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義和団事件はいつ起きたのか
義和団事件とは、1899年から1901年にかけて中国北部で起きた、外国勢力に対する武装蜂起です。蜂起した人々は中国語で「義和団」と呼ばれ、英語では「Boxers」と呼ばれます。義和団は中国人のキリスト教徒、外国人宣教師、鉄道を襲いました。1900年6月には清の宮廷が義和団を支持し、列強と対立する立場をとります。
事件の中心になったのは1900年です。1900年6月20日から8月14日までの55日間、北京の公使館区域では、外国の外交官や兵士、中国人キリスト教徒が籠城しました。8月14日、八カ国連合軍が北京に入り、包囲は解かれます。事件の区切りとなったのは、1901年9月7日に調印された北京議定書(辛丑和約)です。清は巨額の賠償金を支払うことになり、外国軍は北京から海への要地に駐屯できるようになりました。
要するに、義和団事件は、清の宮廷が加わった排外的な運動であり、外国軍によって鎮圧された事件です。この事件は、清朝と西洋列強:アヘン戦争から辛亥革命までというテーマの一部です。列強の中で日本が果たした役割も見ておくと、20世紀初めの中国の政治の流れがつかみやすくなります。
背景:義和団はなぜ広がったのか
1900年までに、欧米の列強は条約港や貿易の権利を中国で手に入れていました。宣教師は内陸で布教し、土地を買うこともできました。こうした特権は、第一次アヘン戦争(1839〜1842年)などの戦争のあとに結ばれた条約から生まれたものです。外国に対する不満は少しずつ積み重なり、特に農村で強まりました。農村では、教会が外国の力の象徴と見られることもあったのです。
義和団の多くは華北の農村出身の戦士で、赤い帯や鉢巻きを身につけ、主に槍や刀で武装していました。英語で「Boxers」と呼ばれたのは、拳法の練習をしていたことに由来します。運動は山東省から広がり、中国人のキリスト教徒や教会、鉄道線路を攻撃しました。
山東省では、地域の生活の苦しさが緊張を高め、人々は不満の矛先を探していました。1897年11月1日の夜から2日にかけて、山東省の巨野県で、ドイツ人宣教師2人が殺害される事件が起きます。ドイツは2週間ほどのちの11月14日に膠州湾を占領しました。多くの人々にとって、これは列強が中国を分割しようとしている証拠に見えました。

義和団のスローガンは「扶清滅洋」、つまり「清を助けて外国を滅ぼす」という意味でした。宮廷の立場は単純ではありません。最初は義和団を抑えようとしましたが、やがて支持に回ります。宮廷がどこまで運動を指示していたのか、それとも情勢に流されたのかについては、研究者の間で議論が続いています。事件の経済的・政治的な背景は、義和団事件の原因をくわしく見る記事で確かめられます。
1900年6月〜7月:シーモア派遣隊、大沽砲台、天津
八カ国連合軍は、オーストリア=ハンガリー、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、アメリカの8カ国の部隊からなります。その最初の動きは、北京の公使館を守る兵を送る救援でした。6月10日、イギリスの中将エドワード・シーモアが率いる約2,000人の水兵と海兵隊が、天津から鉄道で出発します。目的地は、約120キロメートル(75マイル)離れた北京の公使館警備隊でした。

進軍は最初から妨げられました。6月11日、日本の公使館書記官の杉山彬が、董福祥の配下の兵に殺害されます。董福祥の甘軍は、甘粛出身のムスリム兵を中心とする清軍の部隊です。6月18日、甘軍と義和団は廊坊でシーモアの遠征隊を攻撃し、鉄道が損傷したため前進は止まりました。シーモアは天津へ引き返す決断をします。遠征全体では、約62人が戦死し、約230人が負傷したとされます。生存者は6月26日に天津へ戻りました。シーモアが清軍の力を過小に見積もったという批判もあり、この失敗から、救援には大きな作戦が必要だと判断されます。
シーモアの部隊が鉄道を北へ進もうとしていたころ、連合軍は海からの道も押さえにかかりました。6月17日、数カ国の海軍の艦艇が、海河の河口を守る大沽砲台を攻撃します。攻撃に加わった連合軍は約900人で、砲台は同日未明に陥落しました。連合軍の死傷者は約172人です。清側の損害は分かっていません。

天津は、北京へ向かう鉄道と河川の要所で、連合軍はこれを押さえてから前進する必要がありました。7月13日から14日にかけて、連合軍は天津を攻撃します。攻撃に加わった連合軍は約6,900人で、ロシア軍が最も多く約2,500人を出しました。日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリーの部隊も戦闘に加わっています。連合軍の死傷者は、戦死約250人、負傷約500人です。清側の防衛には甘軍も加わっていました。天津が落ちると、連合軍は市街を占領し、そこを北京への前進の拠点としました。
1900年6月〜8月:北京の籠城
6月20日、ドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーが、清の外務機関である総理衙門へ向かう途中で、清の将校に殺害されました。同じ日に公使館区域の包囲が始まり、8月14日まで55日間続きます。公使館区域は、北京に置かれた各国の公使館がある一角です。包囲が始まると、ここは中にいる全員の避難所になりました。
公使館区域は狭く、人が密集していました。外国人は約880人で、民間人473人と、8カ国から集まった兵士と水兵約409人です。民間人には女性や子どもも含まれていました。中国人キリスト教徒も、約2,800〜3,500人が避難していたとされます。攻め手は清軍と義和団で、防衛側は限られた兵と物資で、建物や塀からなる即席の防御線を守らなければなりませんでした。
防衛を指揮したのは、イギリス公使のクロード・マクドナルドです。持ちこたえる力は、火力と同じくらい、粘り強さに頼るものでした。数週間にわたる籠城は、防御線を保ち、次々と来る攻撃を受け止められるかどうかにかかっていたのです。

日本からは、陸軍武官の柴五郎が、日本の部隊を率いて防衛に加わりました。北堂(北京のカトリック教会)は、公使館区域とは別の避難所でした。フランスとイタリアの兵の小部隊が守り、数千人の中国人カトリック信者も避難しました。
籠城による防衛側の被害は大きいものでした。防衛側の兵と水兵では、55人が戦死し、約135人が負傷したとされます。清側の損害は分かっていません。
6月21日、清の宮廷は勅令を出し、正規軍に義和団との協力を命じました。この勅令は、列強に対する事実上の宣戦とみなされることが多いものの、正式な宣戦布告ではありません。連合軍も正式な宣戦布告は出していません。それでも、地方の反乱は、列強との公然たる戦いへと広がっていきました。
一方で、南方の有力な地方長官である李鴻章、袁世凱、張之洞、劉坤一らは、勅令に従わず、自らの省を守るために互いに協定を結びました。そのため、戦いは主に北京と天津を中心とする北部で続きました。
八カ国連合軍の救援と宮廷の西安行き
連合軍の救援部隊は、8月4日ごろに天津から北京へ向けて進み始めました。総司令官はイギリス陸軍の将軍が務めます。部隊の兵力は約1万8,000〜2万2,000人と見積もられています。日本とロシアが最も多くの兵を出し、日本の兵力は約8,000〜1万人と見積もられています。
救援部隊は、8月5日に北倉で清軍と戦い、6日には楊村でも戦闘しました。8月12日には通州に達し、北京の手前まで迫ります。シーモアの遠征が北京に届かなかったことは、この救援が大きな作戦でなければならないことを示していました。大沽砲台と天津を押さえたことで、連合軍は海からの道と、北京へ向かう鉄道と河川の要所を手にしたのです。
8月14日、連合軍は北京の公使館区域に到達し、55日間の包囲が終わりました。城壁や門をめぐる戦闘は、14日と15日にかけて続きます。
8月15日の早朝、西太后と宮廷は北京を離れ、西安へ向かいました。連合軍が北京に入った翌日のことです。宮廷が北京に戻ったのは1902年1月で、約17か月の留守でした。その間、首都は外国軍の占領下に置かれ、講和の交渉も北京で行われます。
結末:北京議定書と賠償金
1901年9月7日、清と列強の代表は、北京のスペイン公使館で北京議定書(辛丑和約)に調印しました。清の側では李鴻章と慶親王が署名し、日本を含む11の列強も署名しています。日本の署名者は、外務大臣の小村寿太郎です。議定書は、清に事件の責任を負わせ、将来の排外的な動きを防ぐことを目的としていました。主な内容は次のとおりです。
- 賠償金:清は銀4億5,000万両を39年間で支払います。利息は年4%で、支払いは1940年末まで続きます。利息を含めた総額は約9億8,200万両です。
- 公使館区域:列強が排他的に使う地域とされ、清の人々は住めません。各国は守備兵を常駐させることができます。
- 駐屯の権利:北京から海に至る路線上の、黄村から山海関までの要地に、外国軍が駐屯できるようになります。
- 砲台と武器:海からの道を守っていた大沽砲台は取り壊されることになりました。武器の輸入も2年間禁じられています。
- 処罰:義和団を支持した官僚を処罰することが定められ、処刑を含みます。
賠償金は、各国の被害の請求に応じて割り当てられ、39年間にわたって国家の財政を長く圧迫する負担になりました。アメリカは、自国が受け取る分の一部を1908年に返還しました。その資金は中国人留学生の奨学金や清華大学の設立などに充てられています。残りは1924年に返還されました。
清と日本への影響
清にとって、議定書は重い打撃でした。宮廷は1900年に義和団を支持しましたが、その結果、外国軍が要地に駐屯し、賠償金が長く財政を縛ることになったのです。それでも、清は改革へ向かいます。1901年から、西太后の後ろ盾のもとで「新政」と呼ばれる改革が始まり、留学生を海外に送ることが進みました。1905年には、官僚を選ぶ伝統的な試験である科挙が廃止されます。清王朝はさらに約10年続き、1912年に滅びました。歴史家は、この講和が清朝の衰退を進めた一因だと考えることが多いです。
日本にとって、影響はより直接的でした。日本は救援部隊で大きな兵力を送り、天津の戦いで戦い、北京にも入りました。議定書では、列強が海への路線に兵を置く権利が認められ、日本も中国北部に駐屯軍を置きます。その部隊は1901年に清国駐屯軍として編成され、本部は天津に置かれました。1912年には支那駐屯軍と改められています。「支那駐屯軍」は、この時代の部隊の名称で、「支那」は当時の中国を指す呼び名です。今では使われない言葉なので、歴史の用語として覚えておくとよいでしょう。
ロシアは、事件のあとも満洲に兵を残しました。1902年1月には、日本とイギリスが日英同盟を結びます。日本とロシアの対立は、1904年からの日露戦争につながりました。日本にとって、1900年の出来事は、東アジアで列強の一員として振る舞うようになる流れの一歩となりました。
試験に出るポイント
試験で問われやすいのは、次の3つです。
- 原因:キリスト教会や外国の特権への反発と、山東省での不満。
- 清の宮廷:義和団を抑える立場から支持へ変わったこと。1900年6月21日の勅令。
- 連合軍と北京議定書:大沽砲台、天津の戦い、8月14日の救援、1901年9月7日の議定書。
日付は組み合わせて覚えると整理しやすくなります。包囲は1900年6月20日から8月14日まで、議定書の調印は1901年9月7日です。日本については、大きな兵力、杉山彬の殺害、小村寿太郎の署名を押さえておくと安心です。事件は、外国の武力介入と清朝の衰退を考えるうえでも役立つ題材です。
覚えておきたい言葉
- 義和団:華北の農村を中心に広がった運動です。「義和拳」とも書かれます。
- 公使館区域:北京に置かれた各国の公使館がある一角です。
- 北京議定書:1901年9月7日に、清と列強のあいだで結ばれた取り決めです。
- 支那駐屯軍:日本が中国北部に置いた駐屯軍の名称で、1912年から使われました。
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