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3C政策とは、イギリスがカイロ、ケープタウン、カルカッタの三都市を鉄道と電信で結び、一つの支配の網にしようとした構想です。名前は三都市の頭文字に由来します。エジプト、南アフリカ、インドという三つの拠点を押さえ、インドへの道を守りながら、アフリカを北から南へ貫くイギリスの力を作ることが狙いでした。
この構想は、19世紀後半から20世紀初めの帝国主義の流れの中にあります。帝国主義とは、列強が植民地や勢力圏を争って広げた動きのことです。流れ全体は、帝国主義の解説記事で整理しています。3C政策の特徴は、交通に力を入れたことです。鉄道と電信は、兵士、役人、物資を運び、離れた領土をまとめる道具として期待されていました。
注意したいのは、3C政策が一つの決まった文書や法令で定められた計画ではないことです。さまざまな狙いが結びついた構想であり、後の研究者や教科書が、この名前でまとめて呼ぶようになりました。
カイロはスエズ運河への入り口、ケープタウンは南部の港と拠点、カルカッタはイギリス領インドの首都でした。三つの都市は、イギリスが押さえたい地点を示しています。
三角形の辺がすべて鉄道だったわけではありません。ケープタウンからカルカッタへは、インド洋を渡る海路が使われ、ケープタウン近くのシモンズタウンの海軍基地が航路を支えました。カイロからカルカッタへは、スエズ運河と紅海を通り、途中のアデンなどの港を経て、アラビア海を渡る海路です。3C政策は、陸の鉄道と海の航路を組み合わせた網の構想でした。
イギリスが3C政策を進めた理由
インドはイギリス帝国の中心であり、本国からインドへの船はスエズ運河を通るのが基本でした。スエズ運河は喜望峰回りの航路を大きく縮めるもので、1869年に開通しています。イギリスは1875年に、エジプトの副王(ヘディーヴ)が持っていた運河会社の株を買い取り、1882年にはエジプトを占領しました。カイロと運河を押さえたことで、インドへの道に対する影響力は大きく強まりました。
南では、ケープ植民地が港と拠点を与えてくれました。さらに、1870年代にはキンバリーでダイヤモンドが見つかり、1886年にはウィットウォーターズランドで金が発見されます。資金と人が内陸へ流れ込み、鉄道は鉱物や石炭、軍隊を運ぶ手段として重要になりました。鉄道の建設には大きな費用がかかるため、一本の線を自国の支配地域の中に通すことは、経済的にも有利だと考えられたのです。
ロンドンからカルカッタまでの電信回線は、1870年4月に完成していました。陸上線と海底線を組み合わせた回線で、一部はペルシアを通っています。3C政策は、同じ発想をアフリカの陸路にも広げようとするものです。
鉄道の構想は、1874年に新聞『デイリー・テレグラフ』の編集長エドウィン・アーノルドが、ケープタウンからカイロまでの鉄道を提案したことから始まったとされます。その後、セシル・ローズがこの夢を自分の計画として強く押し進めました。ローズは1890年から1896年までケープ植民地の首相を務め、彼の会社は北へ線路を延ばして、のちのボツワナ、ザンビア、ジンバブエにあたる地域に鉄道を敷きました。ケープタウンからカイロまでを、イギリスの線路で一本に結ぶという夢は、3C政策のもっともよく知られた姿になっています。
3C政策が通った三つの舞台
計画は、ひと続きの道として順調に進んだわけではありません。大きく三つの地域で、ほかの列強や現地の勢力とぶつかりました。それぞれの地域には、現地の人々の社会と政治があり、鉄道の線はその上に引かれたものでした。
エジプトとスーダン
スーダンは、エジプトと内陸アフリカのあいだにある地域です。1885年にはマフディー軍がハルツームを陥落させ、イギリスにとって大きな打撃となりました。1896年からは、キッチナー将軍の部隊がワディ・ハルファから南へ向かう鉄道を修復して延ばし、マフディー国家との戦いを支えます。1898年9月2日、オムドゥルマンの戦いで、イギリス軍はマフディー軍を破りました。
その数週間後、ナイル川上流のファショダで、フランスの探検隊とイギリス軍が向かい合いました。どちらの政府も全面的な戦争は望まず、フランスは1898年11月に撤退で合意します。英仏は、植民地をめぐる対立を1904年の英仏協商でまとめました。ファショダ事件が示したのは、カイロから南へ伸びる線路は、引くだけでは確保できず、列強どうしの交渉と力の対立の中で争われたということです。
南アフリカとローデシア
南の区間は、もっとも完成に近い部分でした。第一次世界大戦の前には、ケープタウンからキンバリーを経てブラワヨへ至る線路がつながっています。1905年には、ザンベジ川にかかるヴィクトリアの滝橋が開通しました。この鉄橋は今も残り、計画の規模を伝える代表的な遺構です。
内陸の金鉱地帯では、1886年の金発見ののち、ヨハネスブルグのような新しい町が急速に育ちました。南アフリカ戦争(ボーア戦争、1899〜1902年)は、金を産出するトランスヴァールの支配をめぐる争いなど、さまざまな理由で戦われました。北へ向かう路線の道筋には、ボーア人の二つの共和国、トランスヴァールとオレンジ自由国が位置していました。イギリスが勝利し、1910年には両国の地域が南アフリカ連邦に加わります。
東アフリカの空白
東の区間は、もっとも難しい部分でした。ドイツは1891年にドイツ領東アフリカを確保し、この植民地がイギリス領東アフリカと南部のあいだに割り込みます。コンゴは熱帯雨林と険しい地形が続き、別の障害になりました。1916年までに、イギリスとその同盟国の軍は、アフリカ人兵士やインド兵を含めてドイツ領東アフリカをほぼ占領します。しかし、レットウ=フォルベック将軍率いるドイツ軍は1918年11月まで戦い続けました。東の空白は、戦争が終わるまで完全には埋まりませんでした。
ドイツの3B政策との対立
ドイツも中東で鉄道の野心を持っていました。1903年、オスマン帝国政府は、ドイツの銀行に支えられた会社にバグダードへ向かう鉄道の建設を認めます。ベルリン、ビザンティウム(イスタンブール)、バグダードを結ぶこの計画は、3B政策と呼ばれます。イギリスは、ドイツの鉄道がペルシア湾に近づけば、インドへの道が脅かされると懸念しました。
1914年8月に第一次世界大戦が始まったとき、バグダード鉄道はまだ目的地から約960キロメートル(600マイル)手前にありました。3B政策は、ドイツが中東での影響力を強めるための象徴でもありました。3C政策と3B政策の対立は、英独の緊張を深めた多くの要因の一つです。この対立だけで戦争が起きたわけではありません。地図の上に引かれた鉄道が外交の緊張に変わる典型的な例として、よく取り上げられます。
計画が途中で止まった理由
3C政策の鉄道は、ケープタウンからカイロまで一本の路線として完成しませんでした。理由は主に三つあります。
第一に、路線の途中がすべてイギリスの領土ではなかったことです。ドイツ領、コンゴ、スーダンの政情などの空白が残りました。第二に、第一次世界大戦後は資金が不足し、1920年代から1930年代には、道路輸送、航空貨物、安い海運が長い鉄道の必要性を下げました。世界恐慌もこの流れを後押しします。第三に、1945年以降、アフリカ各国の独立によって、区間ごとに支配する者が変わり、一本の路線としての政治的な理由が失われました。
止まった計画は、単なる失敗としてだけ見るべきものではありません。地図の上では一本の線に見えても、実際には多くの主権や交渉をまたぐ仕事でした。南の鉄道網やヴィクトリアの滝橋は、規模の大きさを今に伝えています。また、帝国が鉄道と電信を使って遠くの土地を一つの仕組みに見せようとしたことは、3C政策がもっともよく示す発想です。
試験に出るポイント
共通テストの世界史では、3C政策と3B政策を比べさせ、帝国主義の対立が第一次世界大戦の背景になったことを説明させる問題が考えられます。教科書では、3C政策を三都市を結ぶ「三角形」の政策として扱うことが多いので、答案では鉄道だけの計画と書かないようにしましょう。まず、3C政策が交通を使って経済、戦略、支配の目的を結びつけた構想だったことを明確に書きます。
その説明を支える例として、ファショダ事件とヴィクトリアの滝橋を挙げると、論旨がはっきりします。そのうえで3B政策との対立を示せば、英独の緊張がどのように高まったかを説明できます。
- 交通(鉄道・電信)と支配の結びつきを示す
- ファショダ事件など、列強の衝突を具体例にする
- 3B政策と比べて、第一次世界大戦へ向かう緊張を説明する
注意したいのは、3C政策をイギリス政府が決めた一つの計画だと断定しないことです。構想として捉えて書くほうが、正確な答案になります。
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3C政策の中心人物を知るには、セシル・ローズの風刺画の解説が役立ちます。もう一方の鉄道計画は、ドイツの3B政策(ベルリン、ビザンティウム、バグダード)で比べてください。イギリス帝国の考え方の背景としては、奴隷貿易と奴隷制の廃止も読むと、19世紀の流れがつながります。