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フランツ・フェルディナント大公は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で、帝位を継ぐはずの人物でした。しかし、皇帝になることはありませんでした。1914年6月28日、妻のゾフィーとともに、サラエボでボスニアのセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプに撃たれ、二人とも亡くなったからです。
この事件は、同じ年の夏に起きた七月危機の引き金となりました。わずか1か月あまりのうちに、ヨーロッパの大国が次々と参戦し、第一次世界大戦が始まります。一人の暗殺がなぜこれほど大きな戦争につながったのか。その答えは、大公の人物像と、当時の同盟関係や対立の構図にあります。第一次世界大戦の全体像は、第一次世界大戦(1914〜1918年)の解説ページにまとめています。
フランツ・フェルディナントはどんな人か
フランツ・フェルディナントは、1863年12月18日、現在のオーストリアにあるグラーツで生まれました。父は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟カール・ルートヴィヒです。若いころから軍人になる道を歩み、軍の要職を務めました。1913年には、帝国の全軍を統括する総監に任命されています。
趣味は狩猟で、狩りに熱中したことでも知られています。性格は頑固だったとよく描かれ、伯父にあたる皇帝との関係も、なかなか良好にはなりませんでした。
大公の立場が大きく変わったのは、1889年のことです。皇太子ルドルフが、同年1月30日にマイヤーリンクで亡くなりました。ルドルフは皇帝の一人息子でした。そのため、フランツ・フェルディナントは皇位継承の順位を上げましたが、父のカール・ルートヴィヒがまだ生きていたため、すぐに皇位に就けたわけではありません。1896年に父が亡くなると、彼は帝位の推定相続人となりました。
1900年、フランツ・フェルディナントは、宮廷の女官を務めていたゾフィー・ホテクとの結婚を望みました。ゾフィーはボヘミアの伯爵家の出身で、皇族ではありませんでした。皇帝は結婚に反対しました。結婚は、ゾフィーが夫と同じ身分を持てず、子どもたちも皇位を継げないという条件で認められました。身分の違う相手との結婚は「貴賤婚」にあたります。夫妻のあいだには、ゾフィー、マクシミリアン、エルンストの三人の子どもが生まれました。
フランツ・フェルディナントは、帝国内のスラヴ系の民族により大きな自治を与える改革を望んでいたとされています。帝国を、三つの主要な部分からなる国家に作り変える構想もあったと説明されることがあります。しかし、ハンガリーの指導者や政府、皇帝の反対もあり、改革が実現することはありませんでした。
戦争へとつながる背景
1914年のヨーロッパは、二つの陣営に分かれていました。ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアは三国同盟を結び、フランス、ロシア、イギリスは三国協商として連携していました。同盟は戦争を防ぐためのものでしたが、ひとつの紛争が、同盟国を次々と巻き込む仕組みにもなっていました。
背景には、大きく分けて三つの力がありました。第一に、軍備拡張競争と軍国主義です。各国は軍隊と兵器を増やし、動員の計画を細かく立てていました。一度動き出すと止めにくい計画でした。第二に、民族主義です。バルカン半島では、スラヴ系の人々の独立や統一を求める動きが強まっていました。第三に、大国どうしの対立です。特にバルカン半島をめぐって、オーストリア=ハンガリーとロシアは互いに警戒していました。軍国主義については、軍国主義とは?第一次世界大戦への道の記事も参考になります。
オーストリア=ハンガリー自体も、多くの言語を話す人々を抱える多民族国家でした。そのため指導層は、スラヴ系の臣民の忠誠心を心配していました。セルビアがバルカンで影響力を広げることは、その均衡をゆるがすものに見えました。
ボスニアは、この対立の中心にありました。ボスニアは、オスマン帝国の領土でしたが、1878年からオーストリア=ハンガリーが統治し、1908年には正式に併合しました。セルビアの人々の中には、この併合に強く反発する人が少なくありませんでした。事件を計画した若者たちの一部は、セルビアの秘密結社「黒手組」とつながりがあったとされています。
サラエボで何が起きたか
1914年6月28日、大公夫妻は、ボスニアで行われる軍の演習を視察するため、サラエボを訪れました。この日はヴィドヴダン(聖ヴィトゥスの日)で、1389年のコソボの戦いを記念する日でもありました。多くのセルビア人にとって、特別な意味をもつ日です。
その日の午前中、ネデリコ・チャブリノヴィッチが大公の乗った車列に爆弾を投げつけました。爆弾は車の幌に当たってはね返り、後ろの車の下で爆発しました。数人が負傷しましたが、大公夫妻は無事でした。
市庁舎での式典のあと、大公は爆発で負傷した人々を見舞うため、病院へ向かうことにしました。ところが、先頭の車が道を誤り、フランツ・ヨーゼフ通りへ曲がってしまいます。大公の車もそれに続き、止まったのはミリャツカ川に架かるラテン橋のたもとでした。そこには、ガヴリロ・プリンツィプがいました。プリンツィプは至近距離から二発を撃ち、大公とゾフィーは、まもなく息を引き取りました。
プリンツィプは当時19歳で、青年ボスニアと呼ばれる民族主義の運動の一員でした。事件の計画には、ほかにも複数の若者が関わっていました。
事件のその後:七月危機から大戦へ
オーストリア=ハンガリー政府は、事件の背後にはセルビアがあると考えました。7月初め、ドイツは同盟国のオーストリア=ハンガリーへの支持を伝えました。これは「白紙委任状」と呼ばれています。ドイツの後ろ盾を得たウィーン政府は、セルビアに対して強硬な手段をとる方針を固めます。
7月23日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに最後通牒を送りました。10項目の要求を48時間以内に受け入れるよう求める、厳しい内容でした。セルビアは大部分を受け入れましたが、完全な受け入れではありませんでした。7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告します。
そこから、同盟の仕組みが次々と動きました。ロシアはセルビアを支援するため動員を始めます。ドイツはロシアに8月1日、フランスに8月3日、宣戦布告しました。ドイツがベルギーに侵攻したことを受けて、8月4日にはイギリスもドイツに宣戦布告しました。戦争は、ヨーロッパ全体へ広がったのです。
プリンツィプは、年齢のため死刑を免れ、禁錮20年の判決を受けました。1918年、獄中で亡くなっています。大戦は1918年11月の休戦で終わり、オーストリア=ハンガリー帝国は、その秋のうちに解体へと向かいました。
大公の死そのものよりも、それをきっかけにした外交と軍事の連鎖が大戦を招いた点が重要です。この流れを理解すると、歴史の全体像がつかみやすくなります。
試験に出るポイント
歴史の試験では、「なぜ一人の暗殺が大戦へ発展したのか」という問いがよく出されます。答えるときは、きっかけと、背景となった原因を分けて考えるのがコツです。
- きっかけ:1914年6月28日のサラエボ事件
- 背景となった原因:軍国主義、同盟の網、帝国主義(列強の対立)、民族主義
- 事件の流れ:白紙委任状、7月23日の最後通牒、7月28日の宣戦布告、8月4日までの連鎖
注意したいのは、事件を戦争の「唯一の原因」としないことです。事件は、もともとあった緊張に火をつけた出来事として説明すると、説明が正確になります。
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