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軍国主義とは、国が軍隊や海軍を何より優先し、軍人の価値観が政治、予算、そして社会の空気にまで広がっていく考え方や状態のことです。第1次世界大戦(第一次世界大戦とも書かれます)の原因を学ぶと、同盟、帝国主義、ナショナリズムと並んで必ず出てくる言葉です。軍国主義はどのようにして第1次世界大戦につながったのでしょうか。
答えを先に言うと、軍国主義は戦争を「政策の普通の道具」に見せてしまいました。どの国も大きな海軍や陸軍を作っていると、外交上の小さな対立が武力衝突へ進みやすくなります。そして、いったん動員が始まると、それを止めることは非常に難しくなりました。その流れを、順を追って確認します。
軍国主義とは何か
軍国主義は、次の三つが重なった状態として考えると理解しやすくなります。
- 平時にも大きな陸軍と海軍を常に維持していること。
- 軍人が予算、外交、国内の政策に強い発言力を持つこと。
- 軍服や軍事パレードをたたえ、国のために兵役に就くことを名誉とする社会の空気。
どの国も程度の差こそあれ、この三つを抱えていました。とくに強い例がドイツ帝国です。1871年、普仏戦争に勝利したプロイセンを中心に、ドイツ帝国が成立しました。軍はプロイセン出身の将校が中心となって動き、その指揮系統は議会ではなく皇帝に直接つながっていました。1888年に即位したヴィルヘルム2世は、陸海軍の最高司令官として大きな権限を握ります。
オーストリア=ハンガリー帝国やロシア帝国でも、陸軍の指導者が軍備の拡大を強く求めていました。フランスは、ドイツとの国境に対する不安から兵力を増やす方向へ進みました。イギリスは大陸の陸軍よりも海軍を安全保障の中心に置きました。軍国主義はドイツだけの問題ではなく、ヨーロッパ全体に見られた傾向だったのです。
背景には、いくつかの事情が重なっていました。第一に、ドイツでは統一後の国民をまとめる手段として、軍が国家の象徴のように扱われました。統一戦争で勝利したという記憶は、軍への誇りとして受け継がれていきます。
第二に、包囲されることへの不安です。ドイツの側から見ると、西にフランス、東にロシアがあり、両国が手を結ぶ可能性が大きな脅威に感じられました。そのため、軍備を増やすことが安全を保つ最も確かな手段だと考えられたのです。
第三に、産業の発展と植民地をめぐる競争です。鉄鋼や造船の力が伸びると、その力を軍事力に結びつけようとする動きが強まりました。大国であり続けるには海軍が必要だと考える人が増え、政治家や軍人、経済界の関心も重なっていきます。
軍国主義は、国の政策だけでなく人々の日常にも入り込みました。各地には退役軍人の団体が生まれ、記念日や式典では軍のパレードが行われます。兵役を国民の務めとして語る言葉が、政治の場や社会で広く使われていました。こうした空気の中では、軍備を増やす政策も「当然の準備」のように受け止められやすかったのです。
軍拡競争と国内の緊張
軍国主義が緊張を高めた最も分かりやすい例が、ドイツとイギリスの海軍競争です。1898年、ドイツ帝国議会は第1次海軍法を可決しました。海軍省の責任者だったアルフレート・フォン・ティルピッツが進めた計画で、強力な艦隊を持つことによって、イギリスに無視できない存在だと思わせ、外交上の譲歩を引き出そうとしたものです。その後も海軍法は改正され、艦隊の規模は拡大されていきました。
1906年、イギリスは新型戦艦ドレッドノートを進水させました。主砲をすべて大口径にそろえた大型戦艦で、従来の戦艦を一気に時代遅れにする性能を持っていました。両国は競い合うように新しい軍艦を造り、相手の増強を自国への脅威と受け取るようになります。一つの建造競争が、次の建造競争を生む形になったのです。
陸軍でも同じ流れが起きました。1913年、ドイツは陸軍法を成立させ、一般兵だけでおよそ11万7千人を増やしました。平時の兵力は全体でおよそ87万人規模になったとされています。同じ年、フランスは兵役を2年から3年へ延ばす「3年兵役法」を定めました。ドイツの増強に対抗する意味合いがあったとされます。ロシアも大規模な軍備計画を進め、皇帝が最終案を承認したのは1913年の末でした。
ここで注目したいのは、どの国も軍備を防衛のためだと説明していたことです。しかし、相手国から見れば、それは攻撃の準備にも見えました。軍人の中には、今のうちに戦えば有利だと考える人も現れ、外交よりも軍事的な解決を求める声が強まっていきます。
1912年から1913年にかけてのバルカン戦争は、この緊張にさらに火をつけました。バルカン半島の勢力図が大きく変わったことで、オーストリア=ハンガリー帝国は、セルビアの勢力拡大を強く警戒するようになります。同国の参謀総長コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、セルビアへの予防戦争を繰り返し主張していました。軍の指導者が、外交の代わりに戦争を解決の手段として見ていたことが分かります。
軍国主義は、外国との関係だけでなく、国内の政治にも影響しました。1913年末、アルザス地方のツァーベルン(現在のフランス領サヴェルヌ)で起きた事件が典型的です。プロイセン出身の若い少尉が、地元の人々を侮辱するような発言をし、部下に市民への乱暴をそそのかしたとされました。軍はその後、多くの市民を拘束するなど強硬な対応を取り、住民の怒りは大きくなります。同年12月、帝国議会は「政府の対応は議会の見解ではない」とする決議を293票対54票で可決しました。首相は軍を擁護し、文民の政府が軍を統制する姿勢を示せなかったと批判されました。
この事件は、軍が法の上にあるかのように振る舞っているという不信感を広げました。「ツァーベルン主義」という言葉まで生まれ、軍の横暴を象徴する言い方として使われるようになりました。軍と市民の間の溝が、表に出た出来事だったといえます。
1914年7月の危機:軍国主義から第1次世界大戦へ
戦争の直接のきっかけは、1914年6月28日にサラエボでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されたことです。しかし、その後の各国の対応には、軍国主義的な発想が強く表れました。7月23日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに厳しい最後通牒を突きつけ、回答期限を2日間に区切りました。セルビアは要求の多くを受け入れましたが、すべてではありませんでした。7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告します。
ドイツは同盟国を支持し、8月1日にロシアへ、8月3日にフランスへ宣戦布告しました。ドイツの作戦計画は、ベルギーを通ってフランスへ素早く攻め込むことを前提にしていたため、いったん動員が始まると止めることが難しくなっていました。8月4日、ドイツ軍がベルギーに侵攻したことを受けて、イギリスもドイツに宣戦布告しました。
軍国主義は、こうした一つひとつの判断を後押ししました。何年も大戦に備えてきた軍人にとって、外交に時間をかけることは、自国の不利に見えやすかったのです。軍国主義が単独で戦争を起こしたわけではありません。それでも、局地的な紛争を大戦争へ広げやすくした点で、きわめて重要な要素でした。
もう一つの問題は、戦争を短く終わらせられるという期待でした。大規模な軍を持つ国は、すばやく勝利できると考えがちです。当時は、クリスマスまでに戦争は終わるという見方も少なくなかったと伝えられています。しかし実際には、塹壕での長い消耗戦が続き、戦争は4年以上に及びました。
短期決戦への期待は、軍事計画だけでなく政治家の判断にも影響しました。戦争を避けるための外交の時間は、「早く動かなければ不利になる」という焦りの中で削られていきます。軍国主義は、軍の強さを誇る気持ちと、速さを求める焦りを同時に生み出していたのです。
戦後に残った問題
1918年11月に休戦が成立し、戦争は終わりました。1919年のヴェルサイユ条約は、ドイツ軍を10万人以内に制限し、徴兵制を廃止しました。参謀本部の解散も定められています。軍国主義を政治から遠ざけようとした取り決めでした。
しかし、ドイツの多くの人々は、この条件を屈辱的だと感じました。その不満は、1920年代から1930年代にかけての政治の不安定さとも結びつけて語られています。戦後の取り決めが軍の問題をどこまで解決したのかという問いは、その後の歴史を考えるうえで欠かせません。
試験に出るポイントと、よくある誤解
第1次世界大戦の原因を問う問題では、複数の原因を関連づけて説明する力が求められやすいです。軍国主義について答えるときは、次の型で書くと筋道が通ります。
- 軍国主義を一文で定義する。
- 具体例を一つか二つ挙げる(1898年の第1次海軍法、ドレッドノート、1913年の陸軍法、3年兵役法)。
- それが緊張や軍拡競争をどう強めたかを説明する。
- 7月危機で、緊張が戦争へ変わった流れにつなげる。
次の三つの誤解にも注意してください。
- 軍国主義が第1次世界大戦の唯一の原因だったわけではありません。同盟の網の目、帝国主義の対立、ナショナリズムも重なっていました。
- 日本の1930年代から1945年までの軍国主義と、ヨーロッパの1914年以前の軍国主義は、同じ言葉でも時代と背景が違います。
- 多くの指導者が全面戦争を望んでいたとは限りません。短期間で勝てるという読みが外れ、長い戦争になった点が重要だと指摘されています。
次に読むと役立つ記事
まずは第1次世界大戦(1914〜1918年):原因・経過・結末で全体の流れをつかむと、この記事の位置づけがわかります。続けて第1次世界大戦の主な原因(軍国主義・同盟・帝国主義・ナショナリズム)を読むと、軍国主義が他の原因とどう並ぶのかが見えてきます。同盟がどのように第1次世界大戦を招いたかでは、条約が局地的な争いを大陸全体の戦争に変えた仕組みを説明しています。最後に三国同盟と三国協商の比較を読むと、対立する二つの陣営の姿がつかめます。