クリミア戦争とは、1853年から1856年にかけて、主にロシアとオスマン帝国が戦った戦争です。1854年3月にはイギリスとフランスがオスマン帝国側に立ってロシアに宣戦し、1855年にはサルデーニャ王国も部隊を送りました。主な戦場は黒海北岸のクリミア半島で、戦争は1856年3月30日に結ばれたパリ条約によって終わりました。

5分でわかる:クリミア戦争とは
クリミア戦争は、衰えつつあったオスマン帝国の領土と、黒海の支配をめぐって起きた戦争です。ロシアは、バルカン半島や黒海での影響力を広げたいと考えていました。同時に、オスマン帝国内の正教徒を守るという立場を主張していました。これに対して、イギリスとフランスは、ロシアがオスマン帝国を犠牲にして力を伸ばすことを防ごうとしました。
戦いは、1853年のシノープ海戦や、クリミア半島への連合軍の上陸から始まりました。翌1854年には、アルマ、バラクラヴァ、インケルマンの三つの大きな戦いが続き、そのあと長期のセヴァストポリ包囲戦へと進みました。戦争で亡くなった人の多くは、戦闘ではなく病気などによるものでした。講和のためにパリで開かれた会議では黒海の中立化などが決まり、1856年3月30日にパリ条約が結ばれました。
誰と誰が戦ったのか
- ロシアとオスマン帝国:1853年10月にオスマン帝国がロシアに宣戦し、戦争が始まりました。史料によっては、開戦の時期を1853年10月16日とする説明もあります。
- イギリスとフランス:フランスが1854年3月27日、イギリスが3月28日にロシアへ宣戦しました。両国はオスマン帝国を支え、クリミアへ軍を送りました。
- サルデーニャ王国:1855年に部隊を送り出し、クリミアの戦いに加わりました。指揮を執ったのはアルフォンソ・ラ・マルモラ将軍です。
- オーストリアとプロイセン:直接の戦闘には加わりませんでしたが、パリでの講和会議に参加し、戦後の国際関係に影響を与えました。
原因:なぜ戦争になったのか
背景には、「東方問題」と呼ばれる長い課題がありました。これは、衰えつつあるオスマン帝国の領土をどう扱うかという問題です。この地域は黒海の出入口に近く、バルカン半島の支配にもつながっていました。ロシアは黒海と南方への影響力を広げたいと考え、イギリスとフランスは、オスマン帝国を残したまま、ロシアが強くなりすぎないことを望みました。ヨーロッパの大国が協力して平和を保つ「ヨーロッパ協調」(ウィーン体制のもとで続いた大国どうしの協調)が揺らぎ始めていたことも、背景にあります。
直接のきっかけになったのは、聖地管理権をめぐる争いです。当時オスマン帝国の支配下にあったエルサレムやベツレヘムでは、キリスト教の聖地の権利をめぐって、正教会とカトリックの修道士たちが対立していました。ロシアは正教徒を守る立場を主張し、フランスはカトリックの権利を支持しました。ただし、多くの歴史家は、これを戦争の口実にすぎないと見ています。
1853年7月、ロシア軍はオスマン帝国の支配下にあったモルダヴィアとワラキア(ドナウ公国)に進駐しました。オスマン帝国はこの占領を認めず、同じ年の10月に宣戦しました。このできごとは、ロシアが南方へ進出しようとした流れの中で見ると分かりやすくなります。くわしくはロシアの南下政策をご覧ください。戦争の舞台となった帝国の全体像はロシア帝国(1721〜1917年)の解説で確認できます。
戦いの流れ
シノープ海戦(1853年11月)
1853年11月30日(ロシアで使われていたユリウス暦では11月18日)、黒海沿岸のシノープ港に停泊していたオスマン艦隊を、ロシア艦隊が攻撃しました。ロシア艦隊を率いたのは、パーヴェル・ナヒーモフ提督です。オスマン艦隊はほぼ壊滅し、司令官のオスマン・パシャは捕虜になりました。
史料によって差はありますが、オスマン側の死者はおおむね2,700〜5,000人とされています。一方、ロシア側の戦死者は37人、負傷者は229人でした。この勝利は、ロシアの黒海での力を見せつけるものとして、イギリスやフランスに強い印象を与えました。両国がロシアに宣戦する流れを加速させた出来事とされています。
クリミアへの上陸とアルマの戦い(1854年9月)
連合軍は、1854年9月14日から、クリミア半島西岸のカラミタ湾に上陸を始めました。連合軍はイギリス軍、フランス軍、オスマン軍からなり、兵力はおよそ5万6,500〜6万人と推定されています。目標は、ロシア黒海艦隊の本拠地であるセヴァストポリでした。
9月20日、連合軍はアルマ川沿いでロシア軍と戦いました。ロシア軍の指揮はアレクサンドル・メンシコフ公爵が執り、兵力はおよそ3万5,000〜3万7,500人です。連合軍は勝利し、ロシア軍は退きました。連合軍の死傷者は約4,100人(イギリス約2,000人、フランス約1,600人、オスマン約500人)、ロシア軍は約5,000〜5,700人とされています。ただ、この勝利によってセヴァストポリがすぐに落ちたわけではなく、戦いはより長い包囲戦へと進んでいきました。

バラクラヴァの戦いと軽騎兵旅団の突撃(1854年10月25日)
10月25日、ロシア軍は、連合軍の補給港であるバラクラヴァ周辺のイギリス軍陣地を攻撃しました。その戦闘の中で、イギリス軍の軽騎兵旅団が、谷の奥にあるロシア軍の大砲陣地に向かって突撃しました。これが「軽騎兵旅団の突撃」です。突撃したのは約670人で、指揮はカーディガン伯爵が執りました。両側の高台からも砲撃を受けるなか、突撃は多くの犠牲を出しました。戦死者は約110〜120人、負傷者は約130〜160人とされ、多くの馬も失われました。
突撃の命令がどのように出され、どう伝わったのかについては、今も議論があります。また、アルフレッド・テニスンの詩によっても広く知られるようになりました。戦争の中で最も有名な場面のひとつですが、語り継がれるうちに誇張された部分もあるため、数字は史料に照らして読むことが大切です。

インケルマンの戦い(1854年11月5日)
11月5日、ロシア軍はインケルマンの高地周辺で連合軍を攻撃しましたが、退けられました。連合軍は約1万6,000人(イギリス軍約8,500人、フランス軍約7,500人)、ロシア軍は約3万5,000〜4万500人と推定されています。連合軍の死傷者は約4,400人、ロシア軍は約1万2,000人の死傷者を出したとされますが、数字は史料によって差があります。
セヴァストポリ包囲戦(1854年10月〜1855年9月)
セヴァストポリは黒海に面した港町で、ロシア黒海艦隊の本拠地でした。連合軍は1854年10月17日(ユリウス暦10月5日)から砲撃を始め、包囲戦はおよそ11か月続きました。ロシア側では、ナヒーモフ提督や、コルニーロフ提督が防衛を率いました。コルニーロフは、1854年10月の最初の砲撃の最中に戦死しました。ナヒーモフも、1855年に連合軍の狙撃を受けて亡くなりました。技師のエドゥアルド・トートレーベンは、陣地の強化に当たりました。
包囲戦の犠牲は、戦闘よりも病気によるものが大きかったとされています。セヴァストポリ包囲戦の数字によると、フランス軍は戦死者が約1万人、負傷や病気で亡くなった人が約7万人にのぼりました。イギリス軍は戦死者が約2,800人、負傷や病気による死者が約1万8,000人です。ロシア側の損害については、はっきりした合計が示されていません。
1855年9月8日、フランス軍は、市の防衛の要であったマラーホフ稜堡を攻め落としました。ロシア軍は翌9日、セヴァストポリの南側から撤退しました。この陥落は戦争そのものを終わらせたわけではありませんが、その後の講和に向けた流れを強めたとされています。

フローレンス・ナイチンゲールとスクタリの病院(1854年11月〜)
1854年11月初め、フローレンス・ナイチンゲールは、38人の女性ボランティアの看護師とともに、スクタリ(現在のイスタンブールのウスキュダル)に到着しました。彼女たちが働いたのは、セリミエ兵舎の病院です。病室は患者であふれ、物資も不足していました。
ナイチンゲールは、掃除や物資の管理、看護のやり方を見直し、死亡の記録を統計として整理しました。よく引用される「死亡率が42%から2%に下がった」という数字は、英国人名辞典でスティーヴン・ペイジが述べたものとして知られています。ただ、期間や計算方法がはっきりしないため、「そう伝えられている数字」として読むのが安全です。
サルデーニャ軍とチェルナヤ川の戦い(1855年)
サルデーニャ王国は、1855年4月にジェノヴァから約1万8,000人(1万8,061人とする記録があります)を乗せた船団を出しました。部隊は5月9日から14日にかけてバラクラヴァに上陸し、アルフォンソ・ラ・マルモラ将軍が指揮を執りました。
1855年8月16日、ロシア軍はチェルナヤ川沿いの連合軍陣地を攻撃しました。これがチェルナヤ川の戦いです。連合軍のうち、フランス軍とサルデーニャ軍をあわせておよそ3万6,000人が陣地を守りました。このうちサルデーニャ軍は約9,000人が戦い、約200人の損害を受けました。ロシア軍の攻撃は退けられ、この戦いへの参加は、サルデーニャがパリでの講和会議に出席する足がかりになりました。
パリ会議とパリ条約(1856年)
1856年2月末から3月にかけて、パリで講和会議が開かれました。7か国が参加し、3月30日にパリ条約が結ばれました。主な内容は次のとおりです。
- 黒海は中立化され、軍艦を置くことが禁じられました。海岸に軍事施設や武器を置くことも制限されました。
- ドナウ川の自由な航行を守るため、ヨーロッパの委員会が置かれました。
- ロシアは、オスマン帝国内のキリスト教徒を保護する立場(保護権)を放棄しました。また、南部ベッサラビアの一部を失い、その地はモルダヴィアに渡りました。
- モルダヴィアとワラキアは、名目上はオスマン帝国の支配下にとどまりましたが、独自の憲法と議会を持つことになりました。
- 列強は、オスマン帝国の独立と領土の保全を尊重することを約束しました。
この条約はロシアに多くの制限を課しました。一方で、戦争の直接の原因となった東方問題がすべて解決したわけではなく、この地域の不安定さは続いていきました。
戦争の意味
黒海の中立化。この戦争の最も分かりやすい結果は、黒海の扱いです。ロシアは黒海に軍艦を置けなくなり、軍事施設を作ることも制限されました。この制限は、1871年のロンドン条約で廃止されるまで続きました。
ヨーロッパ協調の揺らぎ。1815年以降、ヨーロッパの大国は協力して平和を保つ仕組みを持っていました。多くの歴史家は、クリミア戦争がこの仕組みを傷つけたと指摘します。オーストリアが戦争中に中立の立場をとったことで、ロシアはその態度に不満を持ったとされます。英仏もロシアを警戒し続けました。その結果、大国が一致して動くことは、その後むずかしくなったと考えられています。
戦争の犠牲と医療。戦争の犠牲は非常に大きいものでした。連合軍側の死者は約16万5,000人で、そのうち大部分は病気などによるものです。ロシアの死者は、史料によって45万人から63万人と推定され、数え方にも違いがあります。ナイチンゲールの活動は、戦地の衛生と病院の改善が人命を救うことを示した例として、今も取り上げられます。
写真による記録。写真家ロジャー・フェントンは、1855年3月から6月までクリミアに滞在し、350枚以上の使える大判のネガを残しました。戦争を記録した初期の写真のひとつです。露出に時間がかかるため、写真は静止した場面が中心になり、フェントンは死傷者の姿を写すことを避けました。
試験に出るポイント
大学入試の世界史では、クリミア戦争は「なぜ起きたか」「どことどこが戦ったか」「どんな結果になったか」を押さえるとよいテーマです。出題の形式は試験ごとに異なるため、志望校の過去問で確認してください。
- なぜ戦争になったか:東方問題、聖地管理権の争い、ロシアのドナウ公国への進駐の三つを結びつけて説明できるようにしましょう。
- どことどこが戦ったか:基本はロシア対オスマン帝国です。イギリスとフランスが1854年に加わり、サルデーニャ王国は1855年に参加したと押さえます。
- 結果と影響:パリ条約で黒海が中立化されたことは、必ず覚えておきたい内容です。ロシアの南方への進出が一時的に抑えられたとも説明できます。
- 論述のコツ:原因、事件、結果の三つに分けて書くと、答案がまとまりやすくなります。死者の数は「約」や範囲で示すと正確です。
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