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インド大反乱(シパーヒーの反乱)とは

10月 30, 2026
インド大反乱は、1857年にインド北部や中部で起きた、東インド会社の支配への大規模な反乱です。メーラトでの蜂起から始まり、翌年以降もラクナウやジャーンシーなどで戦闘が続きました。その結果、東インド会社の統治は終わり、イギリス政府が直接インドを治めるようになります。

シリーズ: 帝国主義とは?わかりやすく

5分要約を聞く

4:54

インド大反乱(シパーヒーの反乱)とは

基本データ

時期
1857年5月から1859年7月(大規模な戦いは1858年に終わる)
場所
メーラト、デリー、カーンプル、ラクナウ、ジャーンシー(北インドと中部インド)
担い手
東インド会社のベンガル軍のセポイに、旧王侯や住民が加わった
きっかけ
エンフィールド銃の薬包に動物の脂が塗られているという噂
主な人物
反乱側はバハードゥル・シャー2世、ナーナー・サーヒブ、ラクシュミーバーイー、ターンティヤー・トーピー。イギリス側はコリン・キャンベル、ヘンリー・ハヴロック、ヒュー・ローズ
結果
イギリス側の勝利。1858年に東インド会社の統治が終わり、インドはイギリス王室の統治下に入った

年表

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  1. 1857年初め

    薬包の噂が広まる

    イラスト パレード場で薬包を不安げに扱うセポイたちを描いたイラスト(illustration)
    Illustration · FiveMinRead

    1853年式エンフィールド銃の薬包は、兵士が装填の前に口でかみ切る必要がありました。牛や豚の脂が塗られているという噂が、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の双方の不安をあおりました。噂は直接のきっかけでしたが、唯一の原因ではありません。

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  2. 1857年3月29日

    バラックポールで発砲事件

    ベンガル軍第34連隊のマンガル・パーンデーが、カルカッタ近郊のバラックポールでイギリス人将校に発砲しました。マンガル・パーンデーは4月初めに処刑されています。この事件は、各地に広がる不満の前ぶれとされることがあります。

  3. 1857年5月10日

    メーラトで蜂起

    メーラトでの兵士の反乱を伝える当時の版画。
    The Illustrated Times, public domain, via Wikimedia Commons

    5月9日、薬包の使用を拒んだ騎兵85人が軍法会議にかけられ、禁固刑を言い渡されました。5月10日、メーラトの兵士たちは仲間を解放し、町のイギリス人にも襲いかかりました。蜂起はここから各地へ広がっていきます。

  4. 1857年5月11日

    反乱兵がデリーに入る

    メーラトからの反乱兵が、翌11日にデリーへ到着し、旧都を占領しました。反乱軍は、老いたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を指導者に担ぎ上げました。デリーはその後、約4か月にわたって反乱軍の手にありました。

  5. 1857年6月8日

    イギリス軍がデリー包囲を開始

    イギリス軍はデリーの北にある岩の丘リッジに陣を敷き、包囲を始めました。包囲は3か月以上続き、その間に援軍としてシク教徒やパンジャーブ人、グルカ兵などが到着しました。戦況が大きく動くのは、9月の総攻撃を待つことになります。

  6. 1857年6月27日

    カーンプルの船着き場で攻撃

    1874年に刊行された、カーンプルのサティーチャウラー・ガートの版画。
    Unidentified engraver, public domain, via Wikimedia Commons

    降伏したイギリス人たちが船に乗ったサティーチャウラー・ガートで攻撃を受け、男性の多くが殺害されました。およそ120人の女性と子どもが捕虜になり、7月15日に殺害されています。イギリス軍は翌16日にカーンプルを奪還しました。

  7. 1857年6月30日

    ラクナウのレジデンシー包囲が始まる

    イギリス人たちは、官舎の建物群であるレジデンシーに5月末から防備を固めていました。6月30日に包囲が始まり、7月2日にはヘンリー・ローレンスが砲弾を受けて致命傷を負いました。ローレンスは4日に亡くなり、守備隊の戦いは長期化します。

  8. 1857年9月14日〜20日ごろ

    デリー陥落、皇帝が捕らえられる

    9月14日に総攻撃が始まり、1週間ほどでデリーの市街がイギリス軍の手に落ちました。バハードゥル・シャー2世は、9月20日ごろにフマーユーン廟で捕らえられました。資料によって、1日か2日の差があります。

  9. 1857年9月25日

    ハヴロックの救援部隊がレジデンシーに到着

    ヘンリー・ハヴロックの救援部隊が、レジデンシーにたどり着きました。部隊は守備隊に加わり、さらに大きな救援を待つことになります。

  10. 1857年11月16日〜17日ごろ

    キャンベル軍がセクンドラ・バーグを突破

    ラクナウのセクンドラ・バーグ外観を撮影した、フェリーチェ・ベアトの写真。
    Felice Beato, public domain, via Wikimedia Commons

    コリン・キャンベルの本隊は、騎兵600人、歩兵3,500人、大砲42門の陣容でした。セクンドラ・バーグは壁で囲まれた庭園で、イギリス側の数えでは反乱兵2,000人近くが倒れたとされています。その後、キャンベル軍はレジデンシーに到達しました。

  11. 1857年11月19日〜27日

    レジデンシーの撤退

    11月19日に守備隊がレジデンシーから撤退を始めました。27日、キャンベルは約3,000人と大半の民間人を連れてカーンプルへ向かい、アウトラムが約4,000人とともにアーラム・バーグに残りました。

  12. 1858年3月6日〜21日

    イギリス軍がラクナウを奪還

    3月6日、キャンベルがラクナウの奪還に向けた攻撃を始めました。21日までに市内の戦闘は終わり、イギリスの支配が戻ります。

    1858年のほかの記事:1858年の記事をもっと

  13. 1858年4月3日〜5日ごろ

    ジャーンシーの陥落

    ヒュー・ローズ将軍の部隊が3日に町へ突入し、数日で城塞を制圧しました。ラクシュミーバーイーは城を脱出して、ターンティヤー・トーピーと合流しています。城の陥落は4日か5日とされ、資料によって違いがあります。

  14. 1858年6月17日・18日

    ラクシュミーバーイーの死

    ラクシュミーバーイーは、グワーリヤル近郊のコターキ・セライでの戦闘で負傷し、亡くなりました。死去の日は17日か18日とされています。イギリス軍は6月20日にグワーリヤルを奪還しました。

  15. 1858年11月1日

    ヴィクトリア女王の布告

    1858年、インド統治法によって東インド会社の統治は終わりました。11月1日、ヴィクトリア女王の布告が出され、インドの統治権はイギリス王室に移ります。布告は、殺人に関わらなかった反乱の参加者への恩赦も示しました。

地図

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  • 1912年の『ケンブリッジ近代史アトラス』に載る、1857〜59年の反乱の場所を示す北インドの地図。

    1857〜59年の反乱が起きた北インド(『ケンブリッジ近代史アトラス』、1912年)。

    Unknown author Unknown author Cambridge University Press; Stanford's Geogl. Estabt, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1857年のデリー包囲を示す当時の図面。城壁、リッジ、イギリス軍の陣地が描かれています。

    1857年のデリー包囲の図面。市街、リッジ、イギリス軍の包囲陣地を示します。

    Great Britain. War Office. Topographical Department, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1857年のラクナウで、レジデンシーを中心にしたイギリス軍の防御陣地を示す図面。

    1857年、ラクナウに立てこもったイギリス守備隊の防御陣地の図面。

    Great Britain. War Office. Topographical Department, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1857年の反乱に加わった藩王国と、イギリスを助けた藩王国を示すインドの地図。

    1857年の反乱における藩王国:反乱に加わった国と、イギリス側についた国。

    This Image was created by User:PlaneMad . If you are using the image under the creative commons share alike license please credit the photo CC-by-sa PlaneMad/Wi, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

5分でわかる

インド大反乱は、1857年にインド北部や中部で起きた、東インド会社の支配に対する大規模な反乱です。東インド会社がインドで雇っていたインド人傭兵、つまりセポイ(シパーヒー)の蜂起から始まり、やがて地元の旧王侯や住民も加わる広い反乱へと広がりました。日本の教科書では「セポイの反乱」とも呼ばれます。

反乱の舞台は、メーラト、デリー、カーンプル(カウンポール)、ラクナウ、ジャーンシーなどです。大規模な戦いは1858年に終わり、正式な終息は1859年とされています。その結果、東インド会社の統治は終わり、1858年からはイギリス政府がインドを直接統治するようになりました。

この出来事は、インドでは「最初の独立戦争」と捉えられることもあります。一方で、イギリス側の記録では「ミューティニー(兵士の反乱)」と呼ばれてきました。見方によって評価が分かれる出来事です。帝国の支配と抵抗の全体像は、帝国主義の記事でまとめています。

この反乱が今も語り継がれるのは、インドとイギリスで評価がまったく違うからです。インドでは、外国の支配に立ち上がった人々の勇気として語られることが多く、イギリスでは植民地支配を揺るがした大事件として記録されてきました。どちらか一方の見方だけでは、出来事の全体はつかめません。

原因:薬包の噂と積み重なった不満

直接のきっかけは、新しい銃の弾薬でした。1853年に採用されたエンフィールド銃は、紙製の薬包(弾薬の包み)を口でかみ切ってから装填する仕組みでした。1857年の初めには、その薬包に牛や豚の脂が塗られているという噂が兵士の間に広がります。牛は神聖とされるヒンドゥー教徒、豚は禁忌とされるイスラーム教徒にとって、どちらも宗教に反する行為と受け止められ、不安が一気に高まりました。

薬包の問題が深刻だった理由

薬包は、兵士が毎日のように扱う装備でした。そのため、噂は個人の不安にとどまらず、部隊全体の問題として受け止められました。宗教に関わる話題だったことも、噂を広めた大きな要因です。噂が事実であったかどうかについては、資料によって見方が分かれています。

ただし、薬包はあくまできっかけでした。多くの歴史家は、1850年代に積み重なった次のような不満が背景にあったと考えています。

  • 領地の併合。東インド会社は「失権の原理」(ドクトリン・オブ・ラプス)により、藩王に実子がいない場合は養子を認めず、領地を取り上げました。ジャーンシーは1853年に藩王が亡くなった後、この方法で併合されています。1856年には、アワド(オウド)も「統治が悪い」という理由で併合されました。
  • 兵士の地位と収入。セポイの多くは、アワドなど北インドの出身でした。王宮が持っていた名誉や後ろ盾が失われたことで、故郷の人々や兵士の不満が強まったとされます。
  • 宗教と慣習への不安。イギリスの政策が自分たちの宗教や生活を脅かすという不安も、広がっていました。どの程度この不安が反乱を後押ししたかは、今も議論が続いています。

これらの不満は、ばらばらに存在していたわけではありません。併合によって王宮の後ろ盾が失われると、兵士の家族や故郷の暮らしにも影響が及びます。そこに宗教に関わる噂が加わったことで、「イギリスは自分たちの暮らしを壊そうとしているのではないか」という疑いが一気に強まったと考えられています。

1857年の反乱に加わった藩王国と、イギリスを助けた藩王国を示すインドの地図。
1857年の反乱における藩王国:反乱に加わった国と、イギリス側についた国。 This Image was created by User:PlaneMad . If you are using the image under the creative commons share alike license please credit the photo CC-by-sa PlaneMad/Wi, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

この地図は、反乱の広がりが地域によって大きく違ったことを示しています。反乱に加わった藩王国と、イギリスを助けた藩王国が並存していたため、戦いの激しさや、イギリス軍が援軍を得られる場所も地域ごとに異なりました。

経過:いつ、どこで何が起きたのか

反乱は1857年3月から1858年にかけて、各地で次々に起きました。その広がり方には理由があります。ベンガル軍は北インド各地に駐屯していたため、一つの駐屯地で蜂起が起きると、ほかの駐屯地にも伝わりやすい状況でした。反乱の起きた町では、イギリスの行政が崩れ、地元の指導者が町の指揮を取るようになります。

反乱の担い手も、セポイだけではありませんでした。デリーでは皇帝の宮廷が中心となり、カーンプルでは最後のペーシュワー(宰相)の養子ナーナー・サーヒブが指導しました。ラクナウでは旧アワドの人々が加わり、ジャーンシーでは藩王の未亡人が町を守る立場に立ちます。兵士と地域の指導者が結びついたことが、反乱を広げた大きな力でした。

1912年の『ケンブリッジ近代史アトラス』に載る、1857〜59年の反乱の場所を示す北インドの地図。
1857〜59年の反乱が起きた北インド(『ケンブリッジ近代史アトラス』、1912年)。 Unknown author Unknown author Cambridge University Press; Stanford's Geogl. Estabt, public domain, via Wikimedia Commons

1857年3月〜5月:メーラトとデリー

1857年3月29日、ベンガル軍のマンガル・パーンデーが、カルカッタ近郊のバラックポールでイギリス人の将校に発砲しました。マンガル・パーンデーは捕らえられ、4月初めに処刑されています。4月下旬には、メーラトのベンガル軽騎兵第3連隊で、90人のうち85人が薬包の使用を拒みました。彼らは5月9日に軍法会議にかけられ、長期の禁固刑を言い渡されます。

5月10日、メーラトの兵士たちは投獄された仲間を解放し、町のイギリス人にも襲いかかりました。翌11日には反乱兵がデリーに到着し、かつてのムガル帝国の都を占領します。反乱兵は、老いたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を指導者として担ぎ上げました。

メーラトでの蜂起は、各地の駐屯地に同じ不満があったことを示しました。ただし、地域ごとの動きは一様ではなく、時期も規模もさまざまでした。

1857年6月〜9月:デリーの包囲と総攻撃

イギリス軍は6月8日、デリーの城壁の北にある岩の丘「リッジ」に陣を敷き、デリーの包囲を始めました。およそ3か月のあいだ、イギリス軍はリッジから城内の反乱軍をにらみ続けます。援軍として、シク教徒やパンジャーブ人、グルカ兵などの部隊が加わりました。9月14日に総攻撃が始まり、1週間ほどで市街はイギリス軍の手に落ちます。バハードゥル・シャー2世は、9月20日ごろにフマーユーン廟で捕らえられました。

デリーの陥落が重大だったのは、それが単なる一都市の出来事ではなかったからです。反乱軍は、ムガル皇帝を担ぐことで旧来の秩序を取り戻すという大義を示そうとしました。一方、イギリスにとってデリーを取り戻すことは、反乱を鎮める決定的な一歩であり、イギリスの威信を回復することにもつながりました。

1857年のデリー包囲を示す当時の図面。城壁、リッジ、イギリス軍の陣地が描かれています。
1857年のデリー包囲の図面。市街、リッジ、イギリス軍の包囲陣地を示します。 Great Britain. War Office. Topographical Department, public domain, via Wikimedia Commons

デリーの兵力は、資料によって差があります。イギリス軍は9月初めの時点で約9,000人とされ、そのうち約3,000人がヨーロッパ人部隊、残りの約6,000人がシク教徒やパンジャーブ人、グルカ兵などでした。一方、反乱軍はセポイ1万2,000人と、不正規兵約3万人と推定されています。これらは一つの資料による推計として読んでください。

1857年6月〜7月:カーンプルの包囲と船着き場の惨事

カーンプルでは、ナーナー・サーヒブが反乱軍を率いました。6月5日から、イギリス軍と民間人は防御陣地に立てこもり、包囲されます。6月25日ごろ、イギリス軍の指揮官ウィーラーは降伏しました。ナーナー・サーヒブから、船で安全にアラーハーバードへ退去させるという条件が示されたとされています。

6月27日、降伏した人々が船着き場サティーチャウラー・ガートで船に乗り込んだところを攻撃されました。男性の多くが殺害され、およそ120人の女性と子どもが捕虜になります。捕虜となった女性と子どもは、7月15日に殺害されました。翌16日、イギリス軍はカーンプルを奪還しています。ナーナー・サーヒブがどこまで関与していたかについては、歴史家の間で見方が分かれています。

カーンプルの出来事は、イギリス本国に大きな衝撃を与えました。当時の新聞はこの事件を強く報じ、反乱軍への怒りを広げたとされています。一方、反乱側に残る記録は限られており、双方の立場は大きく食い違います。どちらの記録をどう読むかは、今も研究の課題です。

1857年6月〜1858年3月:ラクナウのレジデンシー

アワドの都ラクナウでは、イギリス人たちが「レジデンシー」と呼ばれる官舎の建物群に立てこもりました。5月末から防備が固められ、6月30日に包囲が始まります。7月2日にはヘンリー・ローレンスが砲弾を受けて致命傷を負い、4日に亡くなりました。包囲の始まった時点で、戦える兵は約1,700人、民間人を含めると約3,000人だったと数えられています。

長い包囲の中で、守備隊は食料や水の確保に苦しみ、病気も広がったとされています。それでも守備隊は、救援が来るまで持ちこたえました。レジデンシーは、イギリス側にとって忍耐の象徴となり、反乱軍にとっては長期戦を強いられた場所でもありました。

9月25日、ヘンリー・ハヴロックの救援部隊がレジデンシーにたどり着きますが、守備隊に加わり、さらに大きな救援を待つことになりました。11月16日から17日ごろには、コリン・キャンベルの本隊がセクンドラ・バーグを突破し、レジデンシーに到達します。本隊は騎兵600人、歩兵3,500人、大砲42門でした。11月19日には守備隊が撤退を始め、27日にはキャンベルが約3,000人と大半の民間人を連れてカーンプルへ向かいます。残ったジェームズ・アウトラムは、約4,000人とともにアーラム・バーグに踏みとどまりました。

イギリス軍がラクナウを奪還したのは1858年3月です。3月6日に攻撃が始まり、21日までに市内の戦闘は終わりました。

1857年のラクナウで、レジデンシーを中心にしたイギリス軍の防御陣地を示す図面。
1857年、ラクナウに立てこもったイギリス守備隊の防御陣地の図面。 Great Britain. War Office. Topographical Department, public domain, via Wikimedia Commons

1858年:ジャーンシーとラクシュミーバーイー

ジャーンシーは1853年に併合された藩国です。藩王が亡くなった後、イギリスが養子の相続を認めなかったため、未亡人のラクシュミーバーイーは併合に強く反発しました。彼女は反乱の代表的な指導者の一人となり、町の防衛を指揮します。

1858年4月初め、ヒュー・ローズ将軍のイギリス軍が3日に町へ突入し、数日で城塞を制圧しました。ラクシュミーバーイーは城を脱出して、ターンティヤー・トーピーと合流します。その後、グワーリヤル近郊のコターキ・セライでの戦闘で負傷し、6月17日か18日に亡くなったとされています。城壁から馬で飛び降りたという有名な逸話は、史実かどうか疑わしいとされています。

数字と被害について

1857年の数字は資料によって大きく異なるため、以下は推定や幅のある値として読んでください。

  • 兵力:東インド会社のインド人兵は約30万人で、インド全体にいたイギリス軍は約4万から5万人とされています。
  • イギリス側の死者:民間人を含めて約6,000人という数字がよく引用されます。
  • インド側の死者:推計の幅がとても大きい分野です。飢饉や疫病による死者を含めた推計では、約80万人という数字もあります。ただし、この推計は実際より少なく見積もられている可能性があるとされています。

数字を読むときは、三つの点に注意してください。第一に、どの範囲の人数かです。イギリス軍の兵力は、インド全体か特定の都市かで大きく変わります。第二に、民間人を含むかどうかです。第三に、戦闘による死者と、飢饉や疫病による死者は分けて考える必要があります。この三つを押さえると、資料ごとの数字の違いが理解しやすくなります。

結果:東インド会社の解散とイギリス直接統治へ

1858年、イギリス議会は「インド統治法」を成立させ、東インド会社から統治の権限をイギリス王室に移しました。11月1日には、ヴィクトリア女王の布告によって、この移行が正式に示されます。布告は、殺人に関わらなかった反乱の参加者には恩赦を与えると示し、宗教や慣習を尊重する方針も打ち出しました。

バハードゥル・シャー2世は、1858年に裁判を受けたのち、ビルマのラングーン(現在のヤンゴン)に流されました。1862年、その地で亡くなっています。これにより、デリーの皇帝としての政治的な役割は事実上終わりました。

イギリスは、反乱の中心となったベンガル軍の比重を下げ、反乱の中で忠誠を保ったシク教徒やパンジャーブ人、グルカ兵などの兵士を重視するようになったと考えられています。こうした軍の再編は、その後のインド支配の仕組みに影響を与えました。

インドでは、この反乱を「最初の独立戦争」と見る歴史観が今も根強くあります。一方で、各地の反乱が必ずしも一つにまとまっていたわけではないと指摘する研究者もいます。さらに、反乱の後に行われた報復によって、イギリスへの不信感は深く残りました。

反乱が失敗した理由について、歴史家は三つの点を挙げます。反乱軍には統一された指揮系統がなかったこと、イギリス軍がシク教徒やパンジャーブ人、グルカ兵といった味方を確保したこと、そして反乱軍が大都市を長く守り切れなかったことです。

試験に出るポイント

大学入試や定期テストでは、「原因」「経過」「結果」の三つがよく問われます。原因は薬包の噂に加えて、併合政策や兵士の地位の低下が挙げられます。結果は東インド会社の解散と、1858年からのイギリス直接統治です。

年代を覚えるときは、次の流れで整理すると分かりやすくなります。1857年3月にバラックポール、5月10日にメーラト、5月にデリー、6月にカーンプルとラクナウ、そして1858年にジャーンシーの陥落と、同年11月1日の布告です。反乱が始まったのはメーラトで、デリーは皇帝が担がれた都市だと区別して覚えると混乱しにくくなります。

よくある誤解

一つ目は、「反乱はデリーから始まった」という誤解です。実際の出発点は、1857年5月10日のメーラトでした。二つ目は、「全インドが一つにまとまって戦った独立運動だった」という見方です。反乱は地域ごとに動きが違い、目的もさまざまでした。三つ目は、「反乱の結果、インドは完全に服従した」という単純化です。実際には、統治の仕組みが大きく変わり、その後のインドの政治運動にもつながる流れが生まれました。

論述問題では、反乱が北インドの広い地域に広がった理由と、その結果イギリスの統治方式がどう変わったかを説明できると強い答案になります。その際、反乱軍の要求と、イギリス側の報復の両方に触れると、より公平な説明になります。

あわせて読みたい

反乱の旗印となったムガル帝国が、どのように衰えていったかについては、ムガル帝国の衰退の記事で追っています。

1858年以降のイギリスによるインド統治の仕組みは、イギリス領インド(英領インド)の記事で詳しく整理しています。

イギリスの帝国と改革がどう結びついたかを別の角度から見るには、奴隷貿易と奴隷制の廃止の記事が役立ちます。

軍と部隊

  • 会社の軍服を着たインド人兵が射撃場でライフルを撃つ、1859年の彩色図版(illustration) 歩兵 イラスト

    反乱側(ベンガル軍)/東インド会社

    ベンガル原住民歩兵のセポイ(射撃練習)

    東インド会社のベンガル軍の歩兵が、射撃場でライフルの訓練をする様子を描いた、1859年付けの図版です。この部隊と新しいエンフィールド銃が、反乱のきっかけとなった薬包の問題と結びついています。

    Illustration after Edmund Walker / After George Francklin Atkinson, public domain · 元の画像

  • 赤い上着と会社の制服を着たセポイの一団を描いた図版(illustration) 歩兵 イラスト

    ベンガル軍

    セポイの一団

    東インド会社のベンガル軍の歩兵の制服を着たセポイを描いた、1859年の図版です。反乱を起こした兵士たちの姿を知る手がかりになります。

    Illustration after Edmund Walker / After George Francklin Atkinson, public domain · 元の画像

  • エンフィールド銃の薬包を示す技術図(illustration) 兵器 イラスト

    東インド会社

    エンフィールド銃の薬包

    1853年式エンフィールド銃の紙製の薬包です。装填の前に口でかみ切る必要があり、そこに脂が塗られているという噂が1857年の反乱のきっかけになりました。

    Illustration after Original: User:Fluzwup Derivative: Zerodamage ( talk ) 12:41, 5 August 2012 (UTC), CC0 · 元の画像

  • 20世紀初めに描かれた、ジャーンシーのラクシュミーバーイーのイラスト(illustration) 指揮官 イラスト

    反乱側

    ラクシュミーバーイー(ジャーンシーの王妃)

    ジャーンシーの王妃で、反乱の代表的な指導者の一人です。1858年6月、グワーリヤル近郊の戦闘で亡くなりました。当時の肖像ではなく、20世紀初めに描かれた想像図です。

    Illustration after Anonymous Unknown author, public domain · 元の画像

  • 高齢のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世の当時の肖像(illustration) 指揮官 イラスト

    反乱側(デリー)

    バハードゥル・シャー2世(ザファル)

    最後のムガル皇帝です。1857年5月、デリーの反乱軍に名目上の指導者として担がれました。デリーが陥落した後に捕らえられ、戦後はビルマに流されました。

    Illustration after Unknown author, public domain · 元の画像

  • 1857年9月26日の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に載ったナーナー・サーヒブの版画(illustration) 指揮官 イラスト

    反乱側(カーンプル)

    ナーナー・サーヒブ

    最後のペーシュワー(宰相)の養子で、カーンプルの反乱を率いました。この図版は、1857年9月に『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されたものです。

    Illustration after Unknown author, public domain · 元の画像

  • ロンドンにあるキャンベル(クライド卿)の銅像(illustration) 指揮官 イラスト

    東インド会社/イギリス王室

    コリン・キャンベル(クライド卿)

    1857年11月にラクナウを救援し、1858年3月にラクナウを奪還したイギリス軍の司令官です。

    Illustration after Jonathan Cardy, CC BY-SA 3.0; this illustration CC BY-SA 3.0 · 元の画像

よくある質問

インド大反乱はいつ始まったのですか?

1857年5月10日、メーラトでベンガル軍の兵士が蜂起したことから始まったとされています。その前ぶれとして、1857年の初めに薬包の噂が広まり、3月にはバラックポールで発砲事件が起きていました。反乱は翌11日にデリーへ広がり、大きな戦いは1858年まで続きました。

反乱の原因は何ですか?

直接のきっかけは、エンフィールド銃の薬包に牛や豚の脂が塗られているという噂です。その背景には、藩王国の併合、兵士の地位や収入の低下、宗教や慣習への不安などが重なっていたと考えられています。どの原因をどこまで重視するかは、歴史家によって見方が分かれます。

バハードゥル・シャー2世とは誰ですか?

最後のムガル皇帝で、デリーを拠点としていました。1857年5月、反乱軍に指導者として担がれます。デリーがイギリス軍の手に落ちた後、フマーユーン廟で捕らえられ、1858年に裁判を受けたのち、ビルマのラングーンに流されました。1862年、その地で亡くなっています。

反乱の後、東インド会社はどうなりましたか?

1858年のインド統治法により、東インド会社から統治の権限がイギリス王室に移されました。同年11月1日、ヴィクトリア女王の布告で、この移行が正式に示されます。これ以後、イギリスがインドを直接統治する体制になりました。

ラクシュミーバーイーとは誰ですか?

ジャーンシーの王妃で、反乱の代表的な指導者の一人です。ジャーンシーが1853年に併合されたことに反発し、イギリス軍と戦いました。1858年に町を脱出した後、グワーリヤル近郊での戦闘で負傷し、6月17日か18日に亡くなったとされています。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. 1857年5月10日に反乱が始まったとされる都市はどこですか?

  2. 反乱の直接のきっかけは何ですか?

  3. 1858年に東インド会社から統治権をイギリス王室に移した法律は何ですか?

  4. ラクシュミーバーイーが1858年6月に亡くなったのは、どの都市の近くですか?

  5. デリー陥落後に捕らえられた皇帝は誰ですか?

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Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

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