5分でわかる
ナショナリズム(民族や国家への強い一体感と、自分たちの国は自分たちで治めるべきだという考え方)は、第1次世界大戦(「第一次世界大戦」とも書かれます)を広げた大きな原因の一つです。ただし、ナショナリズムだけで戦争が始まったわけではありません。国の誇りや不安が同盟や軍事計画と結びつき、1914年6月のサラエボ事件の後には、各国が「ここで引けば威信を失う」と考えて戦争へ進みました。
この記事では、ナショナリズムという一つの視点から、大戦への道筋を5分で見ていきます。第1次世界大戦の全体像は、第1次世界大戦の解説ページで整理しています。
ナショナリズムとは
ナショナリズムとは、言語や歴史、文化を共有する人々が「自分たちの国」を持ち、自分たちで政治を決めるべきだという考え方です。19世紀のヨーロッパでは、人々の忠誠心が王家や身分から国家へと移り、学校や新聞がそれを強めました。ナショナリズムは人を結びつける力になる一方で、ほかの民族を敵視したり、対立を激しくしたりすることもあります。この両面を意識すると、大戦の原因が理解しやすくなります。
1914年のヨーロッパでは、ナショナリズムは主に三つの形で現れていました。
- 新しく生まれた国家:イタリアは1860年代から1870年代初めにかけて統一され、ドイツは1871年、普仏戦争でフランスに勝った後に一つの帝国になりました。両国とも、列強として認められることを強く望んでいました。
- 帝国の中の民族:オーストリア=ハンガリー、ロシア、オスマン帝国は、多くの言語や民族を抱えていました。チェコ人、ポーランド人、クロアチア人、セルビア人などが自治や独立を求めると、支配する側は統制を失うことを恐れました。
- 大国としての誇り:フランスは、1871年にアルザス・ロレーヌをドイツに奪われたことを忘れませんでした。イギリスとドイツは大型戦艦の建造で競い合い、海軍力は国の価値を示すものと見なされました。
ただし、これらの感情がそのまま戦争につながったわけではありません。多くの人々が望んでいたのは、安全と暮らしの安定、そして国としての尊重であり、戦争ではありませんでした。危険になったのは、ナショナリズムの主張が恐怖や威信、軍事計画と重なったときです。
バルカン半島は「火薬庫」だった
バルカン半島は、民族どうしの対立が最も激しい地域でした。1908年、オーストリア=ハンガリーは、1878年から統治していたボスニア・ヘルツェゴビナを正式に併合しました。住民にはセルビア人が多く、ボスニアのセルビア人を含めて南スラヴ人の統一国家を目指す声が、セルビアで強まっていました。ロシアはスラヴ系の人々の守り手を自任し、セルビアを支持しました。一方、オーストリア=ハンガリーは、セルビアが強くなれば自国内の南スラヴ系の人々も動揺すると心配していました。
1912年と1913年のバルカン戦争で、緊張はさらに高まりました。まず、セルビアを含むバルカン諸国の同盟がオスマン帝国を追い出し、ヨーロッパに残っていた領土の大部分を失わせました。次に、勝った同盟国どうしが領土の分配をめぐって争いました。戦争の結果、セルビアは領土を大きく広げ、マケドニアの多くも手に入れました。オーストリア=ハンガリーは、独立したアルバニアの建国を支えることで、セルビアがアドリア海に出る道を塞ぎました。どの国も、相手への不信を深めたまま戦争を終えたのです。
秘密結社も危険を高めました。1911年、セルビア軍の将校たちを中心に「黒手組(統一か死か)」という団体が生まれました。南スラヴ人の統一を目指し、ときには暴力も辞さない考えを持っていました。サラエボの暗殺計画では、この団体の関係者が武器の調達に関わったとされています。
サラエボ事件から戦争へ(1914年7月)
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、妻ゾフィーとともにサラエボを訪れました。この日はセルビアの祝日ヴィドヴダンで、1389年のコソボの戦いを記念する日でした。そのため、多くのセルビア人にとって特別な意味を持つ日でした。その日、19歳のボスニア・セルビア人ガヴリロ・プリンツィプが二人を撃ちました。プリンツィプは「青年ボスニア」というグループの一員でした。二人は亡くなりました。
暗殺は、それ自体では戦争ではありませんでした。しかし、大国に大きな判断を迫る危機になりました。オーストリア=ハンガリーの指導層はセルビアを罰したいと考え、まずドイツの支持を取り付けようとしました。7月初め、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ウィーンがどんな行動をとっても支持するという、いわゆる「白紙委任」を与えました。
ウィーンが行動を決めると、危機は急速に進みました。どの首都も、退けば威信を失い、ライバル国に弱さを見せることになると考えていました。
- 7月23日:オーストリア=ハンガリーがセルビアに、10項目の要求と48時間の期限を付けた最後通牒を出しました。
- 7月25日:セルビアは要求の大部分を受け入れましたが、全部は受け入れませんでした。オーストリア=ハンガリーは外交関係を断ちました。
- 7月28日:オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告しました。
- 7月29〜30日:ロシアがセルビアを支えるために動員を始め、まず一部、続いて全面の動員を命じました。
- 8月1日:ドイツがロシアに宣戦布告しました。8月3日にはフランスに宣戦布告しました。
- 8月4日:ドイツ軍がベルギーに侵入し、イギリスがドイツに宣戦布告しました。
ナショナリズムは、これらの動きに感情の重みを加えました。セルビアは、主権を失うように見える要求を簡単には受け入れられませんでした。ロシアは、スラヴ系の人々の前で面目を失うわけにはいかないと感じていました。フランスは同盟国ロシアとの関係を重んじ、1871年の敗北の記憶も消えていませんでした。ドイツは、西部で素早く戦いを終えることが最善だと判断しました。同盟関係の仕組みについては、三国同盟と三国協商の解説も参考になります。
なぜ外交では止められなかったのか
外交には、戦争を避ける道もありました。セルビアの回答は譲歩の姿勢を示し、イギリスは、ドイツ、フランス、イタリアを加えた四か国会議を提案しました。しかし、どの選択も威信という物差しで測られました。ウィーンでは、弱腰を見せれば帝国内の民族運動を勢いづけると考えられました。サンクトペテルブルクでは、セルビアを見捨てればスラヴ系の人々の前でロシアの立場を失うと感じられました。ベルリンでは、ロシアの軍備が強くなる前に戦うべきだという声が軍の中で強まりました。ナショナリズムによる誇りは、一つひとつの譲歩を危険な賭けに変え、その危険がさらに強硬な態度をとる理由になってしまったのです。
ナショナリズムが第1次世界大戦を広げた四つの理由
- 国内での威信:指導者は弱腰と見られることを恐れました。退いた政府は、国民の支持や政権そのものを失う危険がありました。
- 国外の同胞の保護:ロシアとスラヴ系の人々とのつながりは、バルカンの争いから距離を置くことを難しくしました。
- 帝国内部の圧力:オーストリア=ハンガリーは、セルビアのナショナリズムが勝てば自国の南スラヴ系住民を刺激すると考え、セルビアを国家の存続にかかわる脅威と見なしました。
- 世論とメディア:いくつかの国の新聞は、ライバル国への怒りをあおりました。1914年の夏、いくつかの首都では、群衆が宣戦布告を歓迎して集まりました。
ナショナリズムだけが原因ではありません
ナショナリズムは、ほかの力と重なって働きました。同盟は、どの国がどの国を支えるかを決めました。軍国主義は、戦争計画と動員の時間表を急ぐべきものに感じさせました(軍国主義とはを参照)。植民地をめぐる競争も、とくに1905年と1911年のモロッコ事件で列強の不信を深めていました(帝国主義と第1次世界大戦を参照)。ナショナリズムの特徴は、こうした圧力をそれぞれ「自分たちの国の名誉」の問題に変え、引くに引けないものにしたことです。
戦争の結末とその後
戦いは1918年11月11日の休戦で終わりました。その頃までに、ロシア帝国は崩壊し、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリーも解体され、オスマン帝国は分裂へ向かっていました。講和では、民族ごとの原則を取り入れて地図が描き直され、チェコスロヴァキアやセルビア・クロアチア・スロヴェニア王国などの国家が生まれました。しかし、新しい国境の内側には多くの少数民族が取り残され、その緊張は1918年を過ぎても続きました。
試験に出るポイント
試験では、ナショナリズムがどの程度戦争の原因になったのかを評価させる問題がよく出ます。答えを書くときは、バルカン戦争やサラエボ事件などの具体的な出来事を挙げ、それが威信、同胞の保護、帝国内部の圧力のどれを示しているかを説明しましょう。そのうえで、同盟、軍国主義、帝国主義と比べて、ナショナリズムの役割をどう判断するかを明確にすると、評価されやすい答案になります。年表の問題では、1908年の併合、1912〜1913年のバルカン戦争、1914年6月28日の暗殺、7月の最後通牒と宣戦布告の順番を押さえておくと安心です。
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- 帝国主義と第1次世界大戦:植民地をめぐる競争が、列強どうしの不信をどう深めたのかを説明しています。
- 三国同盟と三国協商:バルカンの危機が、ヨーロッパ全体の戦争へ広がった仕組みを整理しています。
- 軍国主義とは:軍備の拡張と戦争計画が、1914年7月の判断にどう影響したかを見ます。