第1次世界大戦(第一次世界大戦とも書かれます)は、1914年に始まりました。なぜ起きたのでしょうか。教科書や授業では、軍国主義、同盟、帝国主義、ナショナリズムの4つの原因で説明することが多く、その頭文字をとってMAINと覚えます。この記事では、4つの原因を一つずつたどり、1914年夏の開戦までの流れを整理します。全体像は第1次世界大戦の解説ページでも確認できます。
5分でわかる第1次世界大戦の4つの原因
第1次世界大戦の原因は、ひとつの事件だけでは説明できません。ヨーロッパでは、軍備の拡張、対立する同盟網、植民地をめぐる競争、民族の誇りや独立への願いが、長い時間をかけて積み重なっていました。そこに1914年6月28日のサラエボ事件が起き、各国が次々と宣戦布告したことで、戦争は大戦へと広がりました。
言い換えると、4つの原因は「なぜヨーロッパが戦争寸前まで追い込まれていたのか」を説明し、サラエボ事件は「なぜ1914年の夏に戦争が始まったのか」を説明します。この二つをセットで覚えると、記述問題でも筋道を立てて答えやすくなります。
4つの原因(MAIN)を一つずつ見る
MAINの4つは、別々の箱に入れて考えるよりも、互いに影響し合う関係として見ると理解しやすくなります。軍備が増えると同盟の重みが増し、同盟があると小さな対立も大国どうしの問題になります。そして、植民地や民族の問題が外交の場にまで持ち込まれました。
軍国主義:軍備と軍事計画が政治を動かす
軍国主義とは、軍の考え方や軍事力が国の政策に大きな影響を与える状態を指します。1900年代以降、ドイツ、フランス、ロシアでは徴兵制によって多くの男性が軍務に就き、軍は社会の中で大きな存在になりました。軍事費も増え続けました。
もっとも分かりやすい例が、英独の海軍競争です。イギリスは1906年に新型戦艦ドレッドノートを進水させ、従来の戦艦を一気に旧式にしました。ドイツも対抗して建艦計画を進め、両国とも相手の艦隊を脅威とみなしたため、支出はさらに増えました。
軍事計画の硬直化も問題でした。ドイツのシュリーフェン・プランは、東西の二正面作戦に備えて、まずベルギーを通ってフランスを素早く破り、その後ロシアに向かう想定でした。こうした計画があると、指導者は動員が遅れることを恐れやすくなり、1914年の危機で引き返す余地が狭まりました。
同盟:小さな対立が大国どうしの戦争に広がる
1914年のヨーロッパは、大きく二つの陣営に分かれていました。1882年に結ばれた三国同盟は、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアを結びつけました。もう一方は、1894年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商によって形作られ、三国協商と呼ばれるようになりました。
同盟は、強い味方がいれば攻撃されにくくなるという発想で作られました。しかし実際には、ある国と国の対立が、同盟を通じてほかの大国まで巻き込む仕組みにもなりました。オーストリア=ハンガリーとセルビアの争いが大国どうしの戦争に発展したのは、この仕組みによるものです。
同盟の中でも、1914年7月初めのドイツの約束は重要でした。ドイツはオーストリア=ハンガリーを全面的に支持すると伝え、いわゆる「白紙委任状」を与えました。一方、三国同盟の一員だったイタリアは、1914年の開戦時には中立を選びました。同盟は、そのまま戦争の陣営と一致したわけではありません。
帝国主義:植民地と勢力圏をめぐる競争
帝国主義とは、植民地や貿易の拠点、勢力圏を広げようとする動きのことです。1884年から1885年にかけてのベルリン会議を経て、ヨーロッパの列強はアフリカの大部分を分け合いました。後から参入したドイツは、より大きな取り分を求めて各地で摩擦を起こしました。
ドイツは、ベルリンとバグダッドを結ぶ鉄道計画を進め、オスマン帝国との関係を深めました。経済的な利益は、政治的な対立とも結びついていました。イギリスやロシアにとって、この動きは自分たちの勢力圏への挑戦と受け止められることがありました。
植民地をめぐる競争は、ヨーロッパ外交にも持ち込まれました。1905年と1911年には、ドイツがモロッコをめぐってフランスと衝突し、そのたびに戦争の一歩手前まで緊張が高まりました。戦争にはならなかったものの、この危機は英仏の協力を強める結果にもなりました。
ナショナリズム:民族の誇りと独立への願い
ナショナリズムとは、民族や言語を共有する人々が自分たちの国家を持つべきだと考える思想です。大国にとっては、国の威信を守ることも重要でした。特にバルカン半島では、オスマン帝国の支配が後退し、スラブ系の人々が複数の帝国に分かれて暮らしていたため、民族どうしの対立が激しくなりました。
セルビアは南スラブ人の統一を目指し、ロシアはスラブ系の人々の保護者を名乗りました。1908年には、オーストリア=ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。セルビアの人々の多くは反発し、ドイツの圧力を受けたセルビアは引き下がりましたが、その屈辱感は地域に残りました。
さらに、1912年と1913年のバルカン戦争が、緊張をいっそう高めました。戦争を通じて各国の軍事力と民族意識が強まり、次の危機は、より大きな戦争につながりやすい状況になっていきました。
1914年6月から8月:開戦までの流れ
戦争の引き金となったのは、1914年6月28日のサラエボ事件です。オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、ボスニアの首都サラエボで、ボスニア出身のセルビア系青年ガヴリロ・プリンツィプに射殺されました。
オーストリア=ハンガリーは、事件へのセルビア政府の関与を主張して、7月23日にセルビアへ厳しい要求を突きつけました。セルビアは要求の大部分を受け入れましたが、すべてには応じませんでした。オーストリア=ハンガリーは7月28日にセルビアへ宣戦布告しました。
ここから、同盟網と動員計画が連動しました。ロシアはセルビアを支援するために動員を進め、ドイツは8月1日にロシアへ、8月3日にフランスへ宣戦布告しました。ドイツ軍が中立国ベルギーに侵入すると、8月4日にイギリスがドイツに宣戦布告しました。
多くの指導者は、戦争は短期間で、限られたものに終わると見込んでいました。しかし、西部戦線では塹壕戦が長期化し、戦争は4年以上続くことになります。開戦時の予測と現実のずれが、この戦争の大きな特徴でした。
戦争の結果:帝国の崩壊と平和条約
戦争は1918年11月の休戦で終わりました。軍人の戦死者は約900万人と推定され、民間人も飢えや病気、占領によって大きな被害を受けました。ロシア帝国は1917年の革命で帝制を失い、戦後にはドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国の体制も大きく変わりました。
1919年のヴェルサイユ条約は、ヨーロッパの地図を塗り替え、ドイツに戦争責任を負わせる条項を含みました。ただし、1914年の開戦について誰がどれだけ責任を負うのかは、今も議論が続いています。歴史家クリストファー・クラークは、英語版の書名『The Sleepwalkers』で、主要国がそれぞれ危機を深める選択をしたと論じています。
よくある誤解
- 「原因は一つだけで、どこか一国が悪かった」:実際には、複数の要因と複数の国の判断が重なっていました。
- 「全員が大戦を望んでいた」:多くの指導者は、限定的な戦争や外交上の勝利を見込んでいました。動員計画が早く進むほど、引き返すことが難しくなった点が重要です。
- 「MAINは歴史家の公式な理論」:MAINは覚えやすくするための整理の型です。4つの原因は互いに重なっているため、実際の歴史はもっと複雑です。
試験に出るポイント
大学入試の世界史では、原因、経過、結果の流れで問われることが多いため、MAINを原因を整理する型として使うと答えやすくなります。
- 4つの原因を一つずつ説明し、海軍競争、三国同盟、モロッコ事件、ボスニア併合などの具体例を添えます。
- 長期的な原因と、直接のきっかけであるサラエボ事件を区別して書きます。
- 同盟が地域の対立を大戦に広げた仕組みを、国名を挙げて説明します。
- 「どの原因が最も重要か」を問われたら、根拠を一つ選び、ほかの原因と比べながら理由を示します。
次に読む
背景をさらに広く知りたい方は、第1次世界大戦の原因とは?を読んでみてください。軍国主義について詳しく知りたい方には、軍国主義とは?第1次世界大戦へのつながりが向いています。同盟の仕組みを整理したい方は、三国同盟と三国協商の違いをお読みください。