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清仏戦争とは:ベトナムをめぐる清とフランスの戦い(天津条約)

10月 30, 2026
清仏戦争とは、ベトナムをめぐるフランスと清の対立から起きた戦争です。トンキンから福州、台湾へ戦場が広がり、1885年の天津条約で清はフランスの保護国支配を認めましたが、ベトナム人の抵抗は続きました。

シリーズ: ベトナムの王朝とフランス支配:黎朝から1945年まで

5分要約を聞く

4:04

清仏戦争とは:ベトナムをめぐる清とフランスの戦い(天津条約)

基本データ

時期
1883〜1885年。国家間戦争は一般に1884年8月下旬から
主な戦場
トンキン、中国南東部の海岸、台湾、澎湖
交戦勢力
フランスと清。トンキンではベトナム側勢力と黒旗軍も戦った
結果
天津条約で戦闘が終わり、清は安南・トンキンでのフランスの保護国支配を認めた

年表

項目をタップすると詳しく読めます。矢印キーで移動できます。

  1. 1883年12月16日

    フランス軍が山西(サンタイ)を攻略

    フランス軍は黒旗軍と清軍が守る山西へ進み、この町を占領しました。北部ベトナムでの軍事衝突は、清仏間の外交問題をさらに深めました。

  2. 1884年3月12日

    北寧の戦い

    フランス軍は北寧を攻撃して制圧し、トンキンでの軍事的優位を強めました。しかし、清がベトナムへの影響力を手放すかという問題は解決しませんでした。

  3. 1884年5月11日

    天津協定の調印

    李鴻章とフルニエが、清軍のトンキン撤退などを定めた協定に署名しました。撤退の実施をめぐる認識のずれが、緊張を残しました。

  4. 1884年6月6日

    フエ条約(1884年)の締結

    フランスと阮朝は、安南とトンキンをフランスの保護下に置く条約を結びました。阮朝の外交上の自立は大きく制限され、清との対立も深まりました。

  5. 1884年6月23日

    北麗でフランス軍と清軍が衝突

    ランソン方面へ進むフランス軍が、北麗付近で清軍と衝突しました。北麗事件をめぐる賠償要求と説明の食い違いが、協定で抑えられなかった対立を再燃させました。

  6. 1884年8月23日

    福州海戦

    1884年8月の福州海戦を描いた中国の版画。
    Garitan, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons

    クールベ提督のフランス艦隊が福州で清の福建艦隊を攻撃しました。停泊中の艦隊と馬尾造船所が大きな損害を受け、海上戦が戦争の中心の一つとなりました。

  7. 1884年10月1日

    フランス軍が基隆を占領

    フランス軍は台湾北部の基隆を占領しましたが、10月8日の淡水攻撃は撃退されました。戦いは短期決戦にならず、封鎖と補給をめぐる長期戦へ移りました。

  8. 1884年後半〜1885年3月

    宣光の包囲戦

    清軍と黒旗軍は、劉永福の部隊を含めてトンキンの宣光を包囲しました。守備隊のフランス軍は持ちこたえ、救援の到着を待ちました。

  9. 1885年3月2日

    ホアモクの戦い

    救援に向かうフランス軍は、ホアモクで宣光を囲む部隊と交戦しながら前進しました。翌3日に守備隊のもとへ到着し、陸上作戦の厳しさを示しました。

  10. 1885年3月23〜24日

    邦波(鎮南関付近)での清軍の勝利

    清軍は国境近くの邦波でフランス軍を破りました。フランス軍は3月28日にランソンから退き、3月30日にはジュール・フェリー内閣が倒れました。

  11. 1885年4月4日

    予備議定書の署名

    フランスと清は予備議定書に署名し、現地の戦闘を停止させました。正式な決着は、およそ2か月後の天津条約に委ねられました。

  12. 1885年6月9日

    天津条約の調印

    フランスと清は天津条約に署名し、戦闘を終結させました。清はフランスとフエ宮廷の条約を尊重し、フランスは基隆と澎湖からの撤退を約束しました。

  13. 1885年

    勤王運動の開始

    フランスの保護下に置かれた阮朝を支える形で、フランス支配に反発する勤王運動が始まりました。清仏間の戦争が終わっても、ベトナムでのフランス支配への抵抗は続きました。

地図

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  • 1883年12月、山西の町と防御施設を示す図。

    トンキン作戦中の1883年12月の山西の図。

    Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1884年の台湾作戦で争われた港、基隆の地図。

    1884年、台湾におけるフランス軍の作戦中の基隆。

    Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

  • 福州海戦の開始時におけるフランス艦と清の艦の位置を示す図。

    福州海戦の開始時の配置。図は1888年刊行。

    Thomas Brassey, 1st Earl Brassey, public domain, via Wikimedia Commons

5分でわかる清仏戦争とは

清仏戦争とは、ベトナムの支配権をめぐるフランスと清の対立が、1883年から1885年にかけて軍事衝突へ発展した戦争です。主な戦場はベトナム北部のトンキンでしたが、戦いは中国南東部の沿岸や台湾にも広がりました。1885年6月9日に結ばれた天津条約によって、フランスと清の戦闘は終わり、清は安南とトンキンに対するフランスの保護国支配を認めました。しかし、これはベトナム人がフランスの支配を受け入れたという意味ではありません。阮朝(グエン朝)の外交と統治は大きく制限され、フランスへの抵抗も続きました。

戦争の全体像は、ベトナムの王朝とフランス支配の流れの中で見ると整理しやすくなります。「天津」と「Tientsin」は同じ都市名の異なる表記です。日本語では、1884年の協定を天津協定、1885年の条約を天津条約と呼んで区別すると混乱しにくくなります。

基本情報

  • 時期:1883〜1885年。清とフランスの国家間戦争は、1884年8月下旬から本格化したとされます。
  • 主な戦場:トンキン、中国南東部の沿岸、台湾、澎湖諸島。
  • 主な交戦国:フランスと清。トンキンではベトナム側の勢力や黒旗軍も戦いました。
  • 争点:フランスがベトナムを保護国化しようとしたことと、清が同地への影響力を保とうとしたことです。
  • 結果:1885年の天津条約で戦闘が終わり、清は安南とトンキンにおけるフランスの保護国支配を認めました。
  • 世界史のポイント:フランスの植民地拡大と、清の周辺地域に対する影響力の後退を結びつけて考えます。

清仏戦争の原因:ベトナムをめぐる対立

フランスは19世紀半ばからベトナムへの進出を進めていました。1858年から1867年にかけて南部のコーチシナを征服し、さらに北の紅河(ホン川)流域へ勢力を伸ばそうとします。紅河は中国南部へ通じる水路で、貿易の道としても魅力がありました。ただし、争いは貿易だけの問題ではありません。阮朝のベトナムは長く清に朝貢する関係を保っており、清の役人にとって、フランスがベトナムの支配権を強めることは南の国境における自国の立場を弱める動きでした。

フランスには、植民地帝国を広げてヨーロッパ列強との競争に加わるという狙いもありました。ただし本国では、植民地拡大を進めるジュール・フェリー政権への議会の批判が強く、海外での軍事行動は政治的な危うさをはらんでいました。1883年にはトンキンへの圧力が強まり、同年のフエ条約によって阮朝の保護国化が図られます。1884年6月6日の新たな条約では、安南とトンキンがフランスの保護下に置かれました。阮朝の外交はフランスの強い管理下に入り、統治の自由も狭まります。清軍がトンキンに残っていたことも、両国の緊張を高めました。フランスは清軍の撤退を求めましたが、清側の指揮官や役人の間では、条約や協定の意味、撤退の時期について理解がそろっていませんでした。

この地域には黒旗軍もいました。劉永福が率いた黒旗軍は、もとは地方で結成された武装勢力で、トンキンにおけるフランスの進出に抵抗しました。フランス側の記録では「盗賊」と呼ばれることもありますが、その呼び方では組織的な軍事勢力としての役割が見えてきません。黒旗軍は時期によってベトナム側の勢力や清軍と協力し、フランス軍との戦いで重要な役割を果たしました。したがって、戦争をパリと北京だけの二国間の争いとして描くと、現地で戦った人々の存在を見落としてしまいます。

阮朝にとっては、二つの大国の争いを見守るだけの立場ではありませんでした。宮廷はフランス軍の進出を受けながら統治を続けようとし、外交の選択肢も残そうとしました。一方で、清との長い関係も簡単には切り離せません。フランスと清がベトナムの地位をめぐって交渉するほど、阮朝が自ら決められる範囲は狭まりました。この点を押さえると、戦争が単なる国境争いではなく、ベトナムの政治的自立を左右する争いだったことがわかります。

トンキンでの衝突から戦争へ

清仏間の戦争が本格化する前から、フランス軍はトンキンで黒旗軍や清軍と戦っていました。1883年12月16日、フランス軍は山西(サンタイ)を攻略します。翌1884年3月12日には北寧(バクニン)を攻撃して制圧しました。これらの勝利はフランスの交渉上の立場を強めましたが、ベトナムの政治的地位をめぐる対立は解消しませんでした。

1884年5月11日、清の李鴻章とフランス代表のフルニエは天津協定に署名しました。協定は清軍のトンキン撤退や、フランスが阮朝と結ぶ条約を清が尊重することなどを定めていました。清の宮廷でも、強硬に戦おうとする意見と、李鴻章のように交渉で妥協を探る立場とが対立していました。ところが、撤退の実施方法や時期について双方の理解が食い違い、合意は不安定な休戦の役割しか果たせませんでした。

同年6月23日、ランソン方面へ向かうフランス軍は、北麗(バクレ)付近で清軍と衝突しました。フランスではこの出来事を「北麗の待ち伏せ」と呼び、清軍が先に攻撃したと主張しました。清側は異なる説明をし、フランスが求めた賠償にも反発します。双方の交渉は行き詰まりました。

北麗事件だけが戦争の原因ではありません。事件が大きな戦争の引き金になったのは、ベトナムの地位、清軍の撤退、合意の解釈をめぐる対立がすでに積み重なっていたからです。協定がその争いを解決できなかったため、現地の衝突が国家間の戦争へと発展しました。

ここでは、1884年の天津協定と1885年の天津条約を混同しないことが大切です。1884年の協定は、トンキンで高まる緊張を抑えるための合意でした。しかし、撤退の実施や解釈をめぐる問題は残り、現地の衝突を防げませんでした。1885年の条約は、海上戦や台湾での作戦を経た後に結ばれた戦争の終結文書です。同じ都市名を含む二つの外交文書を分けると、戦争の進み方を追いやすくなります。

福州・台湾の海戦と、陸上戦の苦戦

1884年8月23日、クールベ提督のフランス艦隊は福州(フーチョウ)で清の福建艦隊を攻撃しました。清の艦隊は港内で不意を突かれ、近くの馬尾造船所とともに大きな損害を受けます。この戦いは、集中した近代的な艦隊が準備の整わない相手を圧倒した例として語られます。同時に、清の海軍が地域ごとに編成され、まとまった指揮を取りにくかった弱点も表しました。

福州海戦が始まった時点のフランス艦と清の艦の位置を示す図。
福州海戦の開始時の配置。図は1888年刊行。Thomas Brassey, 1st Earl Brassey, public domain, via Wikimedia Commons.

フランスは台湾にも攻撃を加えました。当時ヨーロッパでは台湾をフォルモサと呼ぶことが一般的でした。1884年10月1日、フランス軍は北部の基隆を占領します。しかし、10月8日に淡水を攻めた作戦は撃退され、失敗しました。その後は封鎖と補給をめぐる長い争いとなり、台湾全体を短期間で占領する作戦にはなりませんでした。清側も島への兵員や物資の補給を試み、戦いは長引きました。

1884年の台湾作戦で争われた港、基隆の地図。
1884年、台湾におけるフランス軍の作戦中の基隆。Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons.

台湾での作戦は、港を押さえることと島全体を支配することの違いを示しました。基隆を占領しても、島の各地を短期間で制圧できたわけではありません。封鎖を続けるには艦船を現地に置く必要があり、補給や増援がとても重要になります。条約では、フランスがベトナムで得た影響力の承認と引き換えに、ベトナム以外で占領した地域から退く形がとられました。戦争の結果を考えるときは、どの地域で何を得たのかを分けて見ると理解しやすくなります。

陸上でも戦闘は続きました。清軍と黒旗軍は、ベトナム北部の宣光(トゥエンクアン)を包囲し、そこに立てこもったフランス軍守備隊は救援が来るまで持ちこたえました。救援に向かうフランス軍は、1885年3月2日にホアモクで宣光を囲む部隊と交戦しながら前進し、翌3日に守備隊のもとへたどり着きます。陸上作戦がいかに厳しかったかを示す場面です。

同じ3月の23日から24日にかけて、清軍は国境近くの邦波(鎮南関付近)でフランス軍を破りました。1885年2月にランソンを占領していたフランス軍は、3月28日にそこから退きます。この撤退はパリの政局を揺さぶり、3月30日にジュール・フェリー内閣が倒れる一因となりました。

トンキン作戦での山西と防御施設を示す図。
トンキン作戦中の1883年12月の山西の図。Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons.

陸上戦と海上戦では、求められたものが違いました。艦船は沿岸を素早く移動して港を攻撃できましたが、ベトナム北部では陸軍が険しい地形を越え、食料や弾薬、連絡路を維持しなければなりませんでした。清軍と黒旗軍は、フランス軍が町を押さえた後も陸路の作戦を困難にしました。戦況が戦場ごとに大きく変わった理由の一つは、ここにあります。

したがって、この戦争を「近代兵器を持つフランスが一方的に勝った」とだけ説明することはできません。フランスは海戦で大きな優位を示しましたが、陸上作戦は犠牲と不確実さをともない、清軍や黒旗軍も局地的な勝利を収めました。海と陸の戦況を分けて見ると、戦争の複雑さが理解できます。

1885年の天津条約とベトナムへの影響

フランスと清は1885年6月9日に天津条約を結びました。清の李鴻章とフランスのジュール・パトノートルが、それぞれの政府を代表して署名しています。それより前の4月4日には予備議定書によって戦闘が停止されており、6月の条約が外交上の正式な決着となりました。条約は、すでに現地で明らかになっていた結果を文書の形にしたものです。清はフランスと阮朝の条約を尊重すると約束し、トンキンに残っていた清軍を撤退させることになりました。一方、フランスは基隆と澎湖からの撤退を約束しました。通商や国境に関する取り決めも含まれ、両国が今後どのように接するかも示されました。

この条約はフランスと清の関係を定めた文書で、阮朝がその当事者として署名したものではありません。それでも、清がフランスと阮朝の条約を尊重すると約束したことで、ベトナムの外交上の位置づけは大きく変わりました。阮朝は独立した外交相手として扱われる機会を失い、フランスの影響下で外交を進めることになります。清にとっては、ベトナムに対する従来の影響力を事実上手放す結果でもありました。

ベトナム全土がコーチシナと同じ法的地位の植民地になったわけではありません。安南とトンキンは保護国とされ、阮朝は残りましたが、フランスの力に従属しました。「保護国」という呼び方から、阮朝に十分な独立があったと考えるのは誤りです。外国との関係を決める権限は制限され、フランスの役人が政治や行政に強い影響を及ぼすようになります。

この条約はベトナム人の反仏運動を終わらせませんでした。1885年には阮朝を支えてフランスに抵抗する勤王運動が始まります。清仏戦争が解決したのは、フランスと清の間の外交問題でした。ベトナム人がフランス支配に同意したわけではありません。植民地支配の展開はフランス領インドシナで、南部からの進出はコーチシナ征服とサイゴン条約で詳しく見られます。

世界史・共通テストで押さえる点

清仏戦争では、三つの視点をつなげましょう。第一に、フランスはコーチシナから北部ベトナムへ植民地支配を広げようとしました。第二に、清はベトナムへの影響力を失うことに抵抗しましたが、地方ごとに分かれた軍隊や艦隊を一体的に動かすことが難しい状況でした。第三に、1885年の天津条約によって、清は安南とトンキンにおけるフランスの保護国支配を認め、フランス領インドシナ形成への道が開かれました。

1884年の天津協定と1885年の天津条約は区別してください。前者は戦争を避けるために結ばれた協定で、後者は戦闘を終わらせた条約です。また、同じ天津条約という名称を持つ別の条約と混同しないことも大切です。複数の天津条約は天津条約の比較で整理できます。より広い外交史は清・日本・西洋列強を参照してください。

間違えやすい点も三つあります。黒旗軍は清の正規軍ではありません。1884年の天津協定と1885年の天津条約は別の文書です。そして戦争は、どの戦場でも一方的に決着したわけではありません。フランスは海戦で大きな優位を示しましたが、トンキンの陸上作戦は高い代償を払いました。

記述問題では、「清がベトナムを失った」とだけ書くと、ベトナムを両国間で受け渡された物のように扱ってしまいます。フランスと清の外交上の決着を示しつつ、その結果として阮朝の自立が損なわれ、ベトナム人が抵抗を続けたことも説明しましょう。年代を答える問題では、1884年8月下旬の開戦、1884年10月の基隆占領、1885年3月の宣光の救援、1885年6月9日の天津条約を順に並べると整理しやすくなります。

次に読む

フランスの南部進出を知るには、コーチシナ征服とサイゴン条約へ。名前の似た協定を整理するなら、三つの天津条約が役立ちます。植民地支配の次の段階はフランス領インドシナで、地域外交を広く見るには清・日本・西洋列強を読んでください。

軍と部隊

  • 黒旗軍を率いた劉永福のイラスト。 指揮官 イラスト

    黒旗軍

    劉永福

    黒旗軍を率いた指導者で、トンキンにおけるフランス軍の進出に抵抗しました。この肖像画は戦争後の1896年に刊行された資料に載っています。

    Illustration after 遠藤誠編, public domain · 元の画像

  • フランス海軍の提督アメデ・クールベのイラスト。 指揮官 イラスト

    フランス

    アメデ・クールベ

    福州の清艦隊への攻撃など、フランスの海軍作戦を指揮した提督です。

    Illustration after Ernest-Eugène Appert , Photographer, Paris. Upload, stitch and restoration by Jebulon (2013-04-14 18:35:18), public domain · 元の画像

  • トンキンにいたフランス砲艦エクレールのイラスト。 艦船 イラスト

    フランス

    砲艦エクレール

    1884年にトンキンで撮影されたフランスの砲艦です。海軍力がフランスの軍事作戦を支えたことを示します。

    Illustration after Charles-Édouard Hocquard, public domain · 元の画像

  • 1884年のトンキンにいた黒旗軍兵士を描いたイラスト。 歩兵 イラスト

    黒旗軍

    黒旗軍の兵士

    トンキンの黒旗軍兵士を表した場面設定用のイラストです。特定の部隊や徽章を示すものではありません。

    Illustration · FiveMinRead

よくある質問

清仏戦争はいつ起きましたか?

清仏戦争は1883年から1885年にかけて起こり、清とフランスの国家間戦争は一般に1884年8月下旬に始まったとされます。トンキンではそれ以前からフランス軍、清軍、黒旗軍の衝突が続いていました。

清仏戦争の原因は何ですか?

フランスがベトナムに保護国支配を広げようとし、清が同地への伝統的な影響力を維持しようとしたことが根本の対立です。北麗事件と賠償交渉の決裂が、すでに不安定だった天津協定を破綻させるきっかけとなりました。

黒旗軍とは何ですか?

黒旗軍は劉永福が率いた軍事組織で、フランス軍のトンキン進出に抵抗しました。清軍と協力する時期がありましたが、清の正規軍と同一の部隊ではありません。

天津条約で何が決まりましたか?

1885年の天津条約はフランスと清の戦闘を終わらせ、清にフランスと阮朝の条約を尊重させました。清軍はトンキンから撤退し、フランス軍は基隆と澎湖から撤収することになりました。

清仏戦争の結果、ベトナムはどうなりましたか?

清はベトナムに対する宗主権を主張しなくなり、安南とトンキンはフランスの保護国支配下に置かれました。ただし、阮朝は残り、フランス支配へのベトナム人の抵抗も続きました。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. 清仏戦争の中心となった問題は何ですか?

  2. 1884年8月23日の主な戦闘はどこで起きましたか?

  3. 劉永福が率いた部隊はどれですか?

  4. 1885年の天津条約を結んだ二国はどこですか?

  5. 条約後も続いたベトナムの反仏運動はどれですか?

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著者について

Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

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