5分でわかる:アヘン戦争 日本への影響
アヘン戦争(第1次・第一次アヘン戦争とも呼ばれます)は、1839年から1842年にかけて、イギリスと清(中国)が戦った戦争です。日本は戦場にならず、イギリス軍が日本の港を攻めたこともありません。それでも、アヘン戦争が日本に与えた影響は小さくありませんでした。幕府は異国船への対応を見直し、学者たちは世界の情勢により強い関心を持つようになりました。その流れは、1850年代の開国へとつながっていきます。
アヘン戦争 日本への影響を簡単にいえば、「戦場を見ずに受けた、間接的だが大きな衝撃」です。ここでは、戦争の前に幕府が抱えていた問題、1842年の政策転換、海外情報の広がり、オランダ国王の親書、そして開国への流れを順にたどります。全体像を知りたい方は、清国と西洋の関係をまとめた総論もあわせてご覧ください。
戦争の前に:1825年の異国船打払令
幕府は1825年(文政8年)に異国船打払令を出し、日本の沿岸に近づく外国船を追い払うよう定めていました。この方針が大きな議論になったのは、1837年のモリソン号事件です。日本人の漂流民を送り届けようとしたアメリカ商船のモリソン号が、日本の沿岸で砲撃を受けました。
この出来事は、国内で「追い払うだけでよいのか」という批判を呼びました。その批判を書いた渡辺崋山や高野長英は、1839年に処罰されています。この事件は蛮社の獄と呼ばれます。アヘン戦争が始まったころには、幕府の外交は国内で揺れていたのです。
そこに届いたのが、中国での敗北の知らせでした。当時の日本では、清は大国と見なされていました。その清が西洋の海軍に負けたという知らせは、多くの人に衝撃を与えました。追い払いの命令を守り続ければ、強い軍艦を持つ国と衝突するかもしれない。幕府はその危険を考えざるをえなくなったのです。
1842年の政策転換:打払いから薪水給与へ
1842年(天保13年)、幕府は打払いの方針を改め、薪水給与令を出しました。「薪水」とは薪と水のことで、この決まりでは、燃料や水、食料が足りずに困っている外国船に補給を認めました。補給を受けた船は、そのまま去ることが求められました。
同じ時期、幕府は水野忠邦を中心に天保の改革を進めており、財政と社会の立て直しに追われていました。海防の問題は、その改革の中でも重い課題でした。
この決まりは、貿易を許すものではありません。新しい港を開いたわけでもありません。長崎で行われていた貿易は、引き続きオランダと清(中国)に限られていました。いわば、戦いを避けるための例外的な助けだったのです。
1825年と1842年の違い
- 1825年(異国船打払令):沿岸に近づいた外国船は、追い払うことが基本でした。
- 1842年(薪水給与令):燃料や水、食料が不足する船には補給を認め、その後は退去させます。
- 変わらなかったこと:貿易は認められず、新しい港も開かれませんでした。
実は、似た方針は1806年(文化3年)にもありました。そのため、今回の決まりは「古い方針に戻った」ようにも見えます。しかし、理由は大きく違います。1842年の幕府は、清がイギリスの艦隊と戦って敗れたことを知っていました。西洋の海軍の力を、現実の問題として考えるようになっていたのです。
この政策転換は、「外国船を力で追い払う」という考え方から、「衝突を避けるために最低限の助けを与える」という考え方への変化として説明されることが多いです。試験では、1825年の異国船打払令と1842年の薪水給与令を比べ、その違いを説明できるようにしておくと安心です。
情報はどう届いたのか:オランダ商館と『海国図志』
日本は中国の戦場から遠く、戦争の情報はおもに長崎を通じて入ってきました。長崎の出島にあったオランダ商館は、世界の情勢をまとめた報告書を毎年幕府に提出していました。この報告書や、中国から伝わる書物が、日本の学者たちの大切な情報源になりました。
この報告書は、オランダ風説書と呼ばれます。商館長が海外の出来事を記して長崎に提出し、通詞(通訳)がそれを日本語に訳して幕府へ届けました。江戸時代を通じて続いた、海外情報の大切な通り道です。
長崎には清の商船も来航していました。その船が持ち込んだ報告は、唐船風説書と呼ばれます。戦いの様子が断片的に伝わったことで、清の敗北は少しずつ確かな知らせになっていきます。
1840年ごろからは、アヘン戦争の詳しい情報を伝える別段風説書も提出されるようになりました。通常の風説書よりくわしく、戦争の経過や各国の動きが書かれていたとされています。
とくに大きな影響を与えたのが、魏源が1842年に編んだ『海国図志』です。全50巻の世界地理の書物で、林則徐が魏源に託した資料をもとにしています。魏源は、西洋の技術を学んで西洋に対抗すべきだと説きました。この本は江戸時代の終わりごろに日本へ伝わり、幕末の改革を考えた人々に読まれたとされています。日本では、1854〜55年ごろ、江戸で和刻本(日本で出版された版)が刊行されました。
ここで注目したいのは、日本人が「清が負けた」という事実だけでなく、「海の向こうには強い国々があり、その国々を知らなければ自国を守れない」という見方を得たことです。戦争を遠くから眺めながら、日本の知識人は自国の守りを真剣に考えるようになりました。この意識の変化は、個々の決まりよりも、後の議論に長く影響したと考えられています。
この本を読んだ人の中には、西洋の政治の仕組みを知り、外国を退けるだけでは国を守れないと考えるようになった人もいたとされています。
オランダ国王の親書と幕府の答え
1844年2月15日(天保15年)、オランダ国王ウィレム2世は、日本の幕府に宛てた親書に署名しました。親書は、日本が平和を保つには、ほかの国々と友好的に貿易することが大切だと説いていました。また、東アジアの情勢が変わりつつあることにも触れていました。親書を運んだオランダ船は、1844年8月(天保15年7月)に長崎に入りました。
親書には、貿易の制限を緩めなければ、ほかの欧州の国々が武力で開国を迫るかもしれないという警告も含まれていたとされています。
幕府は、この勧めに応じませんでした。正式な返答は、翌1845年(弘化2年)に示されました。研究者の間では、オランダ側の意図について見方が分かれています。開国を強く勧めたものだと読む人もいれば、日本側が世界の変化を理解しているか、貿易を広げる意思があるかを探るための打診だったと読む人もいます。幕府がこの勧めを退けた理由としては、長年の仕組みを変えることへの慎重さや、海外の力をまだ正確に測れなかったことが挙げられています。
どちらの見方に立っても、結果は同じでした。幕府はすぐには港を開かず、従来の仕組みを保ちました。同じころ、イギリスやフランスの軍艦が琉球や長崎に現れ、通商を求めていました。外からの圧力が、いくつもの方向から強まっていたのです。
その後の影響:ペリー来航から開国へ
アヘン戦争そのものが、日本の開国を直接もたらしたわけではありません。開国の決め手になったのは、1853年の浦賀へのペリー来航です。ペリーはアメリカ大統領の国書を携えて来航し、幕府は1854年に日米和親条約を結びました。この条約で下田と函館が、船の補給のために開かれました。
ペリー来航の時期、老中首座の阿部正弘は、諸大名や朝廷にも意見を求めるという、前例の少ない対応を取りました。その結果、幕府の内部でも、開国と攘夷の考えが激しくぶつかることになります。
さらに1858年には、日米修好通商条約が結ばれ、貿易のための港が開かれました。この条約は、関税の決め方などで日本に不利な内容を含み、のちに不平等条約と呼ばれるようになります。具体的には、日本が関税を自分で決める権利(関税自主権)がなく、アメリカ人が日本で罪を犯した場合は、日本の法律ではなくアメリカの領事が裁く仕組み(領事裁判権)も定められました。同じ年には、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも似た条約が結ばれています。
アヘン戦争の影響は、こうした条約の前段階を形づくったと説明されることが多いです。第一に、幕府が打払いを続けられないと認識したこと。第二に、海外の情報が学者や諸藩の人々に広がり、外国を退けようとする攘夷の考えと、開国の考えがぶつかったこと。第三に、清が港を開かされ、香港をイギリスに譲ったことが、東アジアの条約の前例として意識されたことです。
試験に出るポイント
このテーマは、原因、出来事、結果を順に説明できるかが問われやすい分野です。次の点を押さえておくと、答案が書きやすくなります。
- 1842年の政策転換:異国船打払令から薪水給与令へ。理由は、イギリスが清に勝ったことで西洋海軍の力を現実的に考えたことです。
- 南京条約(1842年):清は広州、厦門、福州、寧波、上海の5港を開き、香港をイギリスに譲りました。不平等条約の早い例として取り上げられます。
- 情報の伝わり方:長崎の出島の報告と、『海国図志』などの書物が重要なルートでした。
- 1844年の親書:貿易を勧める内容でしたが、幕府は応じませんでした。開国は、1853年のペリー来航の後、1854年と1858年の条約で進みました。
- よくある混同:薪水給与令は開国ではありません。港が開かれるのは、1854年の日米和親条約以降です。
- 年表の順番:1825年の打払令、1837年のモリソン号事件、1842年の南京条約と薪水給与令、1844年の親書、1853年のペリー来航、1854年と1858年の条約の順で覚えておくと安心です。
- 用語の使い分け:攘夷は外国を退けようとする考え、開国は港を開いて貿易を進める考えです。
資料問題では、年号と出来事を結びつけて覚えておくと、年代順に並べる問題にも対応しやすくなります。
答案では、「原因(清とイギリスの戦争)、出来事(1842年の薪水給与令と1844年の親書)、結果(1850年代の開国)」の順に書くと、論理が伝わりやすくなります。
次に読むなら
背景や関連する出来事をさらに深く知りたい方には、次の記事がおすすめです。
- アジアの三角貿易(茶・アヘン・銀):アヘン戦争の前提にあった貿易の仕組みを扱います。
- 南京条約(1842年):戦争を終わらせた条約の内容を整理しています。
- 第一次アヘン戦争(1839〜1842年):戦闘の経過をたどります。