0% • 残り10分

陳朝と元寇:白藤江の戦いでモンゴルを破ったベトナム

10月 30, 2026
1288年4月、陳朝の陳興道(陳国峻)は白藤江に杭を仕掛け、潮の満ち引きを利用して元の艦隊を壊滅させました。元は1258年から三度にわたりベトナムに攻め込みましたが、この戦いで三度目の遠征が終わりました。同じ元が日本に攻めた元寇とつながる出来事です。

シリーズ: ベトナムの王朝とフランス支配:黎朝から1945年まで

5分要約を聞く

4:17

陳朝と元寇:白藤江の戦いでモンゴルを破ったベトナム

基本データ

いつ
1288年4月9日
どこで
白藤江(ベトナム北部、現在のクアンニン省の一帯)
だれが
陳興道(大越国)対 オマル率いる元の艦隊
仕掛け
鉄の穂先をつけた杭を、満潮時に隠し、干潮で露出させる
結果
元の艦隊は壊滅、オマルは捕らえられ、三度目の遠征が終わる
背景
1287年から1288年の、元による三度目のベトナム遠征

年表

項目をタップすると詳しく読めます。矢印キーで移動できます。

  1. 1225年

    陳朝が始まる

    陳煚(のちの太宗)が、李朝の宮廷の取り決めによって1225年ごろに即位します。有力な官僚の陳守度が、この権力の移行を取り仕切りました。陳朝はおよそ175年にわたって大越国を治めることになります。

  2. 1258年

    元による最初のベトナム遠征

    雲南から進んだ軍が、ウリヤンカダイの指揮で大越国に侵入します。元軍は都の昇竜を占領し、陳朝の宮廷は大きな危機に直面しました。

  3. 1274年11月

    元による最初の日本遠征

    元の宮廷が、属国の高麗とともに日本を攻めます。日本ではこの遠征を文永の役と呼び、元寇の一つに数えます。

  4. 1281年6月

    元による二度目の日本遠征

    日本の年表では、1281年6月から8月にかけての遠征が弘安の役です。1274年と同じ元の宮廷が、この遠征を率いていました。

  5. 1285年初め

    二度目のベトナム遠征

    トガンがナムクアン峠を越えて軍を進めます。元軍は昇竜を占領し、陳興道が大越国の軍を指揮しました。

  6. 1285年6月

    元軍が昇竜を離れる

    元軍は1285年6月に昇竜を離れ、二度目の遠征が終わります。大越国の軍は、紅河沿いの戦いで元軍と何度も戦っていました。

  7. 1287年の秋から冬

    三度目の遠征が始まる

    元軍が1287年の秋から冬にかけて大越国へ進軍します。元の艦隊は12月に欽州から出航し、トガンが陸の軍を、オマルが海軍の遠征隊を指揮しました。

  8. 1288年1月

    陳朝の海軍が元の補給船団を破る

    ヴァンドン島の近くで、陳興道の率いる約30隻の軍船が、元の補給船団を攻撃します。補給を失った元軍は、戦場で弱体化していきます。

  9. 1288年3月

    元軍が昇竜を離れ、撤退を命じる

    3月5日、元軍は食料不足を理由に昇竜を離れ、万劫の拠点へ向かいました。3月末、トガンは中国への撤退を命じます。

  10. 1288年4月9日

    白藤江の戦い

    博物館に展示され、1288年の戦いで使われた可能性があるとされる尖った木杭。
    Bình Giang, public domain, via Wikimedia Commons

    元の艦隊が満潮に乗って川へ入り、潮が引くとともに罠が閉じます。戦いは日の出から日没まで続いたとされ、オマルは捕らえられ、別の提督も逃げる途中で命を落としました。写真は博物館に展示された、この戦いで使われた可能性があるとされる杭です。

  11. 1289年

    オマルが溺死する

    オマルは、捕らえられた後、1289年に乗せられた船を意図的に沈められ、溺死したとされています。

  12. 1294年

    クビライが亡くなり、テムル・カアンが即位する

    クビライの死後、後を継いだテムル・カアンが即位します。その後、元がベトナムへ再び大軍を送ることはありませんでした。

  13. 1400年

    陳朝が終わる

    胡季犛が、外祖父として幼い皇帝の少帝を退け、胡朝を立てました。陳朝は1225年ごろに始まり、およそ175年で幕を閉じます。

地図

地図をタップで拡大

  • 1288年の白藤江の戦いを示す地図。川と両軍の陣地が示されています。

    1288年の白藤江の戦いの地図。

    Lưu Ly at Vietnamese Wikipedia, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons

  • 1258年から1288年にかけてのモンゴル(元)軍によるベトナム遠征を示す地図。1288年の遠征も含まれます。

    1288年の遠征を含む、元軍のベトナム遠征の地図。

    Akinneyfluorse, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

5分でわかる

1288年4月9日、ベトナム北部の白藤江(はくとうこう)で、陳朝の陳興道(ちんこうどう)が率いる大越国(だいえつこく)の軍は、元の海軍の大艦隊をほぼ壊滅させました。元は、モンゴル系のクビライ・カーンが中国に築いた王朝です。この戦いは、元が三度目に大越国を攻めた遠征を終わらせました。白藤江の戦いは、ベトナムの歴史でもっとも知られた勝利のひとつです。

戦いそのものは日の出から日没まで続きましたが、準備は3月から進められていました。この戦いを理解するには、三つの流れを押さえる必要があります。陳朝の成り立ち、1258年から1288年にかけての元の三度の遠征、そして白藤江の川底に打ち込まれた杭です。杭こそが、この勝利の中心にある仕掛けです。

背景:李朝から陳朝へ

大越国は、紅河(こうが)デルタを中心に栄えた独立国家で、現在のベトナム北部にあたります。北の中国の王朝と長く向き合い、海岸や川の道を守ってきました。白藤江では938年に、呉権(ごけん)が川に杭を並べて南漢の艦隊を退けたことがよく知られています。のちの戦いを語るとき、この先例がしばしば比べられます。

李朝(りちょう)は1009年に李公蘊(りこううん)が興した王朝です。李公蘊は1010年に都を昇竜(しょうりゅう)、現在のハノイへ移しました。李朝は1220年代に力を失い、1225年ごろに陳朝が始まります。即位したのは、のちに太宗と呼ばれる陳煚(ちんけい)です。有力な官僚の陳守度(ちんしゅど)が、この権力の移行を取り仕切ったとされています。

陳朝は1400年まで続きました。この年、外祖父にあたる胡季犛(こきり)が幼い皇帝を退け、胡朝(こちょう)を立てています。陳朝のおよそ175年の歴史は、元との戦いで大きく揺れることになります。ベトナムの王朝全体の流れをつかみたい方は、ベトナムの王朝とフランス統治(1428〜1945年)の解説もご覧ください。

元の遠征と日本とのつながり

元は、モンゴル系のクビライ・カーンが中国に築いた王朝です。1271年に国号を大元と改め、周辺へ大軍を送り出しました。ベトナムへの遠征も、この拡大の一部でした。同じ宮廷は、ベトナムと同じ時期に日本へも二度、軍を送っています。1274年11月と1281年6月から8月にかけての遠征です。日本ではこの二度の遠征を元寇と呼びます。

つまり、大越国と日本は、同じ帝国の拡大に直面していたのです。どちらも元の支配下には入らず、自分たちの力で独立を守りました。二つの戦いを並べて学ぶと、元という国がどのように勢力を広げようとしたのかが見えてきます。

元の宮廷は、ベトナムの統治者が元の権威を認め、朝貢することを求めました。陳朝は完全には服さず、元は軍を送りました。大軍を遠くまで動かすには、食料、馬、船が欠かせません。戦争の勝敗は、戦場だけでなく補給の行方によっても左右されたのです。

三度の遠征

最初の遠征は1258年です。雲南から進んできた軍が、スブタイの息子とされるウリヤンカダイの指揮で大越国に侵入しました。元軍は都の昇竜を占領し、陳朝の宮廷は大きな危機に直面しました。

二度目の遠征は1285年です。クビライの息子トガンが陸の軍を率い、ナムクアン峠を越えて進みました。元軍は1285年初めに昇竜を再び占領します。陳興道は大越国の軍を指揮し、同年6月、元軍は昇竜を離れて退きました。

三度目の遠征は、1287年の秋から冬にかけて始まりました。元の艦隊は1287年12月に中国南部の欽州から出航し、トガンが陸の軍を率い、オマルが海軍の遠征隊を指揮しました。下の地図には、ベトナムへの遠征を含む元の遠征の広がりが示されています。

1258年から1288年にかけてのモンゴル(元)軍によるベトナム遠征を示す地図。1288年の遠征も含まれます。
1288年の遠征を含む、元軍のベトナム遠征の地図。Akinneyfluorse, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

元軍は、補給を川と細い陸路で運んでいました。そのため、補給線は攻撃を受けやすい弱点でした。1288年1月末、陳興道らが約30隻の軍船を率いて、ヴァンドン島(雲屯島)の近くで元の補給船団を攻撃し、海南島の方向へ押し戻しました。

食料の不足が深刻になった元軍は、3月5日に昇竜を離れ、万劫(ヴァンキエップ)の拠点へ移りました。3月末には、トガンが中国への撤退を命じています。戦いの舞台は、ここで白藤江へ移ります。

戦いまでの流れを整理する

  1. 1288年1月末:ヴァンドン島の近くで、ベトナムの船団が元の補給船団を破る。
  2. 1288年3月:陳興道が川の準備を本格化させる。
  3. 3月5日:元軍が食料の不足を理由に昇竜を離れ、万劫へ移る。
  4. 3月末:トガンが中国への撤退を命じる。
  5. 4月9日:元の艦隊が白藤江に入り、潮が引いて罠が閉じる。

杭が仕掛けられた白藤江

白藤江は潮の影響を強く受ける川で、この戦いの鍵は潮にありました。潮は一日に二度、満ちては引きます。満潮の川は大きな船が進める深さをもちますが、潮が引くと浅い泥の流れとなり、船は身動きがとれなくなります。

陳興道は、戦いの前から潮の満ち引きと川筋を詳しく調べていたとされています。そのうえで、鉄の穂先をつけた木の杭を、Chanh、Kênh、Rútと呼ばれる水路の川底に打ち込ませました。満潮のときには杭は水に隠れ、干潮になると姿を現します。

仕掛けは、時間の読みに支えられていました。ゲン・コック(Ghềnh Cốc)と呼ばれる岩礁の陰には、ベトナムの船団が隠れて待ちました。元の艦隊が満潮に乗って川へ入り、潮が引き始めると、船は杭の上で動けなくなります。戦いは、日の出から日没まで続いたとされています。

杭を打ち込む作業は、川の深さと潮の時刻を見計らって進められたと考えられます。杭は水面下に隠れる高さで据えられ、元の船からは見えないように配置されていました。

歴史家のレ・ヴァン・ランは、杭が夜のうちに満潮の時刻に据えられ、早朝の攻撃に備えていたと見ています。早朝は干潮の時間にあたり、元の船は外海へ逃げる道を失いました。元の船は、この川の潮の動きに逆らえなかったのです。

この杭は、伝説だけの話ではありません。2019年11月、ハイフォン市のトゥイグエン区にあるリエンケー・コミューンで、ダバク川の堤防近くの発掘から木の杭が見つかりました。杭は高さ3〜4メートル、直径は約30センチメートルです。11月下旬までに発掘面積は950平方メートルとなり、27本の杭が出土しました。

杭の放射性炭素年代測定では、1270年から1430年の範囲が示されました。この範囲には1288年も含まれます。レ・ヴァン・ランは、こうした発見から、白藤江の戦いが一度きりの交戦ではなく、川に沿って計画された罠の一部だった可能性を指摘しています。

1288年の白藤江の戦いを示す地図。川と両軍の陣地が示されています。
1288年の白藤江の戦いの地図。Lưu Ly at Vietnamese Wikipedia, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons

なぜ白藤江が撤退路になったのか

撤退を命じられた元軍は、陸と海の両方から中国へ戻る道を探す必要がありました。ある記録では、トガンが補給を失ったため、白藤江を通って撤退しようとしたとされています。その川の入り口で、陳興道は準備を整えて待っていました。撤退の道そのものが、罠の舞台になったのです。

1288年4月9日の戦い

1288年3月、陳興道は川の準備を本格的に進めました。杭が据えられ、岸辺の入り江や岩礁の陰には、小型の船が隠されました。撤退を命じられた元軍は、白藤江へと進んでいきます。

4月9日の早朝、オマルの指揮する元の艦隊が白藤江に入りました。艦隊は満潮の時刻に罠の中へ進み、潮が引くにつれて、杭に阻まれて身動きがとれなくなります。ベトナム側の船が退路を断ち、戦いは日没まで続きました。オマルは捕らえられ、別の提督も川を逃れようとして命を落としたと伝えられています。

この戦いで重要なのは、勝敗が力の差だけで決まらなかったことです。潮の時刻を読み、川底に杭を据え、退路を断つという一連の計画がかみ合いました。大きな艦隊も、川の条件に合わせて動かされれば、身動きがとれなくなるのです。

陳興道という人物

陳興道は、陳朝の王族で、本名は陳国峻(ちんこくしゅん)です。1285年と1288年の遠征で大越国の軍を指揮し、白藤江の罠を考案したとされています。ベトナムでは、今も国の英雄として語られる人物です。

陳興道の戦いぶりは、力で押すだけの指揮官とは違っていました。潮と地形を使い、敵が最も不利な時刻に決戦を選んだ点が特徴です。戦術の面から見ると、数で勝る相手にどう向き合うかを示す好例といえます。

兵力と損害

戦いの兵力には、確かな記録がそろっていません。ここでは、いくつかの研究や記録で示されている数字を範囲で紹介します。元の海軍は約500隻の軍船と約70隻の輸送船から成り、兵士は約18,000人とされています。元軍全体の兵力は、資料によって約94,000人から約170,000人とされ、後者は1287年から1288年の遠征全体を含む数字です。大越国の兵力は約50,000人とされています。

損害にも幅があります。ある記録では、白藤江の戦いで元軍の約80,000人が戦死または捕虜になったとされています。別の研究では、1287年から1288年の遠征全体で、元軍の約90,000人が戦死または溺死したと見積もられています。大越国側の戦死者は、この戦いで約4,000〜4,500人とされています。いずれの数字をとっても、元の艦隊の大部分が失われ、陸の軍も撤退しました。

戦いのその後

捕らえられたオマルは、1289年に乗せられた船を意図的に沈められ、命を落としたとされています。トガンは、クビライによって揚州へ追いやられたとする記録もあります。

1294年にクビライが亡くなると、後を継いだテムル・カアンが即位しました。その後、元がベトナムへ再び大軍を送ることはありませんでした。陳朝は、この勝利によって北からの大きな侵攻を退け、その後も一世紀あまり国の独立を保ちました。

陳朝の最後は1400年です。胡季犛が幼い皇帝を退け、胡朝を立てました。白藤江の勝利からおよそ110年後のことでした。

なぜ重要なのか

白藤江の勝利によって、元軍のベトナム遠征は終わりを迎えました。大越国は独立を守り、陳朝はその後も一世紀あまり続きました。陳興道は、この戦いを通じてベトナムの歴史上もっとも名高い将軍のひとりとなりました。

この戦いが特徴的なのは、数で劣る側が川の地形と潮を武器にしたことです。大きな海軍を自分たちの条件で戦わせたという点で、戦略を考えるうえで取り上げられることの多い例です。938年に呉権が同じ川で勝利したことを思い出すと、ベトナム側が川の戦いを得意としていたことも見えてきます。

試験に出るポイント

試験では、少ない兵力で大軍を破れた理由を問われることがあります。解答では、杭、潮の満ち引き、川の地形の三つを挙げ、元軍の補給の問題と結びつけると説明しやすくなります。比較問題では、938年の白藤江の戦いとの共通点を答えられるように準備しておくと役立ちます。

また、元が日本にも遠征した点を押さえてください。1274年11月と1281年の遠征が元寇です。ベトナムへの遠征も、日本の元寇と同じ元の帝国による拡大の一部でした。この二つをつなげて説明できると、答案に厚みが出ます。

あわせて読みたい

この時代の流れを広く知りたい方は、ベトナムの王朝とフランス統治(1428〜1945年)から読むと、前後のつながりがつかみやすくなります。ベトナムの長い歴史については、ベトナムの歴史:王朝、帝国、戦争が参考になります。陳朝の後に続く政治の対立は、黎朝と鄭・阮の対立で扱っています。文字と文化の変化は、チュノムとクォックグーの記事がくわしいです。

軍と部隊

  • 博物館に展示された、白藤江の戦いで使われた可能性がある尖った木杭(イラスト)。 兵器 イラスト

    大越国

    川に打ち込まれた杭

    鉄の穂先をつけた木の杭で、川底に打ち込まれ、満潮時には隠れ、潮が引くと姿を現しました。イラストは、1288年の戦いで使われた可能性があるとされる博物館の展示の写真をもとにしています。

    Illustration after Bình Giang, public domain · 元の画像

  • 歩兵

    大越国

    大越国の川の戦士

    小型の船に乗って川で戦った陳朝の兵士たちです。岩礁の陰で待ち、潮が引いて動けなくなった元の船を攻撃したとされています。

  • 艦船

    元

    元の遠征艦隊

    満潮に乗って川に入った海軍の部隊です。軍船は約500隻、輸送船は約70隻とされています。その多くが杭に乗り上げたか、戦いの中で失われました。

  • 指揮官

    大越国

    陳興道

    陳国峻(ちんこくしゅん)とも呼ばれる、陳朝の王族です。1285年と1288年の遠征で大越国の軍を指揮し、白藤江の罠を考案したとされています。

  • 指揮官

    元

    オマル

    1288年に元の海軍遠征を指揮した提督です。白藤江で捕らえられ、1289年に乗せられた船を意図的に沈められて溺死したとされています。

  • 指揮官

    元

    トガン

    クビライの息子で、1285年と1287年から1288年の遠征で元の陸軍を率いました。1288年3月30日、ベトナムからの撤退を命じています。

よくある質問

白藤江の戦いはいつ、どこで起きましたか?

1288年4月9日とされ、ベトナム北部の白藤江で起きました。現在のクアンニン省の一帯にあたります。戦いは日の出から日没まで続いたとされています。

なぜ陳朝は大きな艦隊に勝てたのですか?

川の潮の動きと水路を熟知していたことが大きな理由です。鉄の穂先をつけた杭を満潮時に隠し、元の船を罠へ誘い込みました。潮が引いて船が動けなくなったところを、待ち伏せしていた大越国の船が攻撃しました。

元はなぜベトナムに攻め込んだのですか?

クビライの宮廷は、アジア各地へ勢力を広げていました。大越国もその支配下に入れようとしたため、元は1258年から1288年にかけて三度の遠征を行いました。最後の遠征は白藤江の戦いで敗れています。

この戦いと日本の元寇は、どうつながっていますか?

同じ元の宮廷が、1274年と1281年に日本へ遠征しました。日本ではこれを元寇と呼びます。ベトナムへの遠征も同じ帝国の拡大の一部だったため、両方の戦いを合わせて学ぶと全体像がわかりやすくなります。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. 白藤江の戦いが起きたとされる日付はいつですか?

  2. 陳興道は元の艦隊をどのように罠にかけましたか?

  3. 白藤江で捕らえられた元の提督は誰ですか?

  4. 元寇と呼ばれる、元による日本遠征はいつですか?

  5. 1400年に終わったベトナムの王朝はどれですか?

「ベトナムの王朝とフランス支配(1428〜1945年)」の関連記事

このテーマのまとめページへ →
共有:

著者について

Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

続きを読む →

続けて読む

このテーマを探る: ベトナムの王朝とフランス支配(1428〜1945年)

記事

ベトナムの歴史をわかりやすく:王朝・植民地・戦争の流れ

ベトナムの歴史をわかりやすく:王朝・植民地・戦争の流れ

ベトナムの歴史は、国づくりと周辺地域との交流、そして誰が国を治めるかをめぐる争いが重なってきた歩みです。紅河デルタの古代文化、中国王朝の支…

ナショナリズムと第1次世界大戦

ナショナリズムと第1次世界大戦

ナショナリズムは、第1次世界大戦を大きく広げた原因の一つです。1914年6月のサラエボ事件の後、各国は、ここで引けば威信を失うと考えて戦争…

帝国主義と第1次世界大戦

帝国主義と第1次世界大戦

帝国主義だけで第1次世界大戦が起きたわけではありません。しかし、植民地や市場、海軍力をめぐる列強の競争が対立を深め、1914年6月のサラエ…

マリアテレジアとは?生涯と功績

マリアテレジアとは?生涯と功績

マリアテレジアは、1740年から1780年まで、ハプスブルク家の領地を治めた女性君主です。男子の跡継ぎがいない中で即位し、シュレジエンを失…

同盟関係はなぜ第1次世界大戦を広げた?

同盟関係はなぜ第1次世界大戦を広げた?

第1次世界大戦は、1914年6月のサラエボ事件をきっかけに始まりました。しかし、ヨーロッパ各国が結んでいた同盟関係によって、一つの地域の争…

ルソーとは?何した人か・思想をわかりやすく

ルソーとは?何した人か・思想をわかりやすく

ジャン=ジャック・ルソー(1712年〜1778年)は、ジュネーヴ出身の思想家です。人間は生まれながらに善良だが、社会と私有財産が人を不平等…

要約