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太平天国の乱とは?わかりやすく

10月 30, 2026
太平天国の乱は、1850年から1864年まで中国の南部と中部で続いた内乱です。洪秀全が太平天国を建て、南京(天京)を都にしました。1864年7月に南京が陥落し、清の地方軍が乱を終わらせました。

シリーズ: 清朝と西洋列強:アヘン戦争から辛亥革命まで

5分要約を聞く

5:12

太平天国の乱とは?わかりやすく

基本データ

時期
1850〜1864年(太平天国が南京を都としたのは1853〜1864年)
場所
広西省から中国の南部と中部、都は南京(天京)
対立
洪秀全の太平天国と、清の軍・地方の軍隊
主な日付
金田蜂起は1851年1月、南京占領は1853年3月19日、南京陥落は1864年7月19日
結果
清の勝利。太平天国は1864年に都を失い、終わりました
死者数
一般に2000万〜3000万人とされますが、推計には幅があります

年表

項目をタップすると詳しく読めます。矢印キーで移動できます。

  1. 1839年〜1842年

    アヘン戦争で清がイギリスに敗れる

    アヘン貿易をめぐる戦争で、清は敗れました。1842年の南京条約で、賠償金の支払いや港の開放を受け入れています。この敗北で、清の財政と権威は大きく傷つきました。

    1839年のほかの記事:1839年の記事をもっと

  2. 1843年

    洪秀全が最後の科挙に落ちる

    洪秀全は何度も科挙を受けましたが、合格できませんでした。最後に受けたのは1843年です。その後、キリスト教の小冊子をきっかけに、独自の教えを作り上げていきます。

    1843年のほかの記事:1843年の記事をもっと

  3. 1851年1月11日

    金田蜂起と天王の名乗り

    広西省の金田村の近くで、拝上帝会の信者たちが清の軍を破ったとされています。洪秀全は天王を名乗り、太平天国の乱が本格的に始まりました。建国の日付は文献によって異なります。

  4. 1851年9月ごろ

    永安を占領し、組織を整える

    太平天国が金田蜂起の後に最初に占領した大きな拠点、広西省の永安の遺跡の写真。
    STW932, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

    太平天国の軍は、広西省の永安を占領しました。ここで洪秀全は政府と組織の仕組みを整えています。清軍に包囲されたまま冬を越し、1852年の春に脱出して北へ向かいました。

  5. 1853年3月19日

    南京を占領し、天京と改める

    太平天国の硬貨を写した博物館の写真。
    Gary Todd from Xinzheng, China, CC0, via Wikimedia Commons

    太平天国は長江下流の大都市、南京を占領しました。都の名は天京と改められ、1864年まで太平天国の政治の中心になります。南京を失ったことは、清にとって大きな打撃でした。

    1853年のほかの記事:1853年の記事をもっと

  6. 1853年5月〜10月ごろ

    北伐軍と西征軍が遠征する

    北伐軍は1853年5月に北京をめざして出発し、10月末には天津の近くまで迫りました。西征軍は長江中流で戦い、1854年4月に湘潭で勝利しています。ただ、どちらも占領した都市を守り続けることはできませんでした。

  7. 1855年春

    北伐軍が清軍に壊滅させられる

    北伐軍は大きな都市を落とせないまま、清軍の攻撃で壊滅しました。清軍を率いたのは僧格林沁(そうかくりんしん)です。指揮官の最期の日付は、資料によって3月と5月に分かれています。

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  8. 1860年〜1862年

    常勝軍が上海周辺で活動する

    ウォードが作った部隊は、やがて常勝軍と呼ばれるようになりました。上海周辺で太平天国が押さえた町を取り戻すのに加わり、1862年には上海の防衛にも関わりました。ウォードは1862年9月に重傷を負い、亡くなりました。

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  9. 1861年9月

    曾国藩の湘軍が安慶を取り戻す

    1886年の呉友如(ウー・ヨウルー)の版画で、清軍が省都の安慶を太平天国から奪い返す場面。
    Wu Youru, public domain, via Wikimedia Commons

    湘軍は安慶を取り戻し、司令部をそこに移しました。安慶は南京への攻撃を準備する重要な拠点になります。太平天国にとっては、長江沿いの大きな拠点を失う出来事でした。

    1861年のほかの記事:1861年の記事をもっと

  10. 1863年12月ごろ

    淮軍と常勝軍が蘇州を攻略する

    李鴻章の淮軍が、ゴードン率いる常勝軍の協力を得て蘇州を攻略しました。城門が開いた日付は資料によって差があり、12月とする記録と11月とする記録があります。ゴードンは1863年3月に指揮を執っていました。

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  11. 1864年6月1日

    洪秀全が天京で亡くなる

    天王の洪秀全は、天京で亡くなりました。包囲の中で食料が不足し、野草を口にしたことによる病気が、最も有力な説とされています。自殺説もありますが、史料の読み方が分かれています。

    1864年のほかの記事:1864年の記事をもっと

  12. 1864年7月19日

    湘軍が南京を攻め落とす

    曾国藩の湘軍は、爆薬で城壁の一部を崩し、南京に攻め込みました。三日ほどの戦いの後、城は陥落します。李秀成は捕らえられ、のちに処刑されました。

地図

地図をタップで拡大

  • 太平天国が最も広い範囲を支配していたころの中国の地図。首都は南京でした。

    太平天国が最も広がった時期(1860年ごろ)の領域。

    M.Bitton, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

  • アウグスタス・F・リンドリーの1866年の太平天国史に載った、中国南部と中部の古い地図。

    アウグスタス・F・リンドリーの『Ti-ping tien-kwoh: The History of the Ti-Ping Revolution』(1866年)の地図。南京陥落の2年後に刊行されました。

    Augustus F. Lindley, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1860年から1864年にかけて常勝軍が作戦を展開した、上海と江蘇省周辺の地図。

    常勝軍が活動した上海・蘇州・長江下流の作戦範囲(1860〜1864年)。

    Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

5分でわかる太平天国の乱

太平天国の乱は、1850年から1864年にかけて中国の南部と中部で続いた大規模な内乱です。簡単にいえば、キリスト教の影響を受けた宗教的な教えを掲げた洪秀全(こう しゅうぜん)が、太平天国という国を建て、南京を都にして清(しん)の朝廷に挑んだ戦争です。清は、地方の役人が組織した軍隊の力を借りて、ようやく乱を鎮めました。

この戦乱は、死者の多さから世界史でも特に悲惨な内乱のひとつに数えられることがあります。死者数には今も議論があるため、読むときは「なぜ起きたのか」「どう終わったのか」「被害はどれほどか」の三点を分けて考えると理解が深まります。この記事では、その順に説明します。

太平天国が最も広い範囲を支配していたころの中国の地図。首都は南京でした。
太平天国が最も広がった時期(1860年ごろ)の領域。 M.Bitton, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

地図からは、太平天国の支配が広い範囲に及んでいたことがわかります。首都の南京は長江の下流に位置する大都市で、その場所は戦争の全期間を通じて両陣営にとって重要でした。

太平天国の乱はなぜ起きたのか

背景には、清の弱体化があります。1839年から1842年にかけてのアヘン戦争で、清はイギリスに敗れました。1842年の南京条約では、賠償金の支払いや港の開放を受け入れています。アヘンの密輸によって貿易の収支が大きく崩れ、経済の傷も深まりました。戦争と経済の負担が重なったことで、清の財政は苦しくなり、政府の権威にも陰りが見え始めます。

この乱は、清国・日本と西洋(1793〜1912年)の時代の大きな流れのなかで起きた事件です。外国が貿易や条約上の権利を求めて圧力をかける一方で、清の国内では不満と混乱が高まっていました。対外関係と国内の不安が重なったことが、この乱の土台になっています。

洪秀全は、広東省の貧しい村で育った客家(ハッカ)の出身です。客家は中国南部に多く住み、独自の文化を持つ人々で、満州族が治める清に対する反感が特に強かったとされます。洪は役人になるための科挙(かきょ)を何度も受けましたが、合格することはできませんでした。最後に受けたのは1843年です。

その後、洪はキリスト教の小冊子を読んだことをきっかけに、独自の宗教的な教えを作り上げました。「拝上帝会(はいじょうていかい)」という団体を組織し、広西省で信者を増やしていきます。洪は神の啓示を受けたと信じ、信者たちはその教えによって結びつきました。宗教で人をまとめる力が、この運動を大きく育てることになります。

1851年1月11日、広西省の金田村(現在の桂平市)の近くで、拝上帝会の信者たちが清の軍を破ったとされています。これが金田蜂起(ほうき)で、太平天国の乱の始まりと位置づけられています。洪は天王を名乗り、太平天国という国の名前を掲げました。ただし、建国の日付は文献によって扱いが異なり、1851年3月23日の即位式を重視する説もあります。

金田から南京へ:乱の前半

太平天国の軍は、広西省から北へ向かいながら、各地で勢力を広げていきました。1851年9月ごろには、広西省の永安(えいあん)を占領しています。永安は太平天国が最初に得た大きな拠点で、洪はここで政府と組織の仕組みを整えました。清の軍に包囲されたまま冬を越し、1852年の春に脱出して北へ向かいます。

1853年には、長江沿いの省都である安慶(あんけい)も占領しました。占領した月は史料によって2月から6月まで分かれています。そして1853年3月19日、太平天国は長江下流の大都市、南京を攻め落とします。南京は「天京(てんきょう)」と改名され、太平天国の都になりました。ここから1864年までの約11年間、天京が太平天国の政治と軍事の中心であり続けます。

南京が重要だったのは、長江の下流に位置し、物資や人の動きが集まる都市だったからです。ここを押さえることで太平天国は拠点を持ちましたが、清にとっては、取り戻すべき最重要の目標になりました。

1853年には、太平天国は二つの遠征軍を送り出しました。北伐軍(ほくばつぐん)は同年5月に出発し、北京をめざしました。10月末には天津の近くまで迫りますが、大きな都市を落とせず、1855年春に清軍の攻撃で壊滅しました。西征軍(せいせいぐん)は長江中流の武漢周辺で戦い、1854年4月には湘潭(しょうたん)の戦いで勝利しています。一時は漢口と漢陽を奪いましたが、どちらも守り続けることはできませんでした。

アウグスタス・F・リンドリーの1866年の太平天国史に載った、中国南部と中部の古い地図。
アウグスタス・F・リンドリーの『Ti-ping tien-kwoh: The History of the Ti-Ping Revolution』(1866年)の地図。南京陥落の2年後に刊行されました。 Augustus F. Lindley, public domain, via Wikimedia Commons

この二つ目の地図は、1866年にリンドリーがまとめた太平天国の歴史書に載ったものです。南京が陥落してから2年後に出版されました。当時の名前で地域や都市が書かれているため、遠征の経路をたどるのに役立ちます。ただし、ある日時点の軍の配置は示していないので、年表と合わせて読んでください。

形勢が変わる:湘軍・淮軍・常勝軍

清の旧来の軍は、太平天国を単独で抑えることができませんでした。さらに、1856年から1860年には第二次アヘン戦争が起き、清は外国との戦いにも追いつめられます。1858年の天津条約と1860年の北京条約で、外国の権利はさらに広がりました。内乱と対外戦争が同時に進んだことが、清の立場を厳しくしたのです。

そこで頼りとされたのが、地方の役人が自分の責任で組織した軍隊です。地元で兵士を集め、資金を調達し、地域の事情に通じた指揮官が率いるこの方法が、乱を終わらせる大きな力になりました。

湖南省出身の官僚、曾国藩(そう こくはん)(1811〜1872年)は、地方の民兵(団練)を土台に湘軍を作りました。1860年ごろには、湘軍が約36万人にまで膨らんだという推計があります。そのうち曾国藩が直接指揮したのは約13万人でした。湘軍は1861年9月に安慶を取り戻し、司令部をそこに移して、南京攻めの準備を進めました。

李鴻章(り こうしょう)は、曾国藩の部下として力をつけた人物です。1862年、安徽省で淮軍(わいぐん)を組織するよう命じられ、上海周辺の戦いや、のちの蘇州攻めで重要な役割を果たしました。淮軍は戦争が終わったあとも、清の主要な軍事力の一つとして残りました。

外国人が関わった部隊として知られるのが、常勝軍(じょうしょうぐん)です。最初は、アメリカ人のフレデリック・タウンゼント・ウォードが率いました。ウォードは1831年にマサチューセッツ州セーラムで生まれた冒険家です。部隊は、外国人の傭兵およそ100〜200人から始まり(史料によって人数が異なります)、中国人の兵士が加わって、最盛期には約5000人に達したとされています。

ウォードは1862年9月、慈渓(じけい)の戦いで重傷を負い、その後亡くなりました。死去の日付は21日とする記録と22日とする記録があります。その後、ゴードンが指揮を執るようになりました。チャールズ・ジョージ・ゴードン(1833〜1885年)は、イギリス陸軍の王立工兵隊の将校で、1863年3月に常勝軍の指揮を執っています。

ゴードンの部隊は、淮軍の蘇州攻めを支えました。蘇州の城門が開いたのは1863年12月ごろとされ、資料によって日付が異なります。その後、ゴードンは常州(じょうしゅう)の攻略にも加わりました。常勝軍は1864年に解散し、ゴードンは後にスーダンのハルトゥームで命を落としています(1885年)。

1860年から1864年にかけて常勝軍が作戦を展開した、上海と江蘇省周辺の地図。
常勝軍が活動した上海・蘇州・長江下流の作戦範囲(1860〜1864年)。 Unknown author, public domain, via Wikimedia Commons

三つ目の地図は、常勝軍が上海、蘇州、長江下流で活動した範囲を示しています。ファイルの記録には1918年とありますが、描かれているのは1860年から1864年までの作戦なので、日付は図の説明で確認してください。

南京陥落と洪秀全の最期

清軍は1862年ごろから南京を包囲し、城内では食料が不足していきました。1864年6月1日、天王の洪秀全は天京で亡くなります。食料不足のなかで野草を口にしたことによる病気が、最も有力な説とされています。一方で、毒をあおって自ら命を絶ったという説もあり、史料の読み方によって結論が分かれています。

1864年7月19日、曾国藩の湘軍は爆薬で城壁の一部を崩し、南京に攻め込みました。その後の三日ほどの戦闘で、城は陥落します。太平天国の将軍、李秀成(り しゅうせい)は洪天貴福(こう てんきふく)とともに脱出しましたが、二人とも捕らえられました。李秀成は、のちに処刑されています。市街は陥落後も7月26日ごろまで燃え続けたといわれています。

なぜ被害は大きくなったのか

戦いは同じ都市や農地を何度も行き来したため、被害は長い年月をかけて積み重なりました。1862年に始まった南京の包囲は、2年近く続いています。戦闘のあとには飢饉や疫病が広がり、多くの人々が住む場所を追われました。このため、死者の正確な数を出すことは非常に難しく、それが推計の幅が大きい理由の一つです。

死者数と乱の影響

この乱でもっとも議論が多いのは、死者数です。一般的な概説書や百科事典では、およそ2000万〜3000万人とする推計がよく使われます。この数字には、兵士だけでなく民間人も含まれます。飢饉や疫病による死者をどこまで含めるかで、数字は大きく変わります。

より大きな推計を示す文献もありますが、その根拠は慎重に扱う必要があります。戦乱で人口の記録が乱れた地域も多く、正確な数字を出すことは難しいとされます。記事や授業で死者数を伝えるときは、「およそ2000万〜3000万人とする推計がある」と幅を示し、出典を明記するのが安全です。

乱が残した影響は、主に三つに分けて考えられます。第一に、清の中央の政府が、地方の有力者の軍事力と財政に頼るようになったことです。これにより地方の権力が強まり、中央の統制は弱くなったと指摘されています。第二に、南京周辺を含む長江流域が戦争で荒れ、人口と経済に深い傷を残したことです。第三に、宗教と社会の不満が結びつくと、大きな運動になりうることを、この乱が示したことです。

清は、この乱のあとも約半世紀続き、1912年に滅びます。地方の軍が強くなったことは、その後の政治の流れにも影響しました。

この乱の主な人物

  • 洪秀全(1814〜1864年):太平天国の天王。広西省で運動を始め、南京を都にしました。
  • 曾国藩(1811〜1872年):湖南省出身の官僚。湘軍を率いて、南京を陥落させました。
  • 李鴻章:曾国藩の部下。1862年に淮軍を組織するよう命じられました。
  • フレデリック・タウンゼント・ウォード(1831〜1862年):常勝軍の初代の指揮官です。
  • チャールズ・ジョージ・ゴードン(1833〜1885年):イギリス人の将校で、1863年3月から常勝軍を指揮しました。

試験に出るポイント

共通テストの世界史では、太平天国の乱は「アヘン戦争の後の清の弱体化」と「地方の軍事力の台頭」を結びつけて問われることがあります。次の三つの流れを、短い文章で説明できるようにしておくと安心です。

  • 原因:アヘン戦争の敗北と南京条約の負担、そして洪秀全の宗教運動が広がったこと。
  • 経過:1851年の金田蜂起、1853年の南京占領、1855年の北伐軍の壊滅、1864年の南京陥落。
  • 結果:曾国藩や李鴻章のような地方の将軍が力を持ち、清の中央の統制が弱まったこと。

ひとことで覚えるなら、「宗教と社会の不満が、衰えた清と結びついた内乱」と言い換えられます。ただし、年代や人名の細かな表記は、教科書や資料集に合わせて確認してください。

次に読む

背景を知りたい方は、アヘン戦争(1839〜1842年)の記事から読むと、清が弱くなった理由がつかみやすくなります。次に、不平等条約を読むと、外国が中国で得た権利の仕組みがわかります。指導者の人物像は、洪秀全:天王(てんのう)の記事で詳しく説明しています。全体の流れを見直すときは、清国・日本と西洋(1793〜1912年)の記事に戻ってみてください。

軍と部隊

  • 1853年のヨーロッパの版画に描かれたとされる、太平天国の指導者・洪秀全(illustration) 指揮官 イラスト

    太平天国

    洪秀全(天王)

    客家の出身で、科挙に合格できなかった洪秀全は、1851年に広西省で運動を始めました。南京を都とした太平天国の天王として国を率い、1864年6月1日に天京で亡くなりました。陥落の約7週間前のことです。

    Illustration after Ford & West Lith, public domain · 元の画像

  • 1871年に撮影された曾国藩の写真(illustration) 指揮官 イラスト

    清朝

    曾国藩と湘軍

    湖南省出身の官僚、曾国藩は、地方の民兵をもとに湘軍を作りました。1861年9月に安慶を取り戻し、1864年7月には湘軍が南京を攻め落としました。

    Illustration after 吴嘉善(1818-1885), public domain · 元の画像

  • ロレンツォ・フィスラーによる1871年のアルブミン写真の李鴻章の肖像(illustration) 指揮官 イラスト

    清朝

    李鴻章と淮軍

    曾国藩の部下である李鴻章は、1862年に安徽省で淮軍を組織するよう命じられました。淮軍は上海や蘇州の周辺で戦い、1863年12月ごろに蘇州を攻略しました。

    Illustration after Lorenzo Fisler, CC BY 3.0 · 元の画像

  • 1861年の写真の一部に写る、フレデリック・タウンゼント・ウォード(illustration) 指揮官 イラスト

    清朝と西洋人の支援部隊

    フレデリック・タウンゼント・ウォード

    マサチューセッツ州セーラムに生まれたアメリカ人の冒険家です。上海周辺で常勝軍の前身となる部隊を作り、1862年9月、慈渓の戦いで重傷を負って亡くなりました。

    Illustration after WP:EN, public domain · 元の画像

  • 1860年代ごろに制服姿で並んだ常勝軍の兵士の写真(illustration) 歩兵 イラスト

    清朝と西洋人の支援部隊

    常勝軍

    中国人の兵士が西洋式の訓練を受けた部隊で、初めはウォード、のちにゴードンが指揮しました。最盛期にはおよそ5000人に達し、1864年に解散しました。

    Illustration after Unknown author, public domain · 元の画像

  • 1881年の『ヴァニティ・フェア』に載った、チャールズ・ジョージ・ゴードン中佐の風刺画(illustration) 指揮官 イラスト

    清朝と西洋人の支援部隊

    チャールズ・ジョージ・ゴードン

    イギリス陸軍の王立工兵隊の将校で、1863年3月に常勝軍の指揮を執りました。淮軍の蘇州攻略や常州の戦いを支えました。1885年にスーダンのハルトゥームで亡くなりました。

    Illustration after Carlo Pellegrini, CC0 · 元の画像

よくある質問

太平天国の乱はいつ起きましたか。

太平天国の乱は、おおよそ1850年から1864年まで続いた内乱です。1851年の金田蜂起から始まり、1853年に太平天国が南京を占領して都にしました。1864年7月に曾国藩の湘軍が南京を攻め落としたことで、太平天国の国は事実上なくなり、乱は終わりに向かいました。

太平天国の乱とは何ですか。

清の時代の中国で起きた大規模な内乱で、洪秀全が率いた太平天国が中心でした。キリスト教の影響を受けた宗教的な教えと、満州族が治める清の支配への不満が結びつき、南部と中部の広い地域に勢力を広げました。乱の終わりには、清が地方の軍隊の力を借りて勝利しました。

太平天国の乱はなぜ起きたのですか。

アヘン戦争に敗れた清の財政が苦しくなり、社会の不安が高まったことが背景です。そこに、客家の出身で科挙に失敗した洪秀全が、キリスト教の影響を受けた教えを広めました。広西省で信者が集まり、1851年の金田蜂起につながりました。

太平天国の乱で何人が亡くなりましたか。

正確な数字は分かっていません。一般的には、およそ2000万〜3000万人とする推計がよく使われます。兵士と民間人を合わせた数で、飢饉や疫病による死者も含まれます。より大きな推計もあるため、数字を使うときは幅と出典を示すことが大切です。

太平天国の乱で勝ったのは誰ですか。

清の朝廷が勝ちましたが、勝利の中心になったのは曾国藩の湘軍や李鴻章の淮軍などの地方の軍隊でした。外国人が指揮した常勝軍も戦いに加わりました。1864年7月に南京を攻め落としたのは、曾国藩の湘軍です。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. 太平天国が南京を占領し、都にしたのは何年ですか。

  2. 1864年7月に南京を攻め落とした軍はどれですか。

  3. 常勝軍を最初に作り、率いたのは誰ですか。

  4. 太平天国の都になった南京は、何と改名されましたか。

  5. 太平天国の乱の前に、清を弱らせた戦争はどれですか。

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Alex Ng
Alex Ng

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