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三国同盟と三国協商は、第一次世界大戦(第1次世界大戦)の前に、ヨーロッパの大国が二つの陣営に分かれていた時代の仕組みです。三国同盟は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアが1882年に結んだ防衛のための条約です。三国協商は、イギリス、フランス、ロシアの間で1894年から1907年にかけて結ばれた個別の協定の総称で、同盟のような一つの条約ではありません。
いちばんの違いは、約束の重さです。三国同盟では、加盟国の一つが攻撃されたときに他の国が助ける約束がありました。三国協商の中心は、植民地や勢力圏の対立を解決する協定で、英仏と英露の協定には軍事的な助け合いを義務づける条文がありませんでした。それでも1914年の危機では、両陣営の対立が大戦の大きな舞台となりました。全体の流れは第一次世界大戦の解説でまとめています。
両陣営はどのように生まれたのか
話は1871年のドイツ帝国の成立にさかのぼります。宰相オットー・フォン・ビスマルクは、統一を果たしたドイツを周辺国が警戒していることを理解していました。そこで、フランスを孤立させ、ドイツが二正面の戦争に巻き込まれないようにする外交を進めました。1879年にはドイツとオーストリア=ハンガリーが防衛の条約を結び、これが三国同盟の土台になりました。
ビスマルクはロシアとの関係も重視していました。1887年にはロシアと秘密の再保障条約を結び、片方が第三国と戦う場合にもう片方が中立を守る約束を交わしています。ところが、後継者たちはこの条約を更新せず、1890年に失効すると、ロシアは次第にフランスへ接近していきました。
イタリアは1882年にこの二国と手を組みました。きっかけの一つは、1881年にフランスがチュニジアへ軍を進めたことです。イタリアもチュニジアに関心を持っていたため、不満を抱きました。ただし、イタリアとオーストリアは、トレンティーノやトリエステをめぐって対立の種を抱えていました。そのため、同盟は最初から強い信頼で結ばれていたわけではありません。
一方、フランスは孤立を恐れてロシアに近づきました。1892年に軍事協約が結ばれ、1894年には露仏同盟が成立します。イギリスは19世紀の大半、どの陣営にも属さない「光栄ある孤立」を保ってきました。しかし20世紀初めになると、ドイツの海軍拡張やロシアとの対立などから、イギリスも既存の争いを解決する方向へ動きます。その結果、1904年に英仏協商、1907年に英露協商が結ばれました。1905年と1911年のモロッコ事件では、ドイツが英仏の結びつきを試すように動きましたが、両国の結びつきは崩れませんでした。当時のヨーロッパは、同盟や協商が幾重にも重なる外交の網の目でした。
三国同盟:防衛のための条約
三国同盟は1882年5月20日に結ばれました。その後、1887年、1891年、1902年、1912年にも更新されています。基本の約束は、加盟国が攻撃を受けたときに互いに支援することでした。ただし、どの国がどの相手に対してどこまで助けるのかは、組み合わせごとに取り決めが違っており、条約の文面をどう読むかは後に論争になりました。
ドイツにとって三国同盟は、オーストリアを味方につけ、ロシアとフランスに囲まれる不安を和らげる手段でした。オーストリアにとっては、バルカン半島での影響力を守るための支えでした。イタリアにとっては、大国としての地位を高める道であり、地中海や北アフリカへの関心と同盟の思惑が食い違うこともありました。
1902年には、イタリアがフランスとの間に秘密の了解を結ぶなど、同盟の外側でも各国が動いていました。三国同盟は、参加国が別の道を探せる、ゆるやかな枠組みでもあったのです。
- 加盟国:ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア
- 性質:防衛を目的とした条約
- 成立:1882年5月20日
三国協商とは何か
三国協商は、英仏露の三つの二国間の取り決めをまとめて呼ぶ言葉です。正式な一つの条約はありません。主な内容は次の通りです。
- 露仏同盟(1894年):ドイツとその同盟国に対抗するため、フランスとロシアが結んだ軍事同盟です。
- 英仏協商(1904年):エジプトとモロッコをめぐる植民地問題を解決した、イギリスとフランスの協定です。
- 英露協商(1907年):ペルシア、アフガニスタン、チベットでの勢力範囲を調整した、イギリスとロシアの協定です。
三国協商全体は、加盟国に自動的な参戦義務を課す仕組みではありませんでした。露仏同盟には軍事的な義務がありましたが、英仏協商と英露協商にはそのような条文がありません。イギリスは海軍どうしの協議を続けていたものの、フランスを守ると約束する条約には縛られていませんでした。そのため、三国協商は同盟というより協調の枠組みと考えたほうが正確です。
英仏協商の意味は大きいものでした。フランスはモロッコでの自由な行動を得る代わりに、エジプトでのイギリスの立場を認めました。英露協商によって、ペルシアやアフガニスタンをめぐるロシアとイギリスの対立も一部整理されました。名前に「三国」とついていますが、三か国がそろって署名した条約ではない点が、ふつうの同盟との大きな違いです。
1914年、両陣営はどう衝突したのか
1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボで暗殺されました。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに厳しい最後通牒を突きつけ、ドイツはその強硬な態度を支持します。セルビアの後ろ盾であるロシアは動員を始め、ドイツは8月1日にロシアへ、8月3日にフランスへ宣戦布告しました。
フランスは露仏同盟に基づいてロシアと連携し、ドイツとの戦争に備えていました。ドイツは西部でフランスを早く破る計画を用意しており、その計画には、ベルギーを通って進軍することが組み込まれていました。
イギリスは、ドイツ軍が中立国ベルギーに侵入したことをきっかけに、8月4日にドイツへ宣戦しました。ベルギーの中立は1839年の条約で保障されており、イギリスはその保障国の一つでした。イギリスの参戦は、英仏協商や英露協商から自動的に導かれたものではありません。この点も三国協商の特徴です。
イタリアは別の道を選びました。1914年8月2日、イタリアは中立を宣言します。三国同盟は防衛のための条約であり、オーストリアがセルビアに仕掛けた戦争は防衛には当たらない、というのが理由でした。その後、イタリアは両陣営と交渉を続け、1915年4月にイギリス、フランス、ロシアとロンドン秘密条約を結びます。戦後の領土を約束された見返りに参戦することを決めたのです。同年5月、イタリアは三国同盟を破棄する通告を行い、5月23日にオーストリア=ハンガリーへ宣戦布告しました。
その後、ドイツやオーストリア=ハンガリーは中央同盟国、英仏露などは連合国と呼ばれ、戦争は長期化しました。同盟と協商の対立は、そのまま戦争の枠組みになったのです。イタリアの参戦は南ヨーロッパの戦線を広げ、戦争をさらに大きくしました。
三国同盟と三国協商の違い:試験に出るポイント
試験では、両者の違いを三つの観点で整理すると答えやすくなります。
- 成立の時期:三国同盟は1882年、三国協商は1894年から1907年にかけて段階的に成立したこと。
- 性質:三国同盟は防衛のための条約、三国協商は個別の協定であること。
- 行動:イタリアは三国同盟の一員でありながら中立を選び、のちに協商側へ移ったこと。
よくある間違いは、イタリアが最後まで三国同盟に残っていたと書いてしまうことです。実際には1915年に離脱し、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告しています。また、「三国協商」は英語のTriple Ententeに当たる呼び名で、三か国が一つの条約書に署名したわけではない点にも注意しましょう。
「どちらが戦争を引き起こしたのか」という問いは、歴史家の間でも議論が続いています。同盟が国同士の対立を固定させ、各国の行動を縛ったという見方があります。一方で、軍拡競争や1914年7月の外交判断のほうが大きかったという見方もあります。解答では、両陣営の仕組みを説明したうえで、自分の判断の根拠を一つ挙げると説得力が出ます。
まとめると、三国同盟は条約による防衛の約束であり、三国協商は協定による協調の枠組みでした。この二つを区別できると、第一次世界大戦の開戦過程を説明しやすくなります。
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