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アロー戦争(第二次アヘン戦争)

10月 30, 2026
アロー戦争(第二次アヘン戦争)は、1856年から1860年にかけて清とイギリス・フランスが戦った戦争です。天津条約と北京条約によって、清は港の追加開港、北京への外交官の常駐、九龍半島の一部割譲などを受け入れました。

シリーズ: 清朝と西洋列強:アヘン戦争から辛亥革命まで

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4:38

アロー戦争(第二次アヘン戦争)

基本データ

いつ
1856〜1860年
どこ
広州、大沽砲台、天津、北京近郊
だれ
イギリス・フランス対清朝
きっかけ
アロー号事件(1856年10月8日)
主な条約
天津条約(1858年6月26日)、北京条約(1860年10月24〜25日)
結果
港の追加開港、北京への公使常駐、アヘン貿易の事実上の合法化、九龍半島の一部割譲
別名
アロー戦争

年表

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  1. 1856年10月8日

    広州で清の役人がアロー号に乗り込む

    アロー号は中国人が所有し、香港籍を名乗る船でした。清の役人は乗組員14名のうち12名を拘束しました。清側は登録期限が切れていたため拘束は合法だと主張しましたが、イギリスはこれを侮辱とみなしました。

  2. 1856年10月下旬

    イギリス海軍が広州を砲撃

    イギリス海軍は10月下旬に広州を砲撃し、29日には城壁を破りました。総督の葉名琛は乗組員9名を返し、3名は残してイギリスの要求を退けました。砲撃の開始日は資料によって異なります。

  3. 1857年6月1日

    佛山水道で清の軍船団が敗れる

    イギリス海軍のシーモア提督が、佛山水道で清の軍船団を攻撃し、勝利しました。イギリス側は戦死13名、負傷44名で、清側は砲25門と軍船70〜80隻を失いました。この勝利で広州への道が開けました。

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  4. 1857年12月〜1858年1月1日

    連合軍が広州を占領

    連合軍は広州を攻め、1858年1月1日に占領しました。ある資料によれば、占領した兵力は6,000人に満たなかったとされています。広州は次の段階への拠点となりましたが、清の朝廷は外交官の北京駐在を認めませんでした。

  5. 1858年5月20日

    イギリス軍が大沽砲台を攻め落とす

    連合軍は海河の河口を守る大沽砲台を攻め落とし、天津への道を開きました。清の朝廷はこのあと交渉に応じました。後の講和で、砲台は清に返されています。

  6. 1858年6月26日

    天津条約がイギリスとの間で署名される

    天津条約の調印を描いた『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の版画。フアシャナ、エルギン卿、クイリャンが描かれている。
    Illustrated London News [ 1 ], public domain, via Wikimedia Commons

    エルギン卿は6月26日、天津でイギリスとの条約に署名しました。ロシア、アメリカ、フランスも6月中に条約を結んでいます。条約により、外国の公使が北京に住むこと、十ほどの港の追加開港、パスポートによる内地旅行が認められました。

  7. 1859年6月25日

    大沽砲台への二度目の攻撃が失敗する

    ジェームズ・ホープ提督が艦隊を海河へ進めましたが、清軍の砲火と川の泥に阻まれ、多くの砲艦が動けなくなりました。イギリス軍の死傷者は、戦死約81〜519名、負傷約345〜456名と資料によって大きく異なります。

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  8. 1860年7月末〜8月初め

    連合軍が北塘に上陸

    英仏軍は、大沽砲台の北約16キロメートルの北塘に上陸し、前年に失敗した河口からの攻撃を避けました。上陸の開始日は資料によって少しずつ異なります。ある資料では、8月7日までに全軍が上陸したとされています。

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  9. 1860年8月21日

    連合軍が大沽砲台を陥落させる

    1860年8月、英仏軍が攻め落としたあとの大沽砲台の一つを写したフェリーチェ・ベアトの写真。
    Felice Beato, public domain, via Wikimedia Commons

    連合軍は大沽砲台の主要な北砲台を攻撃し、ほかの砲台もまもなく陥落または降伏しました。守備側は約7,000人と見積もられています。連合軍の損害は、イギリス軍201名、フランス軍158名で、この日の戦いに対してヴィクトリア十字章が7件授与されました。

  10. 1860年9月18日

    交渉の一行が清側に拘束される

    イギリスのハリー・パークスらの交渉の一行が、清側に拘束されました。拘束された人々の多くは監禁中に亡くなり、生存者は10月8日に解放されました。この扱いが、後の円明園の焼き払いの理由になりました。

  11. 1860年9月21日

    八里橋の戦いで清軍が崩れる

    フェリーチェ・ベアトが撮影した八里橋(Pa-li-k'um)の橋。清軍との戦いの舞台となった場所。
    Felice Beato, public domain, via Wikimedia Commons

    連合軍は、北京へ向かう道の八里橋で清軍と戦いました。センゲリンチンのモンゴル騎兵を含む清軍の陣形が崩れ、北京への道が開かれました。連合軍の損害は軽く、清軍の損害は約1,200人とされますが、数字は確かではありません。

  12. 1860年10月上旬

    連合軍が円明園で略奪を行う

    フランス軍が10月6日ごろ円明園に入り、イギリス軍が翌日に続きました。数日にわたって財宝や美術品が略奪され、略奪には両軍の兵士が加わったとされています。この略奪は、エルギン卿が焼き払いを命じる前に行われました。

  13. 1860年10月18日

    エルギン卿が円明園の焼き払いを命じる

    1860年10月18日に焼き払われる前の、北京の円明園(離宮)を写したフェリーチェ・ベアトの写真。
    Felice Beato, CC0, via Wikimedia Commons

    イギリス軍は、エルギン卿の命令で、拘束された使節団への扱いに対する報復として円明園に火を放ちました。フランス軍は焼き払いへの協力を断っています。火は2〜3日燃え続け、宮殿は廃墟になりました。写真は焼き払いの前の宮殿を撮ったものです。

  14. 1860年10月24日

    北京条約が署名される

    恭親王がエルギン卿との間で10月24日に北京条約に署名し、フランスとの条約は翌25日に結ばれたとされます。九龍半島の界限街より南の部分がイギリスに永久割譲され、英仏それぞれへの賠償金は800万両に引き上げられました。

  15. 1865年5月18日

    センゲリンチンが山東省で戦死する

    センゲリンチンは、山東省の菏沢付近で捻軍に襲われ、命を落としました。八里橋で清軍の騎兵を率いた指揮官の経歴は、ここで終わりました。

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地図

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  • 1860年の北京への行軍を示す19世紀の地図。沿岸のペイタンから北京までの連合軍の進路と、ペイタン・タクー砲台周辺の連合軍の配置を示す。

    1860年の北京への行軍。ペイタンとタクー砲台周辺の連合軍の配置を示す。H. B. Loch の1869年刊の記録より。

    H. B. Loch, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1860年8月1日から21日まで、タクー砲台周辺で行われた連合軍の作戦を示す略図。

    1860年8月1〜21日、タクー砲台周辺の連合軍の作戦。

    Allgood, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1860年にペイタンとタクーから天津、北京へ向かう経路を示す地図。ペイタンとタクー砲台周辺の連合軍の配置を示す二つ目の図付き。

    1860年、海岸から天津と北京に至る連合軍の進路。

    Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1860年10月11〜12日、天壇付近で北京城の城壁を破るための準備を示すイギリス陸軍省の略図。

    北京城の城壁を破る準備、1860年10月11〜12日。イギリス陸軍省の地形部が石版で作成。

    Great Britain. War Office. Topographical Department, public domain, via Wikimedia Commons

アロー戦争(第二次アヘン戦争)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランスが戦った戦争です。広州でのアロー号事件をきっかけに始まり、連合軍は最後に北京の近くまで進みました。争点は、貿易の条件、外国の外交官を北京に常駐させられるかどうか、そしてアヘン貿易をどう扱うかでした。連合軍は円明園(旧離宮)を焼き払ったあと、1860年10月に北京条約を結ばせて戦いを終えました。この記事は清朝・日本と西洋のテーマの一部です。

5分でわかるアロー戦争

1856年、広州で「アロー号事件」が起き、イギリスが戦う口実を得ました。フランスも後から加わります。連合軍は広州を占領したあと北へ向かい、海河(白河)の河口を守る大沽砲台に迫りました。1858年の天津条約では、清が外国に大きく門戸を開くことになりましたが、清の朝廷は批准に消極的で、1859年には大沽砲台への攻撃が失敗に終わりました。翌1860年、連合軍は北京への道にある清軍を破り、円明園を焼き払い、北京条約を結ばせました。一隻の船をめぐる争いが、清の条約体制を揺るがす戦争へと発展しました。

戦争の原因:アロー号事件と広州の対立

1856年10月8日、広州の清の役人が、中国人が所有し香港籍を名乗るアロー号に乗り込み、中国人の乗組員14名のうち12名を拘束しました。清側は、船の登録が数日前に切れていたため拘束は合法だったと主張しています。しかしイギリス側は、これを国旗への侮辱とみなし、要求を強める口実にしました。

アロー号事件は戦争の引き金にすぎません。1842年の南京条約で第一次アヘン戦争は終わり、いくつかの港が開かれました。しかし貿易の多くは広州で行われ、外国の外交官が北京に住む権利は確かなものではありませんでした。イギリスは、北京への常駐の外交官、さらに多くの港、内地を自由に旅行できる権利、アヘン貿易の明確な取り決めを求めていました。清の朝廷は、こうした変更にほとんど応じる気がなく、両者の溝は1850年代半ばを通じて広がっていきました。

広州の総督であった葉名琛は、拘束された乗組員12名のうち9名を返還し、3名は手元に残しました。イギリスの要求には応じなかったため、イギリス海軍は10月下旬に広州を砲撃し、10月29日には城壁を破りました。砲撃の開始日は資料によって異なるため、本稿では10月下旬としています。

誰が戦ったのか

イギリスは、貿易の拡大、北京での外交官の常駐、条約の改定を求めて遠征を主導しました。1842年の条約では果たせなかった目標を、今回は軍事力で実現しようとしたのです。フランスは独自の不満を抱えており、イギリスの作戦に加わりました。清の朝廷にとっての最優先事項は、外国の外交官を北京に入れないことでした。しかも清は、国内で太平天国の乱という内戦を抱えており、資源を大きく消耗していました。

清側では二人の人物が特に重要でした。モンゴル出身の王族センゲリンチン(僧格林沁)は騎兵を率い、1859年の大沽砲台と1860年の八里橋で防衛を指揮しました。咸豊帝の弟である恭親王(奕訢)は、1860年の交渉を担当しました。連合軍側では、エルギン卿(ジェームズ・ブルース)が外交を担い、ホープ・グラント中将がイギリスの陸上部隊を、クーザン=モントーバン将軍がフランス軍を指揮しました。

なぜ戦争は長引いたのか

アロー号事件は戦争の始まりを説明しますが、戦争が1856年から1860年まで続いた理由までは説明しません。歴史家がよく挙げるのは、次の二つです。

一つ目は、条約の文面と実際の運用のずれです。1842年の南京条約のあとも、外国人は北京に住めず、貿易も主に広州に集中していました。清の朝廷にとって、外交官を北京に常駐させることは、統治の根幹に関わる問題でした。二つ目は、清が条約を結んでも批准を遅らせたことです。イギリスとフランスは、軍事力で首都に近づいてはじめて約束が守られると考えました。だからこそ、1858年の天津条約では戦争が終わらず、戦場は広州から大沽砲台へ、さらに北京へと移っていきました。

1857年:佛山水道の戦いと広州の陥落

1857年6月1日、シーモア提督(Rear-Admiral Sir Michael Seymour)の率いるイギリス海軍は、広州近くの佛山水道で清の軍船団を攻撃し、勝利しました。イギリス側の戦死者は13名、負傷者は44名です。清側は砦1つと砲25門を奪われ、軍船70〜80隻を拿捕されました。この勝利によって、広州への道が開かれました。

ある資料によると、6,000人に満たない兵力で広州を占領し、占領は1858年1月1日とされています。ただし、広州を押さえても戦争は終わりませんでした。イギリスとフランスが求めていたのは、北京に外交官を置くことを清に認めさせることであり、広州は北京から遠すぎました。そこで連合軍は北へ進み、大沽砲台に向かいました。

1858年:大沽砲台の攻略と天津条約

大沽砲台は、海河の河口を守り、天津と北京へつながる水路を押さえる要所でした。連合軍は1858年5月20日にこの砲台を攻め落とし、清は交渉に応じました。6月26日、エルギン卿が天津でイギリスとの条約に署名しました。ロシア、アメリカ、フランスとの条約も、同じ6月のうちに成立しています。

天津条約によって、外国の公使が北京に常駐できるようになりました。開港場は十ほど増え(資料によって数え方が異なります)、外国の船が長江を航行することや、外国人がパスポートを持って内地を旅行することも認められました。清は、キリスト教を有害な迷信として扱うことを禁じられています。賠償金は合計600万両で、イギリスに400万両、フランスに200万両が割り当てられました。イギリスの400万両のうち200万両は軍費、200万両は商人への補償とされています。改定された関税によって、アヘンの輸入は事実上合法となりました。

清の朝廷は、これらの条約を批准することに消極的でした。1859年、イギリスの使節が批准書を持って北京へ向かおうとした際、その進路をふさいだのが大沽砲台です。この行き詰まりが、翌年の戦いへと直接つながりました。

1859年:大沽砲台での失敗

1859年6月25日、ジェームズ・ホープ提督は艦隊を海河へ進め、大沽砲台を突破しようとしました。しかし、清軍の激しい砲火と川の泥に阻まれ、多くの砲艦が動けなくなり、いくつかは沈められました。攻撃は失敗に終わりました。

イギリス軍の上陸兵力は約1,160人で、砲艦11隻と蒸気船4隻が加わっていました。清軍は約4,000人の兵と60門の火砲を、六つの砲台に配置しており、指揮したのはセンゲリンチンです。イギリス軍の死傷者については、歴史家によって推定が大きく異なります。戦死者は約81〜519人、負傷者は約345〜456人とする見方があり、死傷者を合わせると、およそ430人から1,000人近くまでの幅になります。フランス軍の被害は、戦死12名、負傷23名とされています。

アメリカの海軍代将タットナルは、アメリカが中立の立場にあったにもかかわらず、ボートを戦闘に曳航してイギリス軍を助けました。これは中立違反ではないかという指摘があります。清にとっては勝利でしたが、問題が解決したわけではありません。イギリスは、1860年に向けてより大きな遠征軍の準備を始めました。

1860年:北塘上陸から大沽砲台の陥落へ

1860年の遠征は、前年と同じ河口からではなく、大沽砲台の北約16キロメートルの北塘に上陸するところから始まりました。上陸は7月末から8月初めにかけて行われ、資料によって日付が異なります。ある資料では、8月7日までに全軍が上陸したとされています。連合軍の兵力は、イギリス軍約1万1,000人(騎兵約1,000人を含む)とフランス軍約6,700人です。

北塘から上陸したことで、連合軍は河口の正面を避け、砲台を背後から攻める形になりました。

1860年8月1日から21日まで、タクー砲台周辺で行われた連合軍の作戦を示す略図。
1860年8月1〜21日、タクー砲台周辺の連合軍の作戦。Allgood, public domain, via Wikimedia Commons

1860年8月21日、連合軍は大沽砲台の攻撃に踏み切りました。守備側は約7,000人(騎兵約2,000人を含む)で、45門以上の火砲を持っていたとされます。連合軍の損害は、イギリス軍201名、フランス軍158名でした。この日の戦いでは、44連隊と67連隊の兵士に、ヴィクトリア十字章が7件授与されています。

大沽砲台を落とした連合軍は、天津を経て北京への道をたどりました。その途中には清軍が待ち構えていました。

1860年の北京への行軍を示す19世紀の地図。沿岸のペイタンから北京までの連合軍の進路と、ペイタン・タクー砲台周辺の連合軍の配置を示す。
1860年の北京への行軍。ペイタンとタクー砲台周辺の連合軍の配置を示す。H. B. Loch の1869年刊の記録より。H. B. Loch, public domain, via Wikimedia Commons
1860年にペイタンとタクーから天津、北京へ向かう経路を示す地図。ペイタンとタクー砲台周辺の連合軍の配置を示す二つ目の図付き。
1860年、海岸から天津と北京に至る連合軍の進路。Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

張家湾と八里橋の戦い(1860年9月)

9月18日の朝、通州の東にある張家湾で、イギリス騎兵がモンゴル騎兵との戦いに勝ちました。イギリスのキングズ・ドラグーン・ガーズは、サイヤーズ中佐の指揮で清の騎兵に突撃したと伝えられています。ただし、戦闘の日付は18日とされるものの、突撃そのものは20日か21日とする英国側の記録もあり、日付には注意が必要です。

八里橋(英語名はパリコー、またはエイト・マイル・ブリッジ)は、北京へ向かう道にかかる橋です。9月21日、清軍はここでセンゲリンチンのモンゴル騎兵を含む部隊を配置し、連合軍を迎え撃ちました。連合軍は約1万人、清軍は2万〜5万人と見積もられており、兵力の数字は資料によって幅があります。連合軍の騎兵は左翼から攻め込み、清軍を二つの橋の向こうへ押し戻しました。清軍の陣形は崩れ、北京への道が開かれました。

イギリス軍はホープ・グラント中将が、フランス軍はクーザン=モントーバン将軍が指揮しました。連合軍の損害は軽く、イギリス軍は戦死2名・負傷29名、フランス軍は戦死3名・負傷18名でした。清軍の損害は約1,200人とされていますが、この戦いの数字は確かとは言えません。クーザン=モントーバンは、この勝利によりパリコー伯の称号を与えられました。

八里橋の戦いが重要なのは、北京へ向かう道を実際に開いたからです。清軍の騎兵が崩れたことで、連合軍は首都の城壁の前まで進むことができました。

円明園の焼き払い(1860年10月)

9月18日には、交渉に来ていたイギリスの外交官ハリー・パークスらの一行が清側に拘束されました。拘束された人々の多くは監禁中に亡くなり、生存者は10月8日に解放されました。エルギン卿はこの扱いに対して報復が必要だと判断し、交渉よりも罰を選びました。イギリス陸軍省の略図には、10月11〜12日に北京城の城壁を破る準備も示されています。

1860年10月11〜12日、天壇付近で北京城の城壁を破るための準備を示すイギリス陸軍省の略図。
北京城の城壁を破る準備、1860年10月11〜12日。イギリス陸軍省の地形部が石版で作成。Great Britain. War Office. Topographical Department, public domain, via Wikimedia Commons

10月上旬、連合軍は円明園(旧離宮)に入り、数日にわたって財宝や美術品を略奪しました。フランス軍が10月6日ごろに入り、イギリス軍が翌日に続いたとされます。略奪には両軍の兵士が加わりました。10月18日、イギリス軍はエルギン卿の命令で離宮に火を放ちました。フランス軍は焼き払いへの協力を断っています。火は2〜3日燃え続け、宮殿は廃墟となりました。

この出来事は、皇室の離宮が失われた出来事として、後に屈辱の記憶と結びつけて語られてきました。今日の中国でも、円明園は列強による侵略の記憶と結びつけて語られることがあります。交渉の結果と同じくらい、この出来事がどう記憶されてきたかも押さえておくとよいでしょう。

北京条約(1860年10月24日・25日)

1860年10月24日、恭親王(奕訢)はエルギン卿との間で北京条約に署名しました。フランスとの条約は翌25日に結ばれたとされますが、両方を24日とする資料もあります。北京条約は天津条約の内容を確認し、新たな条項を加えました。九龍半島の界限街より南の部分がイギリスに永久割譲され、英仏それぞれへの賠償金は800万両に引き上げられました。

フランスとの条約では、キリスト教徒から没収された教会や慈善施設の財産を返還することも定められました。同じ年の11月14日には、清とロシアの別の条約によって、ウスリー川の東の沿海地方がロシアに割譲されています。

戦争のその後

戦争の後、外国の公使が北京に常駐するようになり、外国との貿易も一つの港に限られなくなりました。清は1861年に、外交を担当する役所として総理各国事務衙門を設けています。アヘン貿易は事実上合法となり、1842年に始まった条約の仕組みは、より多くの国と港に広がりました。

センゲリンチンは、この戦争の後も清のために戦い続けました。1865年5月18日、山東省の菏沢付近で、宿を襲った捻軍の攻撃を受け、命を落としました。八里橋で清の騎兵を率いた指揮官の経歴は、ここで終わります。

アロー戦争と第二次アヘン戦争の違い

両者は同じ戦争を指す二つの呼び名です。「アロー戦争」は、戦争のきっかけになった1856年のアロー号事件にちなんだ名前です。「第二次アヘン戦争」は、1839〜1842年の第一次アヘン戦争に続く戦争という位置づけで、アヘン貿易をめぐる対立を重視した呼び方です。参考書によっては両方の名称が並べて使われているため、どちらも覚えておくと役立ちます。

試験に出るポイント

入試では、戦争の原因と結果を年代とセットで問われることがあります。単に出来事の順番を覚えるのではなく、なぜこの戦争が重要だったのかを説明できるようにしておくと、答案が書きやすくなります。次の4点を押さえてください。

  • 原因:アロー号事件、広州での貿易制限、外交官の北京駐在をめぐる対立。
  • 経過:天津条約(1858年)、大沽砲台での敗北(1859年)、八里橋の戦いと北京への進軍(1860年)。
  • 結果:北京条約(1860年)、九龍半島の一部割譲、アヘン貿易の事実上の合法化。
  • 比較:南京条約(1842年)で開かれた範囲と、天津条約・北京条約で広がった範囲の違い。

天津条約(1858年)と北京条約(1860年)は、年代と内容を分けて覚えると混同しにくくなります。共通テストでも、条約名と内容を組み合わせる形で問われることがあります。

次に読む記事

  • 南京条約(1842年):第一次アヘン戦争を終わらせた条約です。今回の天津条約と比べると、条約の変化がよくわかります。
  • 不平等条約:清が結んだ条約に共通する仕組みを整理した記事です。
  • 第一次アヘン戦争(1839〜1842年):この戦争の前史にあたります。

軍と部隊

  • 清のモンゴル人指揮官、僧格林沁の肖像(イラスト)。 指揮官 イラスト

    清朝

    僧格林沁(センゲリンチン)

    清に仕えたモンゴルの王族で、清軍の将軍でした。1859年の大沽砲台での二度目の戦いで英仏軍を破り、1860年の八里橋の戦いではモンゴル騎兵を率いました。1865年、山東省で捻軍と戦う途中に命を落としました。

    Illustration after http://military.china.com/zh_cn/history2/06/11027560/20050610/12390594.html, public domain · 元の画像

  • 1860年、北京近郊で清の騎兵に向かって突撃するイギリスの竜騎兵を描いた版画(イラスト)。 騎兵 イラスト

    イギリス

    キングズ・ドラグーン・ガーズ(張家湾)

    1860年9月、通州の東にある張家湾で、清の騎兵に突撃したとされる部隊です。サイヤーズ中佐が指揮したと伝えられています。戦闘は18日とされ、突撃の日付は20日か21日とする記録もあります。カードの絵は、1860年の報道用版画を描き直したものです。

    Illustration after "From a sketch by our special artist in China", public domain · 元の画像

  • 戦いの夕方の八里橋を描いた、エミール・バヤールの版画(イラスト)。 歩兵 イラスト

    フランス

    八里橋のフランス軍

    エミール・バヤールの版画で、1860年9月21日の夕方の八里橋を描いています。

    Illustration after Émile Bayard, public domain · 元の画像

  • フェリーチェ・ベアトが撮影したエルギン卿の肖像(イラスト)。 指揮官 イラスト

    イギリス

    エルギン卿(ジェームズ・ブルース)

    イギリスの全権代表として、1858年の天津条約を交渉し、1860年10月に北京条約に署名しました。

    Illustration after Felice Beato, public domain · 元の画像

  • フェリーチェ・ベアトが撮影した恭親王の肖像(イラスト)。 指揮官 イラスト

    清朝

    恭親王(奕訢)

    咸豊帝の弟で、清側の主席交渉者でした。1860年10月に北京条約に署名しています。戦場の指揮官ではなく、交渉を担った人物です。

    Illustration after Felice Beato, public domain · 元の画像

  • パリコー伯となったシャルル・クーザン=モントーバン将軍の肖像、1863年頃(イラスト)。 指揮官 イラスト

    フランス

    クーザン=モントーバン将軍

    1860年のフランス遠征軍の司令官です。八里橋での勝利ののちパリコー伯の称号を得ました。

    Illustration after Eugène Disdéri, public domain · 元の画像

  • フェリーチェ・ベアトに帰属される、ホープ・グラント中将の肖像(イラスト)。 指揮官 イラスト

    イギリス

    ジェームズ・ホープ・グラント中将

    1860年の北京への行軍で、イギリス陸上部隊を率いた司令官です。八里橋ではイギリス軍を指揮しました。

    Illustration after Felice Beato, public domain · 元の画像

  • 1857年、佛山水道でイギリス海軍の船が清の軍船を攻撃する様子を描いた版画(イラスト)。 海軍 イラスト

    イギリス

    佛山水道のイギリス海軍

    1857年6月1日、イギリス海軍の船が佛山水道で清の軍船を攻撃しました。第二次アヘン戦争の初期の海戦の一つです。

    Illustration after Harry Edmund Edgell, public domain · 元の画像

よくある質問

アロー戦争はいつ起きた戦争ですか?

1856年から1860年まで続いた戦争です。始まりは1856年10月の広州でのアロー号事件で、終わりは1860年10月の北京条約です。大きな戦闘は主に1857年から1860年にかけて、広州、大沽砲台、八里橋などで行われました。

なぜアロー戦争と呼ばれるのですか?

1856年10月8日、広州の清の役人が、香港籍を名乗る中国船「アロー号」に乗り込み、中国人の乗組員12名を拘束した事件(アロー号事件)が名前の由来です。イギリスはこの事件を口実に、貿易や外交の要求を強めました。

天津条約では何が決まりましたか?

北京への外交官の常駐、十ほどの港の追加開港、長江の航行、パスポートによる内地旅行などが決まりました。賠償金は合計600万両で、イギリスに400万両、フランスに200万両が割り当てられました。関税の改定により、アヘンの輸入も事実上合法となりました。

なぜ円明園は焼き払われたのですか?

1860年9月、交渉に来ていたイギリスの使節の一行が清側に拘束され、多くが監禁中に亡くなりました。エルギン卿はその報復として、10月18日に円明園の焼き払いを命じました。フランス軍は協力を断り、火は2〜3日燃え続けました。

第一次アヘン戦争とどう違いますか?

第一次アヘン戦争(1839〜1842年)は南京条約で終わり、いくつかの港が開かれました。第二次では、北京への公使常駐、さらに多くの港の開港、九龍半島の一部割譲などが加わり、西洋の権益がさらに広がりました。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. アロー戦争のきっかけとなった事件はどれですか?

  2. 1858年6月26日に天津でイギリスとの間で署名された条約はどれですか?

  3. 1860年9月21日、清の騎兵が崩れ、北京への道が開かれた戦いはどれですか?

  4. エルギン卿が円明園の焼き払いを命じた理由はどれですか?

  5. 北京条約でイギリスに割譲された九龍半島の部分はどこですか?

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Alex Ng
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