5分でわかる:ウィーン会議とは
ウィーン会議とは、ナポレオン戦争が終わったあとのヨーロッパの秩序を決めるために、1814年秋から1815年6月まで、オーストリアの首都ウィーンで開かれた国際会議です。目的は、どこか一国が再び強くなりすぎないよう、大国どうしの勢力均衡を作ることでした。最終的な合意は、1815年6月9日に署名された最終議定書にまとめられています。
会議は、華やかな舞踏会や社交でも知られています。そこから生まれたのが「会議は踊る、されど進まず」という皮肉です。これは、日本で一般に使われている訳し方です。この記事では、会議がいつ、なぜ開かれ、どんな対立があり、何が決まったのかを順に見ていきます。このページはナポレオン時代(1799〜1815年)のまとめの一部です。
ウィーン会議はいつ開かれたか
会議の期間は、1814年秋ごろから、1815年6月9日の最終議定書の署名までとされます。開始の時期は資料によって違いがあります。1814年9月からとする概説がある一方で、同年11月1日を開会の日とする資料もあります。そのため、一般には「1814年秋に始まった」と説明されます。
実際の交渉は、大国の代表が集まる少人数の会合や非公式な話し合いで進みました。会議の終盤には、ナポレオンのエルバ島脱出という予想外の事態が加わり、数か月のうちに合意をまとめる必要が生じます。一年にも満たない期間でしたが、そのあいだにヨーロッパの地図は大きく描きかえられました。
ナポレオン後のヨーロッパ:会議が生まれた背景
1812年になると、ナポレオンのフランスはヨーロッパ大陸の大部分を支配していました。フランスの影響はベルギーやドイツ西部、イタリアにまで及び、周辺の国々の多くは、ナポレオンの一族や同盟者が統治していました。次の地図は、会議がのちに打ち消すことになる出発点を示しています。

ロシア遠征に失敗したナポレオンは、1813年以降、各国の連合軍に押し戻されていきます。1814年4月にはナポレオンが退位し、地中海のエルバ島へ流されました。同年5月30日に結ばれた第一次パリ条約は、フランスと第六次対仏大同盟のあいだの戦争を終わらせたものです。フランスに対する条件は比較的寛大でした。連合国側が、復活したブルボン王朝に安定した隣国になってほしいと考えたからです。
しかし、パリ条約は戦争を終わらせただけで、ヨーロッパ全体の問題を解決したわけではありませんでした。ポーランドやザクセン、ドイツの処遇など、重要な問題が残っていました。そこで大国の代表がウィーンに集まり、新しい秩序を話し合うことになったのです。
背景には、思想の対立もありました。フランス革命は、国民の主権や自由という理念を広めましたが、ナポレオンの支配はその理念を征服と結びつけてしまいました。そのため会議の参加者の多くは革命の理念を警戒し、君主の権威と秩序を取り戻すことを重視しました。
ウィーンに集まった人々
会議の主催国はオーストリアでした。皇帝フランツ1世が会議の舞台を提供し、外相のクレメンス・フォン・メッテルニヒが議長として議事を進めました。メッテルニヒは、大国どうしが力のつり合いを保つ体制を目指した人物で、その考え方はのちの保守的な政治と結びつけて語られます。
ロシアからは皇帝アレクサンドル1世が自ら出席し、自国の要求を強く押し出しました。イギリスからはキャッスルレー子爵が、プロイセンからはハルデンベルク宰相が代表を務めました。フランスでは、復古したブルボン王家のルイ18世に仕えるタレーランが交渉に加わり、フランスを対等な交渉相手として扱うよう主張しました。
タレーランは、ナポレオンの下で外相を務めた経験をもつ外交官です。彼が掲げたのは、正当な王家が復活すべきだという「正統性」の原則でした。敗戦国フランスを交渉の中心に戻したことが、彼の大きな成果とされています。
キャッスルレーは、イギリスの外相として、ヨーロッパの力のつり合いが長く続くことを求めました。アレクサンドル1世は、ナポレオンを破ったロシアの皇帝として存在感を示し、ポーランドの問題にこだわりました。それぞれの人物が、自国の利益と会議全体の安定のあいだで折り合いを探していたといえます。
200を超える国家や君主家が代表を送ったと伝えられています。ただ、実際の交渉の多くは、少数の大国と小さなグループによる非公式な話し合いで進みました。会議の力関係は、オーストリア、イギリス、フランス、プロイセン、ロシアの五大国が握っていたと考えると分かりやすいでしょう。
会議の裏で争われたこと:ポーランドとザクセン
会議の二大争点は、ポーランドとザクセンでした。ロシアは、ナポレオンが作ったワルシャワ大公国の大部分を手に入れ、ロシア皇帝を王とするポーランド王国とすることを望みました。一方、プロイセンはザクセンの併合をねらいました。ザクセン王はナポレオンの同盟者だったため、その領土は勝者の分配の的になったのです。
イギリスとオーストリアは、ロシアが中央ヨーロッパで強くなりすぎることを警戒しました。対立が深まるなか、1815年1月3日には、オーストリア、イギリス、フランスが秘密条約を結びます。これは、ロシアとプロイセンの要求に対抗する三国の協調でした。この条約によって敗戦国のフランスが大国の協議に戻り、タレーランの外交は大きな成果を得ました。
争いは、大国どうしの妥協によって収められました。ただ、妥協が全員を満足させることはなく、残った不満は、のちの時代の対立の種になっていきます。
「会議は踊る」の由来:舞踏会と社交界
1814年から1815年のウィーンは、サロンや晩餐会、舞踏会が次々と開かれる社交の街でした。各国の君主や大臣を楽しませようと、主催者たちは競うように催しを開きました。会議の仕事の大きな部分も、こうした非公式の場で進んでいたとされます。ワルツが大流行し、訪れた各国の王族もその熱狂に巻き込まれたといいます。
宮廷には決まりもありました。皇帝と宮廷の前ではワルツを踊ることが認められていなかったものの、外国の君侯や外交官には、その規則が緩められていたといいます。華やかな舞踏の裏側で、各国の代表は外交の駆け引きを続けていたのです。
有名な皮肉は、フランス語の一文「Le Congrès ne marche pas, il danse」で、シャルル=ジョゼフ・ド・リーニュ公の言葉として伝わっています。意味は、会議は進まず、踊っている、ということです。リーニュ公は、軍人であり文筆家でもあった人物で、会議のあいだウィーンにいました。この言葉にはフランス語の言い回しがいくつかあり、いつ活字になったのかは、資料では確かめきれていません。リーニュ公は1814年12月にウィーンで亡くなったため、会議の終わりは見ていません。
舞踏会は、ただの気晴らしだったのか、それとも外交の一部だったのか。歴史家のあいだでも議論があります。夜の社交の場では、ふだんは話しにくい大臣どうしが個別に意見を交わせました。舞踏会は息抜きであると同時に、交渉を進める場でもあったと考えられます。
百日天下:ナポレオンの帰還
1815年に入ると、会議は予想外の事態で中断されます。2月26日、ナポレオンは約1000人の兵とともにエルバ島を脱出し、3月1日、カンヌとアンティーブのあいだのゴルフ=ジュアンに上陸しました。ルイ18世はパリを離れ、ナポレオンは3月20日にパリへ入ります。ここから、約100日間続いた「百日天下」が始まりました。
ウィーンにいた列強は、3月13日の宣言で、ナポレオンが島での取り決めを破ったと非難し、法の保護の外に置くことを表明しました。会議は、もはや長い時間をかけて和平を作る場ではなくなりました。列強は軍隊の準備を急ぎながら、同時に合意を固めなければならなかったのです。
最後の決定的な戦いは、1815年6月18日、ブリュッセル南方のワーテルローで行われ、ナポレオンは敗れました。最終議定書が署名されたのは、その9日前のことです。ワーテルローの勝利によって、ウィーンで作られた秩序は、戦後の基礎として固まっていきました。
最終議定書が決めたこと
最終議定書は1815年6月9日に署名されました。一つの条約というより、さまざまな合意と付属文書をまとめたものでしたが、ヨーロッパの地図を各地で書き換えました。主な内容は次のとおりです。
- ドイツ連邦:ドイツの諸国は、ゆるやかな連合体としてまとめられました。連邦の規約は1815年6月8日に採択され、加盟国はふつう39とされています。
- ネーデルラント王国:1815年3月にオラニエ公ウィレムが王の称号を名乗り、フランスとドイツ諸国のあいだの緩衝地帯として位置づけられました。
- 会議王国ポーランド:ワルシャワ大公国の大部分が、ロシア皇帝を王とする王国になりました。
- プロイセンの拡大:プロイセンはザクセンの大きな部分を得て、ザクセン王は残りの領土を保ちました。

最終議定書は、すべての人を満足させたわけではありません。ポーランドの人々、ドイツの自由主義者、イタリアで自治を望んだ人々の期待は、その多くが先送りされました。この体制と民族意識のあいだの緊張は、その後の世紀を通じて続くことになります。
地図で比べる:1812年と1815年
1812年の地図と1815年の地図を並べると、ヨーロッパの変化がはっきり見えてきます。1812年には、フランスとその衛星国が大陸の中央部を覆っていました。1815年には、フランスは自国の国境の内側へ縮められ、ドイツ連邦の諸国やネーデルラント王国が、フランスの北と東に並ぶ形になりました。
フランス語の地名で描かれた下の地図は、ウィーン会議による領土変更を示しています。どの国がどの領土を得たのかを確かめると、理解が早くなります。ただし、地図は変化の大きな流れを示すもので、当時の国境を完全に再現したものではないと考えてください。

ドイツ連邦とは
最終議定書で生まれたドイツ連邦は、ドイツ語圏の多くの領邦と自由都市を、ゆるやかな連合にまとめたものです。各国は独立した主権を保ち、共通の議会で話し合う仕組みでした。連邦の議長はオーストリアが務め、オーストリアの影響力が強いことが特徴です。
この連邦は、ドイツを一つの国家にまとめたいと望んだ人々の期待には応えられませんでした。統一を求める声は1848年の革命の時期に強まり、やがてプロイセンとオーストリアの対立へとつながっていきます。ドイツ連邦は、ウィーン会議の成果のなかでも、もっとも長く議論を呼んだものの一つといえるでしょう。
神聖同盟と、その後のヨーロッパ
1815年9月26日、パリで皇帝アレクサンドル1世、皇帝フランツ1世、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が神聖同盟に署名しました。キリスト教の原則にもとづいて統治し、互いに助け合うことを誓う内容です。法的な義務を細かく定めた条約というより、理念を示す宣言に近く、イギリスは署名しませんでした。
この会議によって生まれた国際協調の仕組みは、のちに「ヨーロッパ協調」と呼ばれます。大国が会議を開いて危機に対処し、全面戦争を避けようとする考え方で、1848年の諸革命までのヨーロッパ政治を形づくりました。自由主義者や民族主義者は、神聖同盟を保守的な秩序の象徴として批判しました。
よくある誤解
- 「会議で世界地図が作られた」:会議の中心は、ヨーロッパの領土と秩序でした。世界全体の仕組みを作ったわけではありません。
- 「ワーテルローの結果はウィーンで決まった」:勝敗は戦場で決まりました。ウィーンで作られた最終議定書は、戦いの9日前に署名されています。
- 「会議は何も決められなかった」:交渉は遅く、皮肉の的にもなりましたが、ドイツ連邦やネーデルラント王国の設立など、具体的な成果を残しました。
評価:成功か、限界か
ウィーン会議は、フランス革命とナポレオンの時代に対する保守の回答でした。正統主義、つまり正当な王家が戻るべきだという考えを掲げ、どこか一国が覇権を握ることを防ごうとしました。大国どうしが長く全面戦争を避けられたのは、この仕組みのおかげだと評価されることが多いです。
一方で、自由主義や民族の要求を抑えることも多く、その矛盾が1830年や1848年の革命で表面化しました。会議は政府どうしの平和を守った点で成功でしたが、自分の国の政治に参加したいと願った人々の期待には十分に応えなかったという限界もありました。
試験に出るポイント
入試では、会議の目的、勢力均衡と正統主義、そして神聖同盟やヨーロッパ協調との関係がよく問われます。「会議の目的は何か」と聞かれたら、ナポレオン後の大国の勢力均衡と、正当な王家の復活の二点を挙げると答えやすくなります。
また、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制と比べると、ウィーン会議は敗戦国を全面的に罰するよりも、大国が協調して秩序を守ることを重視した点に特徴があります。年号は、ナポレオンの帰還、最終議定書の1815年6月9日、ワーテルローの6月18日を、出来事の流れとあわせて覚えておくと整理しやすいでしょう。
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ウィーン体制と協調外交では、会議で作られた仕組みが実際にどう動いたかを追えます。戦争そのものの影響を知りたい方は、ナポレオン戦争の影響もあわせてどうぞ。会議の中心にいた人物を知るには、ナポレオン・ボナパルトとはが役立ちます。