アロー戦争(第二次アヘン戦争)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランスが戦った戦争です。広州でのアロー号事件をきっかけに始まり、連合軍は最後に北京の近くまで進みました。争点は、貿易の条件、外国の外交官を北京に常駐させられるかどうか、そしてアヘン貿易をどう扱うかでした。連合軍は円明園(旧離宮)を焼き払ったあと、1860年10月に北京条約を結ばせて戦いを終えました。この記事は清朝・日本と西洋のテーマの一部です。
5分でわかるアロー戦争
1856年、広州で「アロー号事件」が起き、イギリスが戦う口実を得ました。フランスも後から加わります。連合軍は広州を占領したあと北へ向かい、海河(白河)の河口を守る大沽砲台に迫りました。1858年の天津条約では、清が外国に大きく門戸を開くことになりましたが、清の朝廷は批准に消極的で、1859年には大沽砲台への攻撃が失敗に終わりました。翌1860年、連合軍は北京への道にある清軍を破り、円明園を焼き払い、北京条約を結ばせました。一隻の船をめぐる争いが、清の条約体制を揺るがす戦争へと発展しました。
戦争の原因:アロー号事件と広州の対立
1856年10月8日、広州の清の役人が、中国人が所有し香港籍を名乗るアロー号に乗り込み、中国人の乗組員14名のうち12名を拘束しました。清側は、船の登録が数日前に切れていたため拘束は合法だったと主張しています。しかしイギリス側は、これを国旗への侮辱とみなし、要求を強める口実にしました。
アロー号事件は戦争の引き金にすぎません。1842年の南京条約で第一次アヘン戦争は終わり、いくつかの港が開かれました。しかし貿易の多くは広州で行われ、外国の外交官が北京に住む権利は確かなものではありませんでした。イギリスは、北京への常駐の外交官、さらに多くの港、内地を自由に旅行できる権利、アヘン貿易の明確な取り決めを求めていました。清の朝廷は、こうした変更にほとんど応じる気がなく、両者の溝は1850年代半ばを通じて広がっていきました。
広州の総督であった葉名琛は、拘束された乗組員12名のうち9名を返還し、3名は手元に残しました。イギリスの要求には応じなかったため、イギリス海軍は10月下旬に広州を砲撃し、10月29日には城壁を破りました。砲撃の開始日は資料によって異なるため、本稿では10月下旬としています。
誰が戦ったのか
イギリスは、貿易の拡大、北京での外交官の常駐、条約の改定を求めて遠征を主導しました。1842年の条約では果たせなかった目標を、今回は軍事力で実現しようとしたのです。フランスは独自の不満を抱えており、イギリスの作戦に加わりました。清の朝廷にとっての最優先事項は、外国の外交官を北京に入れないことでした。しかも清は、国内で太平天国の乱という内戦を抱えており、資源を大きく消耗していました。
清側では二人の人物が特に重要でした。モンゴル出身の王族センゲリンチン(僧格林沁)は騎兵を率い、1859年の大沽砲台と1860年の八里橋で防衛を指揮しました。咸豊帝の弟である恭親王(奕訢)は、1860年の交渉を担当しました。連合軍側では、エルギン卿(ジェームズ・ブルース)が外交を担い、ホープ・グラント中将がイギリスの陸上部隊を、クーザン=モントーバン将軍がフランス軍を指揮しました。
なぜ戦争は長引いたのか
アロー号事件は戦争の始まりを説明しますが、戦争が1856年から1860年まで続いた理由までは説明しません。歴史家がよく挙げるのは、次の二つです。
一つ目は、条約の文面と実際の運用のずれです。1842年の南京条約のあとも、外国人は北京に住めず、貿易も主に広州に集中していました。清の朝廷にとって、外交官を北京に常駐させることは、統治の根幹に関わる問題でした。二つ目は、清が条約を結んでも批准を遅らせたことです。イギリスとフランスは、軍事力で首都に近づいてはじめて約束が守られると考えました。だからこそ、1858年の天津条約では戦争が終わらず、戦場は広州から大沽砲台へ、さらに北京へと移っていきました。
1857年:佛山水道の戦いと広州の陥落
1857年6月1日、シーモア提督(Rear-Admiral Sir Michael Seymour)の率いるイギリス海軍は、広州近くの佛山水道で清の軍船団を攻撃し、勝利しました。イギリス側の戦死者は13名、負傷者は44名です。清側は砦1つと砲25門を奪われ、軍船70〜80隻を拿捕されました。この勝利によって、広州への道が開かれました。
ある資料によると、6,000人に満たない兵力で広州を占領し、占領は1858年1月1日とされています。ただし、広州を押さえても戦争は終わりませんでした。イギリスとフランスが求めていたのは、北京に外交官を置くことを清に認めさせることであり、広州は北京から遠すぎました。そこで連合軍は北へ進み、大沽砲台に向かいました。
1858年:大沽砲台の攻略と天津条約
大沽砲台は、海河の河口を守り、天津と北京へつながる水路を押さえる要所でした。連合軍は1858年5月20日にこの砲台を攻め落とし、清は交渉に応じました。6月26日、エルギン卿が天津でイギリスとの条約に署名しました。ロシア、アメリカ、フランスとの条約も、同じ6月のうちに成立しています。
天津条約によって、外国の公使が北京に常駐できるようになりました。開港場は十ほど増え(資料によって数え方が異なります)、外国の船が長江を航行することや、外国人がパスポートを持って内地を旅行することも認められました。清は、キリスト教を有害な迷信として扱うことを禁じられています。賠償金は合計600万両で、イギリスに400万両、フランスに200万両が割り当てられました。イギリスの400万両のうち200万両は軍費、200万両は商人への補償とされています。改定された関税によって、アヘンの輸入は事実上合法となりました。
清の朝廷は、これらの条約を批准することに消極的でした。1859年、イギリスの使節が批准書を持って北京へ向かおうとした際、その進路をふさいだのが大沽砲台です。この行き詰まりが、翌年の戦いへと直接つながりました。
1859年:大沽砲台での失敗
1859年6月25日、ジェームズ・ホープ提督は艦隊を海河へ進め、大沽砲台を突破しようとしました。しかし、清軍の激しい砲火と川の泥に阻まれ、多くの砲艦が動けなくなり、いくつかは沈められました。攻撃は失敗に終わりました。
イギリス軍の上陸兵力は約1,160人で、砲艦11隻と蒸気船4隻が加わっていました。清軍は約4,000人の兵と60門の火砲を、六つの砲台に配置しており、指揮したのはセンゲリンチンです。イギリス軍の死傷者については、歴史家によって推定が大きく異なります。戦死者は約81〜519人、負傷者は約345〜456人とする見方があり、死傷者を合わせると、およそ430人から1,000人近くまでの幅になります。フランス軍の被害は、戦死12名、負傷23名とされています。
アメリカの海軍代将タットナルは、アメリカが中立の立場にあったにもかかわらず、ボートを戦闘に曳航してイギリス軍を助けました。これは中立違反ではないかという指摘があります。清にとっては勝利でしたが、問題が解決したわけではありません。イギリスは、1860年に向けてより大きな遠征軍の準備を始めました。
1860年:北塘上陸から大沽砲台の陥落へ
1860年の遠征は、前年と同じ河口からではなく、大沽砲台の北約16キロメートルの北塘に上陸するところから始まりました。上陸は7月末から8月初めにかけて行われ、資料によって日付が異なります。ある資料では、8月7日までに全軍が上陸したとされています。連合軍の兵力は、イギリス軍約1万1,000人(騎兵約1,000人を含む)とフランス軍約6,700人です。
北塘から上陸したことで、連合軍は河口の正面を避け、砲台を背後から攻める形になりました。

1860年8月21日、連合軍は大沽砲台の攻撃に踏み切りました。守備側は約7,000人(騎兵約2,000人を含む)で、45門以上の火砲を持っていたとされます。連合軍の損害は、イギリス軍201名、フランス軍158名でした。この日の戦いでは、44連隊と67連隊の兵士に、ヴィクトリア十字章が7件授与されています。
大沽砲台を落とした連合軍は、天津を経て北京への道をたどりました。その途中には清軍が待ち構えていました。


張家湾と八里橋の戦い(1860年9月)
9月18日の朝、通州の東にある張家湾で、イギリス騎兵がモンゴル騎兵との戦いに勝ちました。イギリスのキングズ・ドラグーン・ガーズは、サイヤーズ中佐の指揮で清の騎兵に突撃したと伝えられています。ただし、戦闘の日付は18日とされるものの、突撃そのものは20日か21日とする英国側の記録もあり、日付には注意が必要です。
八里橋(英語名はパリコー、またはエイト・マイル・ブリッジ)は、北京へ向かう道にかかる橋です。9月21日、清軍はここでセンゲリンチンのモンゴル騎兵を含む部隊を配置し、連合軍を迎え撃ちました。連合軍は約1万人、清軍は2万〜5万人と見積もられており、兵力の数字は資料によって幅があります。連合軍の騎兵は左翼から攻め込み、清軍を二つの橋の向こうへ押し戻しました。清軍の陣形は崩れ、北京への道が開かれました。
イギリス軍はホープ・グラント中将が、フランス軍はクーザン=モントーバン将軍が指揮しました。連合軍の損害は軽く、イギリス軍は戦死2名・負傷29名、フランス軍は戦死3名・負傷18名でした。清軍の損害は約1,200人とされていますが、この戦いの数字は確かとは言えません。クーザン=モントーバンは、この勝利によりパリコー伯の称号を与えられました。
八里橋の戦いが重要なのは、北京へ向かう道を実際に開いたからです。清軍の騎兵が崩れたことで、連合軍は首都の城壁の前まで進むことができました。
円明園の焼き払い(1860年10月)
9月18日には、交渉に来ていたイギリスの外交官ハリー・パークスらの一行が清側に拘束されました。拘束された人々の多くは監禁中に亡くなり、生存者は10月8日に解放されました。エルギン卿はこの扱いに対して報復が必要だと判断し、交渉よりも罰を選びました。イギリス陸軍省の略図には、10月11〜12日に北京城の城壁を破る準備も示されています。

10月上旬、連合軍は円明園(旧離宮)に入り、数日にわたって財宝や美術品を略奪しました。フランス軍が10月6日ごろに入り、イギリス軍が翌日に続いたとされます。略奪には両軍の兵士が加わりました。10月18日、イギリス軍はエルギン卿の命令で離宮に火を放ちました。フランス軍は焼き払いへの協力を断っています。火は2〜3日燃え続け、宮殿は廃墟となりました。
この出来事は、皇室の離宮が失われた出来事として、後に屈辱の記憶と結びつけて語られてきました。今日の中国でも、円明園は列強による侵略の記憶と結びつけて語られることがあります。交渉の結果と同じくらい、この出来事がどう記憶されてきたかも押さえておくとよいでしょう。
北京条約(1860年10月24日・25日)
1860年10月24日、恭親王(奕訢)はエルギン卿との間で北京条約に署名しました。フランスとの条約は翌25日に結ばれたとされますが、両方を24日とする資料もあります。北京条約は天津条約の内容を確認し、新たな条項を加えました。九龍半島の界限街より南の部分がイギリスに永久割譲され、英仏それぞれへの賠償金は800万両に引き上げられました。
フランスとの条約では、キリスト教徒から没収された教会や慈善施設の財産を返還することも定められました。同じ年の11月14日には、清とロシアの別の条約によって、ウスリー川の東の沿海地方がロシアに割譲されています。
戦争のその後
戦争の後、外国の公使が北京に常駐するようになり、外国との貿易も一つの港に限られなくなりました。清は1861年に、外交を担当する役所として総理各国事務衙門を設けています。アヘン貿易は事実上合法となり、1842年に始まった条約の仕組みは、より多くの国と港に広がりました。
センゲリンチンは、この戦争の後も清のために戦い続けました。1865年5月18日、山東省の菏沢付近で、宿を襲った捻軍の攻撃を受け、命を落としました。八里橋で清の騎兵を率いた指揮官の経歴は、ここで終わります。
アロー戦争と第二次アヘン戦争の違い
両者は同じ戦争を指す二つの呼び名です。「アロー戦争」は、戦争のきっかけになった1856年のアロー号事件にちなんだ名前です。「第二次アヘン戦争」は、1839〜1842年の第一次アヘン戦争に続く戦争という位置づけで、アヘン貿易をめぐる対立を重視した呼び方です。参考書によっては両方の名称が並べて使われているため、どちらも覚えておくと役立ちます。
試験に出るポイント
入試では、戦争の原因と結果を年代とセットで問われることがあります。単に出来事の順番を覚えるのではなく、なぜこの戦争が重要だったのかを説明できるようにしておくと、答案が書きやすくなります。次の4点を押さえてください。
- 原因:アロー号事件、広州での貿易制限、外交官の北京駐在をめぐる対立。
- 経過:天津条約(1858年)、大沽砲台での敗北(1859年)、八里橋の戦いと北京への進軍(1860年)。
- 結果:北京条約(1860年)、九龍半島の一部割譲、アヘン貿易の事実上の合法化。
- 比較:南京条約(1842年)で開かれた範囲と、天津条約・北京条約で広がった範囲の違い。
天津条約(1858年)と北京条約(1860年)は、年代と内容を分けて覚えると混同しにくくなります。共通テストでも、条約名と内容を組み合わせる形で問われることがあります。
次に読む記事
- 南京条約(1842年):第一次アヘン戦争を終わらせた条約です。今回の天津条約と比べると、条約の変化がよくわかります。
- 不平等条約:清が結んだ条約に共通する仕組みを整理した記事です。
- 第一次アヘン戦争(1839〜1842年):この戦争の前史にあたります。