5分でわかる
1288年4月9日、ベトナム北部の白藤江(はくとうこう)で、陳朝の陳興道(ちんこうどう)が率いる大越国(だいえつこく)の軍は、元の海軍の大艦隊をほぼ壊滅させました。元は、モンゴル系のクビライ・カーンが中国に築いた王朝です。この戦いは、元が三度目に大越国を攻めた遠征を終わらせました。白藤江の戦いは、ベトナムの歴史でもっとも知られた勝利のひとつです。
戦いそのものは日の出から日没まで続きましたが、準備は3月から進められていました。この戦いを理解するには、三つの流れを押さえる必要があります。陳朝の成り立ち、1258年から1288年にかけての元の三度の遠征、そして白藤江の川底に打ち込まれた杭です。杭こそが、この勝利の中心にある仕掛けです。
背景:李朝から陳朝へ
大越国は、紅河(こうが)デルタを中心に栄えた独立国家で、現在のベトナム北部にあたります。北の中国の王朝と長く向き合い、海岸や川の道を守ってきました。白藤江では938年に、呉権(ごけん)が川に杭を並べて南漢の艦隊を退けたことがよく知られています。のちの戦いを語るとき、この先例がしばしば比べられます。
李朝(りちょう)は1009年に李公蘊(りこううん)が興した王朝です。李公蘊は1010年に都を昇竜(しょうりゅう)、現在のハノイへ移しました。李朝は1220年代に力を失い、1225年ごろに陳朝が始まります。即位したのは、のちに太宗と呼ばれる陳煚(ちんけい)です。有力な官僚の陳守度(ちんしゅど)が、この権力の移行を取り仕切ったとされています。
陳朝は1400年まで続きました。この年、外祖父にあたる胡季犛(こきり)が幼い皇帝を退け、胡朝(こちょう)を立てています。陳朝のおよそ175年の歴史は、元との戦いで大きく揺れることになります。ベトナムの王朝全体の流れをつかみたい方は、ベトナムの王朝とフランス統治(1428〜1945年)の解説もご覧ください。
元の遠征と日本とのつながり
元は、モンゴル系のクビライ・カーンが中国に築いた王朝です。1271年に国号を大元と改め、周辺へ大軍を送り出しました。ベトナムへの遠征も、この拡大の一部でした。同じ宮廷は、ベトナムと同じ時期に日本へも二度、軍を送っています。1274年11月と1281年6月から8月にかけての遠征です。日本ではこの二度の遠征を元寇と呼びます。
つまり、大越国と日本は、同じ帝国の拡大に直面していたのです。どちらも元の支配下には入らず、自分たちの力で独立を守りました。二つの戦いを並べて学ぶと、元という国がどのように勢力を広げようとしたのかが見えてきます。
元の宮廷は、ベトナムの統治者が元の権威を認め、朝貢することを求めました。陳朝は完全には服さず、元は軍を送りました。大軍を遠くまで動かすには、食料、馬、船が欠かせません。戦争の勝敗は、戦場だけでなく補給の行方によっても左右されたのです。
三度の遠征
最初の遠征は1258年です。雲南から進んできた軍が、スブタイの息子とされるウリヤンカダイの指揮で大越国に侵入しました。元軍は都の昇竜を占領し、陳朝の宮廷は大きな危機に直面しました。
二度目の遠征は1285年です。クビライの息子トガンが陸の軍を率い、ナムクアン峠を越えて進みました。元軍は1285年初めに昇竜を再び占領します。陳興道は大越国の軍を指揮し、同年6月、元軍は昇竜を離れて退きました。
三度目の遠征は、1287年の秋から冬にかけて始まりました。元の艦隊は1287年12月に中国南部の欽州から出航し、トガンが陸の軍を率い、オマルが海軍の遠征隊を指揮しました。下の地図には、ベトナムへの遠征を含む元の遠征の広がりが示されています。

元軍は、補給を川と細い陸路で運んでいました。そのため、補給線は攻撃を受けやすい弱点でした。1288年1月末、陳興道らが約30隻の軍船を率いて、ヴァンドン島(雲屯島)の近くで元の補給船団を攻撃し、海南島の方向へ押し戻しました。
食料の不足が深刻になった元軍は、3月5日に昇竜を離れ、万劫(ヴァンキエップ)の拠点へ移りました。3月末には、トガンが中国への撤退を命じています。戦いの舞台は、ここで白藤江へ移ります。
戦いまでの流れを整理する
- 1288年1月末:ヴァンドン島の近くで、ベトナムの船団が元の補給船団を破る。
- 1288年3月:陳興道が川の準備を本格化させる。
- 3月5日:元軍が食料の不足を理由に昇竜を離れ、万劫へ移る。
- 3月末:トガンが中国への撤退を命じる。
- 4月9日:元の艦隊が白藤江に入り、潮が引いて罠が閉じる。
杭が仕掛けられた白藤江
白藤江は潮の影響を強く受ける川で、この戦いの鍵は潮にありました。潮は一日に二度、満ちては引きます。満潮の川は大きな船が進める深さをもちますが、潮が引くと浅い泥の流れとなり、船は身動きがとれなくなります。
陳興道は、戦いの前から潮の満ち引きと川筋を詳しく調べていたとされています。そのうえで、鉄の穂先をつけた木の杭を、Chanh、Kênh、Rútと呼ばれる水路の川底に打ち込ませました。満潮のときには杭は水に隠れ、干潮になると姿を現します。
仕掛けは、時間の読みに支えられていました。ゲン・コック(Ghềnh Cốc)と呼ばれる岩礁の陰には、ベトナムの船団が隠れて待ちました。元の艦隊が満潮に乗って川へ入り、潮が引き始めると、船は杭の上で動けなくなります。戦いは、日の出から日没まで続いたとされています。
杭を打ち込む作業は、川の深さと潮の時刻を見計らって進められたと考えられます。杭は水面下に隠れる高さで据えられ、元の船からは見えないように配置されていました。
歴史家のレ・ヴァン・ランは、杭が夜のうちに満潮の時刻に据えられ、早朝の攻撃に備えていたと見ています。早朝は干潮の時間にあたり、元の船は外海へ逃げる道を失いました。元の船は、この川の潮の動きに逆らえなかったのです。
この杭は、伝説だけの話ではありません。2019年11月、ハイフォン市のトゥイグエン区にあるリエンケー・コミューンで、ダバク川の堤防近くの発掘から木の杭が見つかりました。杭は高さ3〜4メートル、直径は約30センチメートルです。11月下旬までに発掘面積は950平方メートルとなり、27本の杭が出土しました。
杭の放射性炭素年代測定では、1270年から1430年の範囲が示されました。この範囲には1288年も含まれます。レ・ヴァン・ランは、こうした発見から、白藤江の戦いが一度きりの交戦ではなく、川に沿って計画された罠の一部だった可能性を指摘しています。

なぜ白藤江が撤退路になったのか
撤退を命じられた元軍は、陸と海の両方から中国へ戻る道を探す必要がありました。ある記録では、トガンが補給を失ったため、白藤江を通って撤退しようとしたとされています。その川の入り口で、陳興道は準備を整えて待っていました。撤退の道そのものが、罠の舞台になったのです。
1288年4月9日の戦い
1288年3月、陳興道は川の準備を本格的に進めました。杭が据えられ、岸辺の入り江や岩礁の陰には、小型の船が隠されました。撤退を命じられた元軍は、白藤江へと進んでいきます。
4月9日の早朝、オマルの指揮する元の艦隊が白藤江に入りました。艦隊は満潮の時刻に罠の中へ進み、潮が引くにつれて、杭に阻まれて身動きがとれなくなります。ベトナム側の船が退路を断ち、戦いは日没まで続きました。オマルは捕らえられ、別の提督も川を逃れようとして命を落としたと伝えられています。
この戦いで重要なのは、勝敗が力の差だけで決まらなかったことです。潮の時刻を読み、川底に杭を据え、退路を断つという一連の計画がかみ合いました。大きな艦隊も、川の条件に合わせて動かされれば、身動きがとれなくなるのです。
陳興道という人物
陳興道は、陳朝の王族で、本名は陳国峻(ちんこくしゅん)です。1285年と1288年の遠征で大越国の軍を指揮し、白藤江の罠を考案したとされています。ベトナムでは、今も国の英雄として語られる人物です。
陳興道の戦いぶりは、力で押すだけの指揮官とは違っていました。潮と地形を使い、敵が最も不利な時刻に決戦を選んだ点が特徴です。戦術の面から見ると、数で勝る相手にどう向き合うかを示す好例といえます。
兵力と損害
戦いの兵力には、確かな記録がそろっていません。ここでは、いくつかの研究や記録で示されている数字を範囲で紹介します。元の海軍は約500隻の軍船と約70隻の輸送船から成り、兵士は約18,000人とされています。元軍全体の兵力は、資料によって約94,000人から約170,000人とされ、後者は1287年から1288年の遠征全体を含む数字です。大越国の兵力は約50,000人とされています。
損害にも幅があります。ある記録では、白藤江の戦いで元軍の約80,000人が戦死または捕虜になったとされています。別の研究では、1287年から1288年の遠征全体で、元軍の約90,000人が戦死または溺死したと見積もられています。大越国側の戦死者は、この戦いで約4,000〜4,500人とされています。いずれの数字をとっても、元の艦隊の大部分が失われ、陸の軍も撤退しました。
戦いのその後
捕らえられたオマルは、1289年に乗せられた船を意図的に沈められ、命を落としたとされています。トガンは、クビライによって揚州へ追いやられたとする記録もあります。
1294年にクビライが亡くなると、後を継いだテムル・カアンが即位しました。その後、元がベトナムへ再び大軍を送ることはありませんでした。陳朝は、この勝利によって北からの大きな侵攻を退け、その後も一世紀あまり国の独立を保ちました。
陳朝の最後は1400年です。胡季犛が幼い皇帝を退け、胡朝を立てました。白藤江の勝利からおよそ110年後のことでした。
なぜ重要なのか
白藤江の勝利によって、元軍のベトナム遠征は終わりを迎えました。大越国は独立を守り、陳朝はその後も一世紀あまり続きました。陳興道は、この戦いを通じてベトナムの歴史上もっとも名高い将軍のひとりとなりました。
この戦いが特徴的なのは、数で劣る側が川の地形と潮を武器にしたことです。大きな海軍を自分たちの条件で戦わせたという点で、戦略を考えるうえで取り上げられることの多い例です。938年に呉権が同じ川で勝利したことを思い出すと、ベトナム側が川の戦いを得意としていたことも見えてきます。
試験に出るポイント
試験では、少ない兵力で大軍を破れた理由を問われることがあります。解答では、杭、潮の満ち引き、川の地形の三つを挙げ、元軍の補給の問題と結びつけると説明しやすくなります。比較問題では、938年の白藤江の戦いとの共通点を答えられるように準備しておくと役立ちます。
また、元が日本にも遠征した点を押さえてください。1274年11月と1281年の遠征が元寇です。ベトナムへの遠征も、日本の元寇と同じ元の帝国による拡大の一部でした。この二つをつなげて説明できると、答案に厚みが出ます。
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