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辛亥革命(しんがいかくめい)は、1911年10月に武昌で始まった蜂起をきっかけに、清(しん)を倒して中華民国を生んだ革命です。「辛亥」は1911年を表す干支の呼び名で、この革命は、その年にちなんで辛亥革命と呼ばれています。秦の統一(紀元前221年)以来続いてきた皇帝による支配は、この革命によって終わりを迎えました。
辛亥革命とは、ひとことで言えば、古い帝国が改革を急いでも不満を抑えきれず、各地が次々と清から離れていった出来事です。ここでは、なぜ起きたのか、何が起きたのか、その後どうなったのかを順に見ていきます。背景をくわしく知りたい方は、清末の中国と欧米・日本(1793〜1912年)もご覧ください。
辛亥革命はなぜ起きたのか
辛亥革命は、ひとつの出来事だけで起きたわけではありません。いくつかの不満が重なり、一気に噴き出したと考えるとわかりやすいでしょう。大きく分けて三つの背景があります。
科挙の廃止と改革の行き詰まり
清は、19世紀の戦争で外国に敗れたあと、国の立て直しを図りました。その一環として、1905年に役人を選ぶための科挙(かきょ)を廃止しました。科挙は、儒学の知識を試す試験で、千年以上にわたって官僚への道を作ってきた仕組みです。廃止の目的は、学校教育を整え、近代的な軍や行政を担える人材を育てることでした。
しかし、この改革は多くの学者や若者にとって、これまでの出世の道を失うことを意味しました。新しい学校や軍の整備には、大きなお金が必要です。国の財政は苦しく、増税は民衆の不満を強めました。改革が進むほど反発も広がるという悪循環が生まれた、と見ることができます。
北京議定書と列強の利権
1900年の義和団事件のあと、清は1901年に北京議定書を結びました。この条約で清は、列強に巨額の賠償金を払うことになりました。その支払いは、重い税金や外国からの借金でまかなわれました。さらに、列強は鉄道や鉱山などの利権を各地で握っていました。
こうした状況の中で、多くの人は、国の権益が次々と外国の手に渡っていくと感じるようになりました。国を守れない王朝への不信感が、革命派の呼びかけに応える土壌になったのです。
鉄道国有化と保路運動
1911年5月、清政府は主要な幹線鉄道を国有化すると発表しました。さらに、鉄道の権利を担保にして、外国の銀行団から借款を結ぶことも決めました。鉄道の建設には、地元の人々が出資していた路線が多く、とくに四川省では出資者の反発が大きくなりました。
四川省では、この政策に反対する保路運動が広がりました。抗議は次第に激しくなり、政府は鎮圧のために、中国中部の部隊を四川へ送ります。この部隊の移動によって武昌の守りは手薄になり、蜂起が成功しやすい状況が生まれました。鉄道問題は、改革と革命をつないだ出来事として注目されています。
同盟会と三民主義
革命派の中心にいたのは、孫文(そんぶん)です。孫文は1905年8月、東京で中国同盟会を結成しました。同盟会は、清を倒して共和国を作ることを目標にしていました。その主張は、三民主義と呼ばれる三つの原則にまとめられています。民族は国の独立と統一、民権は人民が政治に参加すること、民生は人々の暮らしを安定させることを指します。
留学生たちも、革命の広がりに大きな役割を果たしました。清は、若者を海外に留学させて近代的な教育を受けさせようとしました。その留学先の一つが日本でした。留学生たちは、そこで共和制や新しい政治思想に触れ、帰国後に革命派の中心になっていきました。
ただし、同盟会は秘密結社的な性格を持ち、国内外に散らばる仲間たちをまとめるのは簡単ではありませんでした。だからこそ、1911年の蜂起は、各地の新軍や地方の有力者が呼応する形で一気に広がったのです。
社会の変化と新しい知識人
20世紀初めの中国では、新聞や雑誌が広がり、新しい思想が都市の読者に届くようになりました。新式の学校で学んだ若者や、留学から戻った知識人は、皇帝制度のあり方を公然と議論し始めます。こうした社会の変化によって、清の支配が人々の目にどう映るかは、大きく変わっていきました。
辛亥革命では何が起きたのか
革命のきっかけは、思わぬ事故でした。1911年10月初め、漢口のロシア租界で革命派が爆弾を作っていたところ、爆発が起きました。ロシア側の警察が関係者を逮捕し、新軍に広がる革命派の名簿も押収されました。計画が発覚する前に動く必要が出てきたのです。
武昌の蜂起と武漢三鎮
1911年10月10日、武昌の新軍の兵士たちが蜂起しました。彼らは、湖広総督の官邸を攻撃しました。武昌はすぐに革命派の支配下に入り、10月11日には漢陽、10月12日には漢口も制圧されました。武昌、漢陽、漢口の三つの町は、武漢三鎮と呼ばれる一帯です。この数日で、革命派は武漢の主要な拠点を押さえたのです。
このとき、孫文は海外にいました。孫文は、翌朝の新聞でこの知らせを知ったと伝えられています。指導者不在のまま始まった蜂起が、なぜこれほど速く広がったのか。その大きな理由は、各地の新軍や地方の有力者のあいだに、清の統治への不満がたまっていたことだと考えられています。
各地の独立と袁世凱の登場
蜂起の知らせは、2か月ほどのうちに十数の省へ広がりました。省ごとに清からの離脱を宣言する動きが相次ぎ、清の朝廷は、全土を一度に抑えることができなくなります。
そこで清が頼ったのが、袁世凱(えんせいがい)でした。袁世凱は、かつて北洋軍を率いた有力な軍人で、一度は官職を解かれていました。1911年11月1日、清は袁世凱を内閣総理大臣に任命します。袁世凱は革命派との交渉を進め、その後の政治の行方を大きく左右しました。
辛亥革命のその後
清の滅亡と中華民国
1912年1月1日、南京で中華民国の成立が宣言されました。孫文は臨時大総統として、新しい共和国の顔となりました。
1912年2月12日、6歳の宣統帝、溥儀(ふぎ)の退位が発表され、清の統治は終わります。秦の統一以来、二千年以上続いた皇帝制度は、ここで幕を閉じたのです。孫文は、大総統の地位を袁世凱に譲りました。袁世凱は1912年3月10日、大総統に就任します。
混乱の時代へ
新しい共和国には、強い軍隊も安定した財政もありませんでした。多くの歴史家は、この弱さがその後の政治の混乱を生んだと考えています。
袁世凱は1915年に帝政を復活させようとしましたが、反対が強く、1916年に取りやめました。同じ年の6月に袁世凱は亡くなります。その後は、各地の軍閥が勢力を争う時代になりました。革命によって皇帝は消えましたが、統一された近代国家を作るまでには、長い時間がかかったのです。
なぜ重要なのか
辛亥革命の重要性は、皇帝による統治が終わり、共和制が中国の政治の中心的な課題になったことにあります。また、革命の結果がすぐに安定をもたらさなかったことも、理解しておきたいポイントです。
革命が国家の形を変えた一方で、人々の暮らしや地方の社会がどこまで変わったのかについては、今も議論が続いています。学校の教科書では、辛亥革命を清の滅亡と中華民国の誕生という一つの節目として扱うことが一般的です。しかし、その後の中国の歩みを見ると、節目は一つの終わりであり、次の課題の始まりでもあったとわかります。
試験に出るポイント
試験では、原因・人物・結果の三つを押さえておくと安心です。原因では、科挙の廃止、鉄道国有化をめぐる保路運動、北京議定書による賠償金と利権が重要です。人物では、革命派を率いた孫文と、清から交渉を任され大総統になった袁世凱の役割の違いを整理しておきましょう。
年号は、1911年10月の武昌蜂起、1912年1月の中華民国の成立、そして1912年2月の清の退位です。共通テストでは、原因と結果のつながりを問う形で出題されることが多いと考えられます。「なぜ起きたか」と「その結果どうなったか」を一文でつなげて説明できるようにしておくと、答えやすくなります。
論述問題では、革命の背景として、列強の圧力と国内の改革の失敗を結びつけて書くと、説得力のある答案になります。また、袁世凱が大総統になった経緯と、その後の軍閥の時代への流れを押さえておくと、時代の流れを説明しやすくなります。
次に読む
- 列強による中国の利権争奪:辛亥革命の前に、外国が中国でどのように権益を広げたのかを知ることができます。
- 孫文と三民主義:革命派を率いた孫文の考え方と行動を、くわしく読むことができます。
- 第1次アヘン戦争(1839〜1842年):第一次アヘン戦争とも呼ばれるこの戦争で、清の弱さがはじめて明らかになったことを振り返れます。