アヘン戦争(第一次アヘン戦争、または第1次アヘン戦争)とは、1839年から1842年にかけて、イギリスと清(中国)が戦った戦争です。清の役人が広州近くの虎門(こもん)で、イギリス商人などが持つアヘンを処分したことが、戦いの大きなきっかけになりました。1842年8月29日に結ばれた南京条約で戦争は終わり、清は香港島をイギリスに譲り、五つの港を外国の貿易に開きました。

5分でわかる
イギリスは、中国との貿易を広げたいと考えていました。なかでも、中国では禁止されていたアヘンの取り引きを守りたい商人が多くいました。一方、清は、アヘンが国内に広がり、銀が大量に外へ流れ出ることを深刻に受け止めていました。そこで清は、アヘンの取り締まりを本格的に進めました。
1839年、林則徐は外国商人にアヘンを差し出させ、同年6月に虎門の海岸で処分しました。イギリスは、この処分で受けた損害の補償を求め、軍艦を送りました。イギリス軍は、ほとんどの大きな衝突で優位に立ち、1842年8月には、清の使節が南京に停泊したイギリス軍艦の上で条約に署名しました。
この戦争が「アヘン戦争」と呼ばれるのは、戦いの原因がアヘンの取り引きにあったからです。ただし、その背景には、貿易の自由と、清の外交のしくみをめぐる対立がありました。ここを押さえると、戦いの流れがすっきり理解できます。
アヘン戦争はいつ・どこで起きた?
戦争の始まりについては、1839年9月に九龍(きゅうりゅう)付近で起きた海上の衝突を挙げる説明があります。一方で、1840年6月に本格的なイギリスの遠征隊が出発したことから、1840年を始まりとする説明もあります。どちらを採るかは、資料によって異なります。終わりは、1842年8月29日の南京条約です。
戦場は、珠江(しゅこう)の河口、マカオ、香港島の周辺、アモイ(厦門)、舟山(しゅうざん)、寧波(ニンポー)、そして長江沿いの鎮江(ちんこう)と南京に広がりました。沿岸を北へ進み、長江をさかのぼったという流れを地図で確認すると、戦争全体の形がつかめます。
戦った国は、イギリスと清です。イギリス側は、海軍の艦隊や東インド会社の船に加え、イギリス陸軍とインド人兵士(セポイ)も参加しました。資料によると、イギリス側の総兵力は少なくとも1万9,000人とされています。清側の主力は、八旗(はっき)と緑営(りょくえい)と呼ばれる部隊でした。清側の総兵力は資料によって大きく異なり、約22万人という数字もあります。
戦争のきっかけは何か
争いの中心にはアヘン貿易がありました。清は1729年にはアヘンを制限する動きを見せ、1796年には取り引きを全面的に禁じる命令を出しました。それでも取り引きは続き、清では銀が流出することが心配されていました。貿易は主に広州(カントン)に限られており、イギリス商人は、より広い取り引きの場を求めていました。
両国の対立は、1830年代に強まりました。1834年、イギリスの貿易監督官だったネイピア卿は、清との対立のあと、同年10月にマカオで病死しました。1836年には、チャールズ・エリオットが監督官に就き、のちの衝突でイギリス側の中心になります。清との関係の全体像は、まとめページの清、日本と西洋(1793〜1912年)で確認できます。
1839年、道光帝は林則徐を広州に派遣し、アヘン貿易をやめさせるよう命じました。林則徐が広州に着いた時期は、資料によって違いがあります。林則徐は、イギリスのヴィクトリア女王にあてて、アヘン貿易をやめるよう求める手紙を書きました。その手紙は女王に届かなかったと考えられています。一説では、途中で失われたともいわれています。
イギリス本国でも、戦争の是非が議会で争われました。1840年1月末には、政府が不信任案を21票差でしのぎました。戦争が国内でも激しく議論されていたことがうかがえます。
1839年、虎門でのアヘン処分
1839年の春、林則徐は外国商人たちに、持っているアヘンを差し出すよう強く求めました。差し出された量は、資料によって数え方が違います。ある資料では約2万箱(チェスト)とされ、別の資料では約1,000〜1,400トンとされています。
林則徐は、差し出されたアヘンを、虎門の海岸で人々が見ている前で処分させました。作業は1839年6月3日に始まり、およそ23日間続き、6月25日ごろに終わったとされています。中国側の資料では、この処分は有害なものに対する強い姿勢を示した出来事として語られています。
イギリス商人にとって、この処分は大きな財産の損失でした。イギリス政府は補償を求め、その要求は戦争の大きな争点になりました。1842年の南京条約では、没収されたアヘンの代償として600万銀元が定められました。このことは、補償の問題がどのように決着したかを示しています。
最初の衝突(1839〜1840年)
戦いは九龍付近から始まりました。1839年7月には、九龍で中国人の男性、林維喜(リン・ウェイシー)が殺害され、緊張がさらに高まりました。同年9月4日には、九龍付近で海上の衝突が起きました。この衝突を戦争の始まりとする説明もあります。清の指揮官は勝利を主張しましたが、イギリス海軍のほうが戦力で上回っていたと見られています。
1839年11月3日には、イギリス船ロイヤル・サクソン号が広州をめざして進み、穿鼻(チュエンピー)付近で衝突が起きました。清の軍船4隻が破壊され、双方は引き揚げました。清の海軍は大勝利と報告しましたが、現在の説明では清の船は見劣りしていて、いくつかは使えなくなったとされています。
1840年6月、より大規模なイギリスの遠征隊が中国に向けて出発しました。イギリスは、清に自国の要求を受け入れさせることを目指しました。戦いは、やがてマカオにも広がります。一説によると、1840年8月6日、イギリス人の聖職者ヴィンセント・スタントンが、泳いでいたところを清の兵士に連れ去られ、マカオのイギリス人社会が大きく反発しました。
1840年8月19日、イギリス軍は、マカオと中国本土をつなぐ狭い地峡にあった「バリヤー(関門)」を攻撃し、勝利しました。この壁は1573年に築かれたもので、地峡は幅およそ100メートル、長さおよそ1.2キロメートルでした。イギリス軍は、王立海兵隊、水兵、ベンガル義勇兵からなる約380人でした。清側の守備は、資料によって約1,500〜2,000人と見積もられています。清の守備隊は敗れて後退しました。

1841年の穿鼻(チュエンピー)と香港島
1841年1月7日、イギリス軍は穿鼻の砲台を攻撃しました(第2次穿鼻の戦い)。蒸気船は約1,500人の上陸部隊を、砲台から約3キロメートル下流の地点まで運び、抵抗を受けずに上陸させました。部隊はトマス・プラット少佐が率いていました。上の砲台は午前10時ごろに陥落し、下の砲台は王立海兵隊が攻略しました。
同じ日、鉄製の外輪蒸気船ネメシス号は、アンソン湾で清の軍船の船団を攻撃しました。船団は約15隻で、指揮官は関天培(かんてんばい)提督でした。戦闘全体では11隻の軍船が破壊されたとされています。イギリス側の損害は、38人が負傷し、死者は報告されていません。清側の損害は資料によって大きく異なります。清の記録では277人が戦死、467人が負傷したとされる一方、イギリス側の海軍指揮官ブレマーは500〜600人の損害と見積もりました。
外交も急速に動きました。穿鼻条約(チュエンピー協定)は1841年1月20日に起草されましたが、両政府が批准することはありませんでした。1月26日には、海軍指揮官ブレマーが香港島を正式に占領し、イギリスの国旗(ユニオン・ジャック)を掲げました。エリオットは、同じ時期に香港島の割譲を要求していました。
1841年2月23日から26日にかけては、珠江の河口を守る虎門の砲台をめぐる戦いがありました。イギリス軍は残りの砲台を制圧し、勝利しました。同じ年、広州(カントン)は身代金600万銀元を支払うことに同意しました。この身代金は、資料によっては、のちの南京条約の賠償額に含めて数えられています。
アモイ・舟山から長江へ(1841〜1842年)
香港島を押さえたイギリス軍は、沿岸を北へ進みました。1841年8月にはアモイ(厦門)を占領し、ある資料では主な戦闘を8月26日としています。同年10月1日には、清が防備を固めていた舟山を再び奪いました。その後、鎮海(ちんかい)が10月に陥落し、寧波も続いて占領されました。寧波は、一説では抵抗を受けずに落ちたとされています。

1842年3月には、寧波の近くの慈渓で作戦が行われました。イギリスの作戦図には、この作戦が1842年3月15日の日付で記されています。同じ月、清の反撃もあったものの、撃退されたとする資料があります。
1842年7月、イギリス軍は長江と大運河が交わる要衝、鎮江(ちんこう)に到達しました。7月21日、ヒュー・ゴフ陸軍中将の指揮のもと、およそ6,900人のイギリス軍が城を攻撃しました。守備は、満洲人とモンゴル人の八旗の兵と、緑営の兵でした。守備側の人数は、資料によって約3,000〜4,300人とされています。イギリス側の損害は戦死37人、負傷128人です。清側の損害は、19世紀の資料で約1,000人の戦死・負傷と見積もられています。
城が陥落したあと、満洲人の守備兵の多くと家族が自ら命を絶ったと、当時の記録は伝えています。守備隊長の海齢(かいれい)も同じ道をたどったとされますが、資料の内容は一致していません。犠牲者の数ははっきりしていません。

南京条約(1842年)
南京条約は、1842年8月29日、南京の長江に停泊したイギリス軍艦コーンウォリス号の上で署名されました。イギリス側はヘンリー・ポッティンジャーが署名し、清側は耆英(きえい)と伊里布(いりふ)が署名しました。主な内容は次のとおりです。
- 香港島がイギリスに永久に割譲されました。
- 広州、厦門(アモイ)、福州、寧波、上海の五つの港が、イギリス商人に開かれました。
- 賠償金は3年間の分割払いで、総額は2,100万銀元と定められました。内訳は、アヘンの代償が600万銀元、商人の債務が300万銀元、戦費が1,200万銀元です。資料によっては、広州の身代金600万銀元を加えて2,700万銀元とする説明もあります。
- イギリス人には治外法権が認められました。イギリス人は、中国の法律ではなく、イギリスの法律で裁かれることになりました。
批准は、清の道光帝が1842年10月27日、ヴィクトリア女王が同年12月28日に行いました。批准書の交換は、1843年6月26日に香港で行われました。1843年には、補足の条約である虎門追加条約も結ばれましたが、主な資料では年だけが示されています。
戦争のあとに残ったもの
南京条約は、清が西洋諸国と結んだ「不平等条約」の最初のものとされることがあります。イギリスは香港島という拠点を持ち、港は外国に開かれました。清の外交と財政には、大きな負担がかかることになりました。
戦争の位置づけについては、歴史家の間で議論があります。多くの歴史家は、1839年を近代中国史の始まりと見ています。戦争によって清の軍事力の限界がはっきり示され、その後の条約の型がつくられたからです。
技術の差にも目を向けると、流れが理解しやすくなります。鉄製の蒸気船ネメシス号は、喫水が浅く、大型の軍艦が入れない河川でも活動できました。
試験に出るポイント
共通テストなどの世界史では、「いつ・どこで・だれが戦ったか」と、原因と結果を説明できるかが大切です。次の四つの点を押さえておくと、答案の骨組みが作れます。
- 原因:アヘン貿易、銀の流出、貿易のルールをめぐる対立。
- 経過:虎門での処分(1839年6月)、穿鼻の戦い(1841年1月)、鎮江の攻略(1842年7月)。
- 結果:南京条約(1842年8月29日)、香港島の割譲、五港の開港、賠償金。
- 意味:不平等条約の始まりとされること、清の軍事力の限界を示したこと。
答案では、結果がその後の中国にどう影響したかを一文で添えると、説得力が増します。
関連ページ
次のページも読むと、戦争の前後のつながりが見えてきます。
- アヘン戦争の原因:貿易と外交の対立が、1839年の衝突へどう結びついたかを追えます。
- 太平天国の乱(1850〜1864年):南京条約から8年後に始まった大きな反乱です。
- 義和団の乱(1899〜1901年):外国の影響に反発して起きた、のちの争いです。