5分でわかるゴ・ディン・ジエム
ゴ・ディン・ジエムは、ベトナム共和国、いわゆる南ベトナムの初代大統領です。世界史の教科書では「ゴ=ディン=ジエム」とも表記されます。1955年から1963年まで政権を率い、共産主義に反対する国家を建設しました。アメリカは冷戦のなかでその政権を支えました。
一方、ジエムは弟ゴ・ディン・ヌーら身内を重用し、反対派を厳しく取り締まりました。1963年に仏教徒の抗議が広がると、政権の対応への不満は軍やアメリカ政府にも及びます。同年11月、南ベトナム軍の将軍たちがクーデターを起こし、ジエムとヌーは拘束後に殺害されました。この人物を知ると、サイゴンと南部ベトナムの歴史が、植民地支配から冷戦へとつながって見えてきます。
植民地時代から大統領就任まで
ジエムは1901年、ベトナム中部のカトリックの家庭に生まれました。フランスの植民地支配下で官僚となり、1933年にはバオ・ダイ帝のもとで内相を務めます。しかし、ベトナム人の政治的な権限がフランスに制限されていることに不満を抱き、短期間で辞任しました。
ジエムはフランスの支配に反対すると同時に、ホー・チ・ミンらが率いる共産主義勢力にも反対しました。植民地からの独立を求める人々が、独立後の国家の形まで同じ考えだったわけではありません。ジエムの立場は、その違いを示しています。
1954年、ジエムは国外での生活を経て帰国し、バオ・ダイを元首とするベトナム国の首相となりました。この年、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗れ、第一次インドシナ戦争が終結します。ジュネーヴの取り決めによって、ベトナムは北緯17度線付近で軍事的に暫定分割されました。北ではホー・チ・ミンのベトナム民主共和国が、南ではベトナム国が統治しました。
ジュネーヴ会議の最終宣言は、1956年に全国選挙を行って統一することを想定していました。しかし南側は宣言を受け入れず、北で自由な選挙はできないと主張しました。アメリカも最終宣言には加わりませんでした。全国選挙は実施されず、南北の別々の体制が続くことになります。
ジエムは1955年、サイゴン周辺で武装した対抗勢力を退け、南での支配を固めました。同年の住民投票でバオ・ダイが退けられ、ジエムはベトナム共和国の成立を宣言して大統領に就任します。この投票には不正がありました。また、1955年の投票は、ジュネーヴで想定された南北を通じた1956年の選挙とは別のものです。
ジエム政権と家族の影響力
ジエム政権は、南ベトナムの独立を守り、共産主義の拡大を防ぐと訴えました。アメリカは冷戦の観点から南を重要な同盟相手と考え、経済面と軍事面で支援します。ただし、ジエム自身にもベトナムの将来についての考えがあり、アメリカの意向にいつも従っていたわけではありません。
政権の中心にいたのが弟のゴ・ディン・ヌーです。ヌーは政治組織や治安政策に強い影響力を持ち、大統領を支えました。ヌーの妻マダム・ヌーも政権を公に擁護し、国内外でよく知られる存在でした。ジエムは独身で、弟夫婦の目立つ役割は、家族に権力が集まっているという印象を強めました。
別の兄弟ゴ・ディン・トゥクはカトリックの大司教でした。ジエムにとって家族は信頼できる協力者でしたが、重要な判断が狭い範囲で行われることへの批判も生まれました。側近の意見が政権に届きやすい一方、外からの批判を受け止めにくい仕組みでもあったのです。
政府は反共を掲げ、共産主義者だけでなく、ほかの反対派や協力を疑われた人々も取り締まりました。政治的な競争が制限されるなか、不満は蓄積します。1960年には軍内部からクーデターが試みられましたが、失敗しました。同じ年には南ベトナム解放民族戦線が結成され、武装した反政府運動も広がっていきます。
南の反政府運動には、北の共産主義勢力との結びつきがありました。同時に、南の住民が抱えた不満も運動の背景にあります。北からの支援と南の政治・社会の問題を、両方見ておく必要があります。
農村政策と戦略村
反政府勢力との戦いが続くなか、政権は農村の住民を防御施設のある集落にまとめる「戦略村」政策を進めました。ねらいは、住民を武装勢力から守り、政府の行政やサービスを届けやすくすることです。ヌーが政策を推進し、アメリカも支援しました。
しかし、政策の受け止められ方は場所によって異なりました。住民が先祖代々の家や畑から離れるよう求められたり、建設のための労働や負担を強いられたりする場合がありました。役人への不信や強制的な進め方が重なると、守られるはずの人々が政府に反感を持つこともあります。
ここにジエム政権の難しさがあります。治安を守るには住民の協力が必要ですが、協力を得るには政策への納得や政府への信頼も欠かせません。軍事的な対策を増やすだけでは、政治的な支持を自動的に得られるわけではありませんでした。
仏教徒の抗議と1963年の危機
1963年5月、中部のフエで、仏教徒が釈迦の誕生日を祝う際の仏教旗の掲揚が制限されました。その直前には、トゥク大司教を祝う行事でカトリックの旗が掲げられていました。扱いの違いに抗議する人々に治安部隊が対応し、死者が出ます。
仏教徒たちは、旗を掲げる権利や宗教上の平等、逮捕や不当な扱いの停止などを求めました。抗議には僧侶だけでなく一般の信徒も参加しました。政権への批判があったからといって、運動全体を共産勢力の活動と見ることはできません。
6月11日、僧侶ティック・クアン・ドックはサイゴンで焼身による抗議を行い、亡くなりました。その姿は世界に伝えられ、南ベトナムの危機に国際的な注目が集まります。抗議の経過はティック・クアン・ドックと仏教徒危機でもたどれます。
政府と仏教徒側は6月16日に合意しましたが、その実施をめぐる対立は続きました。8月にはヌーと関係の深い部隊などが寺院を強制捜索し、多くの人を拘束します。マダム・ヌーの抗議に対する敵対的な発言も、家族への批判を強めました。
この危機では、信仰に関する不平等への訴えと、政府が市民の要求を公正に扱うかという政治上の問題が重なりました。学生や官僚、軍の将校にとっても、政権の対応は指導力を問う出来事となりました。
クーデターとジエムの暗殺
アメリカ政府内では、ジエムに改革を促して支え続けるべきか、別の指導者を探すべきかで意見が分かれました。寺院への強制捜索の後、アメリカ側は、ジエムがヌーを遠ざけない場合には別の指導部を考える姿勢を示します。米側の代表者はクーデターを検討する南ベトナム軍の将校たちと接触しました。
ただし、実際に政権打倒を決め、行動したのは南ベトナムの将軍たちです。1963年11月1日に軍が動き、ジエムとヌーは大統領官邸を離れました。翌11月2日、2人は拘束された後、軍の管理下で殺害されます。これがジエムの暗殺です。
ジエムの死後も南ベトナムの政治は安定せず、政権交代やクーデターが続きました。アメリカは南への関与を維持し、その後、戦争への直接的な軍事介入を拡大します。ジエム政権の崩壊は戦争の終わりではなく、国内政治とアメリカの政策が大きく動いた転機でした。共和国全体の流れは南ベトナムの歴史で確認できます。
世界史の試験に出るポイントと関連記事
年代を整理するときは、1954年のジュネーヴ会議と暫定分割、1955年のジエムの大統領就任、実現しなかった1956年の全国選挙を区別します。1955年の住民投票は南北統一のための全国選挙ではありません。1963年のクーデターはジエム政権を終わらせましたが、南ベトナムという国家自体は1975年まで続きました。
仏教徒の抗議は、宗教上の平等を求める運動であると同時に、政権への不満が表れた出来事として押さえます。アメリカの支援と南ベトナム国内の支持を区別すると、なぜ支援を受けた政権が倒れたのかも考えやすくなります。
南ベトナム:1955〜1975年では共和国の成立から終焉までを追えます。ティック・クアン・ドックと仏教徒危機は抗議運動の理解に役立ちます。サイゴンと南部ベトナムの歴史では、より長い地域の歩みを読めます。