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マリアテレジアは、1717年にウィーンで生まれ、1740年に父カール6世が亡くなったあと、23歳でハプスブルク家の領地を受け継いだ女性君主です。当時の社会で女性が国を治めることは珍しく、即位直後から戦争と領地の喪失に向き合うことになりました。それでも1780年に亡くなるまで国の中心に立ち続け、行政、軍、学校の改革を進めました。マリーアントワネットの母としても知られています。
この記事は、啓蒙主義の解説の関連ページです。当時の君主たちが国の仕組みをどう作り直そうとしたのかを、マリアテレジアの例からたどります。失った領地は取り戻せませんでしたが、彼女が整えた行政、軍、学校の仕組みは、その後の国の土台になりました。
マリアテレジアが受け継いだ国
カール6世には、成長した男子の跡継ぎがいませんでした。そこで1713年に「国事詔書」と呼ばれる取り決めを定め、ハプスブルク家の領地を分けずに、娘にも相続を認めるようにしました。カール6世は、ほかのヨーロッパの国々にもこの取り決めを認めてもらうため、長い年月をかけて外交を続けました。
マリアテレジアは1736年に、ロレーヌ公フランツ・シュテファンと結婚します。夫はのちに神聖ローマ皇帝フランツ1世となりますが、領地の政治は主にマリアテレジア自身が担いました。女性が君主になることが当たり前ではなかった時代に、彼女は現実を受け止めながら、国の立て直しへと進んでいきます。
戦争とシュレジエンの喪失
約束は、父の死とともに試されました。1740年12月、プロイセンのフリードリヒ大王がシュレジエンへ軍を進めます。バイエルンやフランスも、マリアテレジアの相続に異議を唱えました。周囲の国々が次々と相続に反対する中で、彼女は戦うことになったのです。
1741年6月、マリアテレジアはプレスブルク(現在のブラチスラヴァ)でハンガリー女王として戴冠しました。ハンガリーの称号は、ラテン語で男性形の「王(rex)」でした。日本語では一般に女王と呼ばれます。
1741年9月、マリアテレジアはプレスブルクでハンガリー議会に自ら出席し、プロイセンとの戦いに兵と資金を求めました。この呼びかけにハンガリーの貴族たちが応え、ハンガリーの連隊は彼女の軍の大切な一部になりました。このとき彼女は24歳でした。
1742年には、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが神聖ローマ皇帝カール7世に選ばれ、ハプスブルク家は一時的に帝位を失いました。1743年には、プラハでボヘミア女王としても戴冠しました。戦いは長引きましたが、シュレジエンの結末は大きく変わりませんでした。1742年のブレスラウ条約で、プロイセンはシュレジエンの大部分を手に入れ、1745年のドレスデン条約で、その状態が確認されます。同じ1745年には夫が皇帝に選ばれ、マリアテレジアは皇妃として宮廷の中心に立ちました。1748年のアーヘン条約で戦争は終わりましたが、プロイセンのシュレジエン支配は変わりませんでした。
なぜシュレジエンはそれほど大切だったのでしょうか。この地方は人口が多く、織物などの産業が盛んで、税収も見込める豊かな土地でした。その喪失は、オーストリアの力を弱めるものでした。そして、大国プロイセンとの競争を、オーストリアが強く意識するきっかけにもなりました。
1756年、宰相カウニッツが進めた方針転換によって、オーストリアは長く対立してきたフランスと同盟を結びました。歴史家はこの大きな方針転換を「外交革命」と呼びます。同じ年、プロイセンがザクセンに攻め込み、七年戦争が始まりました。マリアテレジアは、シュレジエンを取り戻すために戦い続けましたが、目的は果たせませんでした。戦争は1763年のフベルトゥスブルク条約で終わり、プロイセンのシュレジエン支配が確定します。
国の立て直し:行政・軍・学校の改革
戦争で国の弱点がはっきりすると、マリアテレジアは仕組みを作り直すことに力を注ぎました。1749年には、ウィーンに内政と財政を扱う中央機関「ディレクトリウム」が設けられ、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ハウグヴィッツが初期の改革を主導しました。1760年代初めには、カウニッツのもとで最高の諮問機関「国家評議会(シュターツラート)」も生まれます。特に知られているのは、次の三つです。
- 行政:ウィーンに中央の役所を置き、税金や政策を領地全体で管理しようとしました。地方ごとに異なっていた仕組みを、少しずつ一つにまとめる試みです。
- 軍:1751年、ウィーナー・ノイシュタットに陸軍士官学校を開き、将校を専門的に育てる体制を整えました。
- 学校:1774年、ドイツ語圏の領地で、6歳から12歳の子どもに初等教育を受けさせることを義務づける学校規則が定められました。作成には、シュレジエンの修道院長ヨハン・イグナーツ・フェルビガーが大きく関わりました。
学校制度は、マリアテレジアの生前には十分に広がったとはいえません。それでも、国が教育に責任を持つという考え方を形にした一歩でした。
裁判での拷問も、この時代に見直されました。1776年、マリアテレジアはハプスブルク家の領地で拷問の廃止を命じます。その決定は、ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスのような改革派の助言によるものでした。
税制の改革は、さらに難しいものでした。特権や地方ごとの免除は根強く、財産や収入を公平に測ろうとする役人たちの取り組みは、ゆっくりとしか進みませんでした。古い仕組みの多くは、彼女の治世を通じて残りました。
家族と16人の子どもたち
マリアテレジアは、16人の子どもを産みました。息子のうち二人は皇帝となり、娘たちはフランスやナポリ王国など、ヨーロッパの王家に嫁ぎました。結婚は外交の大切な手段で、家族もまた政治の道具だったのです。
夫フランツ・シュテファンとの結婚は、親密なパートナーシップでした。夫は家の私財や事業を取り仕切り、マリアテレジアは政府を率いました。ウィーンの宮廷は大きく格式高いもので、彼女は肖像画や公の儀式を通じて、よき母であり、民を大切にする君主としての姿を示しました。
末娘のマリーアントワネットは、1770年にフランスの王太子へ嫁ぎます。王太子は、のちにルイ16世として即位しました。マリアテレジアは娘にたびたび手紙を送り、宮廷での振る舞いや、子どもを持つことについて助言しました。その手紙は今も残っており、遠く離れた娘を気にかけた母の姿を伝えています。
息子ヨーゼフ2世との共同統治
1765年に夫フランツ1世が亡くなると、息子のヨーゼフ2世が皇帝となり、母と共に領地を治めることになりました。ヨーゼフは改革を急ぎたいと考え、マリアテレジアは慎重に進めたいと考えることが多く、二人の意見はしばしば食い違いました。それでも、マリアテレジアは死ぬまで政策の主導権を握り続けました。
外交の面では、1772年のポーランド分割で、オーストリアがガリツィアを得ました。領土の拡大と外交のかけ引きが、この時代の大きな特徴でした。
マリアテレジアの人物像
マリアテレジアは熱心なカトリック信者で、家族と信仰を大切にした人物でした。一方で、政治の場では意志の強さが目立ちます。顧問や大臣と意見を交わしながらも、重要な判断は自分で下そうとしました。
女性が国を率いることに、周囲の偏見がなかったわけではありません。彼女は、男性の顧問たちに囲まれる中で、自分の立場を守りながら仕事を進めました。
マリアテレジアの死とその後
マリアテレジアは1780年11月29日にウィーンで亡くなり、その後はヨーゼフ2世が単独でハプスブルク家の領地を治めます。シュレジエンは取り戻せませんでしたが、行政、軍、教育の仕組みを整えたことは、その後の国の土台になりました。
彼女は夫とともに、ウィーンのカプツィーナー納骨堂に葬られました。ウィーン南西部のシェーンブルン宮殿は、彼女の時代に改築・拡張され、その建築の跡が今も残っています。
歴史家の評価は分かれています。近代国家へ向けた準備を進めた君主と見る人もいれば、改革が中央の支配を強めたと見る人もいます。
試験に出るポイント
大学入学共通テストの世界史では、出来事の原因と結果を結びつけて説明させる問いが出やすい傾向があります。マリアテレジアの場合は、次の流れを説明できると答えやすくなります。
- 国事詔書が、なぜ相続争いの火種になったのか
- シュレジエンの喪失が、その後のオーストリアとプロイセンの対立をどう強めたのか
- 外交革命によって、どの国と組むかという前提がどう変わったのか
- 「啓蒙専制君主」という言葉が、マリアテレジアに当てはまるかどうか
最後の論点は、評価が分かれる部分です。改革の内容と、君主としての権力の使い方を分けて考えると、論述がぶれにくくなります。
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