自分で決めて契約を結べます。ただし、人に損害を与えた場合の責任は、基本的に過失の有無で判断されるという考え方が取り入れられました。これは近代の民法で広く見られる考え方です。
平等分割相続
相続は、子どもたちが財産を平等に分ける方式が原則になりました。長男が家の財産の大半を受け継ぐ方式をやめたのです。当時のフランスでは、相続の慣習が地域ごとに違っていたため、統一して平等に分けるという原則は大きな転換でした。この仕組みは農地が細かく分けられる結果につながり、農村の暮らしに大きな影響を与えたと考えられています。
条文を一つずつ暗記するよりも、三つの柱がどの規定に表れているかを押さえるほうが、理解はずっと深まります。たとえば相続の規定には平等の理念が、所有権の規定には私有財産の保護が、それぞれ反映されています。
家父長制という面
ナポレオン法典を語るうえで、最も議論を呼ぶのが家族の規定です。法典は、家族の中心を夫とする家父長制をはっきり採りました。当時のヨーロッパでは、家族を家長が率いるのが一般的な考え方であり、起草者たちもこの考え方を大きく疑うことはなかったとされます。
第213条は、夫が妻を保護し、妻が夫に従うという趣旨の規定でした。夫婦の義務は対等ではなく、役割に上下の差があったのです。妻は、財産の管理や契約など多くの法律行為で夫の許可が必要とされ、法律上の行為能力が制限されていました。
離婚や不貞についても、夫と妻で扱いに差がありました。妻の不貞は夫が離婚を求める理由になりましたが、夫の不貞を理由に妻が離婚を求める条件は限られていました。親の権限も強く、婚外子は父母の親族の財産について相続の権利が限られていました。
多くの歴史家は、このような規定を、革命期に広がった平等への期待から後退したものと評価しています。ただし、法典の家族観はその後のフランスやヨーロッパの家族法にも長く影響しました。
その後の改革によって、こうした差は少しずつ縮められていきました。ただし、変化は一度に進んだわけではありません。
この部分を読むときは、革命期の平等への期待と、家族の中で男性の権限を残した点を分けて考えると整理しやすくなります。両方を同時に見ることが、法典を公平に評価する近道です。
世界と日本への広がり
ナポレオンの支配が及んだ地域では、この法典が広く使われました。ベルギーやルクセンブルク、オランダ、ドイツ西部のラインラントやバーデン大公国、イタリアの一部などです。ベルギーは、基本的な枠組みを約200年にわたって保った代表的な国です。ドイツ西部では、1900年に施行されたドイツ民法典まで、この法の影響が続きました。
アメリカのルイジアナ州では、1808年3月31日に民法の基礎となる『ダイジェスト』が成立しました。フランス法の影響を重視する見方と、スペイン法の影響を重視する見方があり、今も議論が続いています。条文が似ている理由については、どちらの法も1800年の同じ草案をもとにしたためだという説明もあります。
一方、ラテンアメリカでは、スペインやポルトガルの法の伝統の方が大きな影響を与えたとされ、ナポレオン法典の影響は思われているほど大きくないという指摘もあります。
日本との関係は、少し複雑です。明治初年(1870年ごろ)には、箕作麟祥の訳による『仏蘭西法律書 民法』が刊行されたとされています。その後、フランス人法律家ボアソナードが関わった旧民法が1890年(明治23年)に公布されましたが、施行されませんでした。家族の規定が日本の家制度に合わないという批判が出て、民法典論争へと発展したためです。
1898年(明治31年)に施行された民法は、ドイツ法の影響を強く受けたものとされています。ただ、財産に関する部分などには、フランス法にさかのぼる規定が残っていると指摘されています。ナポレオン法典は、日本にとって、そのまま真似る手本ではなく、比べて考えるための参考例だったと言えるでしょう。
ナポレオン法典は、こうした各国の法の歩みを比べる出発点になります。同じ法典が、国や地域の事情によってどう変えられたのかを見ると、法の広がり方がよくわかります。
試験に出るポイント
歴史の試験や論述では、次の三つを押さえておくと安心です。
- 基本事項:1804年に公布されたフランスの民法典で、ナポレオンの名が結びついた通称があること。
- 意義:革命の理念である平等、私有財産の保護、契約の自由を、一つの法典として文章にしたこと。ヨーロッパや世界の民法に影響を与えたこと。
- 限界:家族の規定では夫の権限が強く、女性の地位が低く置かれたこと。この法典は植民地の奴隷制を終わらせず、フランスで奴隷制が廃止されたのは1848年でした。
論述では、「革命で掲げられた平等と財産の自由を法律として定着させた一方で、家族では男性優位の家父長制を残した」と、両面をセットで書くのがポイントです。どちらか一方だけを書くと、評価が片寄って見えてしまいます。
答案では、まず1804年という年と法典の性格を書き、次に平等と財産の柱を述べ、最後に家族の規定の限界を書くと、流れが自然にまとまります。
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ナポレオンがどのようにして権力を握ったのかを知りたい方は、Who Was Napoleon Bonaparte?(英語記事)で、コルシカ島から権力の頂点までの流れがつかめます。
ナポレオンのイメージがどのように描かれてきたかは、Famous Portraits of Napoleon(英語記事)で見ることができます。
法典が成立した同じ時期に、ナポレオンが海外で何を進めていたのかを知りたい方には、Napoleon's Egyptian Campaign (1798–1801)(英語記事)がおすすめです。