0% • 残り9分

サラエボ事件とは?わかりやすく

10月 30, 2026
サラエボ事件とは、1914年6月28日にボスニアの首都サラエボで、大公夫妻が銃撃された出来事です。この銃撃が直接戦争を起こしたわけではありません。オーストリア=ハンガリー帝国はこれを口実にセルビアへの圧力を強め、同盟網と動員によって、数週間のうちに全面戦争へ広がりました。

シリーズ: 第一次世界大戦とは?わかりやすく(きっかけ・いつ・結果)

サラエボ事件とは?わかりやすく

基本データ

日付
1914年6月28日(日曜日)
場所
ボスニアの首都サラエボ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国の統治下)
犠牲者
フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィー(ホーエンベルク公妃)
襲撃者
ガヴリロ・プリンツィプ(19歳、ボスニア系セルビア人の学生)
使われた拳銃
ブローニングFN M1910
結果
7月23日の最後通牒、8月4日までに全面戦争へ

年表

項目をタップすると詳しく読めます。矢印キーで移動できます。

  1. 1914年6月28日 午前

    大公夫妻がサラエボに入る

    大公夫妻は、公式訪問のためにサラエボ市内へ入りました。ポティオレク総督は、沿道に軍隊を並べる案をすでに退けていました。車は屋根をたたんだ状態で走っていました。

    1914年のほかの記事:1914年の記事をもっと

  2. 1914年6月28日 午前10時10分ごろ

    車列に爆弾が投げられる

    チャブリノヴィチが車に向かって爆弾を投げました。爆弾は幌に当たって跳ね返り、後ろの車の下で爆発し、16人から20人がけがをしました。チャブリノヴィチは毒薬を飲んで川に飛び込みましたが、逮捕されました。

  3. 1914年6月28日 午前10時15分から10時45分ごろ

    市庁舎での歓迎

    サラエボ市庁舎の階段で、大公夫妻を待つ人々
    Unknown photographer, 1910s, CC0, via Wikimedia Commons

    夫妻は市庁舎で歓迎を受けました。その後、大公は爆弾で負傷した将校たちを病院に見舞うことにしました。

  4. 1914年6月28日 午前10時45分ごろ

    夫妻が車列に戻る

    夫妻は車列に戻り、大公の車は再び3台目として走り出しました。病院へ向かう新しい道順は、先頭の2台の運転手には伝わっていませんでした。

  5. 1914年6月28日 午前11時ごろ

    車が道を間違えて止まる

    先頭の2台は脇道に入り、大公の車もその後を追いました。運転手が車をバックさせようとするとエンジンが止まり、車はプリンツィプの近くで止まってしまいました。

  6. 1914年6月28日 午前11時ごろ

    プリンツィプが2発撃つ

    プリンツィプは至近距離からFN M1910拳銃で2発撃ちました。1発は大公の首に、もう1発はゾフィーの腹部に当たりました。

  7. 1914年6月28日 銃撃の直後

    プリンツィプが逮捕される

    サラエボの銃撃の後に撮られた逮捕の場面の写真
    Unknown photographer, 1910s, CC0, via Wikimedia Commons

    プリンツィプはその場で取り押さえられ、逮捕されました。写真は、銃撃の後に行われた逮捕の場面です。

  8. 1914年6月28日 午前11時30分ごろまでに

    大公夫妻が亡くなる

    ゾフィーは総督官邸に着いたときにはすでに亡くなっていました。大公はその約10分後に亡くなりました。二人の死は、午前11時30分ごろまでに確認されています。

  9. 1914年7月5日から6日

    ドイツの白紙委任状

    7月5日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオーストリア=ハンガリーの大使に、セルビアへの対抗に全面的な支持を約束しました。翌6日には正式な約束も交わされ、ウィーンは強硬な対応を計画する自信を得ました。

  10. 1914年7月23日

    最後通牒が渡される

    オーストリア=ハンガリーの公使がベオグラードで要求を提示しました。要求には、反オーストリア的な宣伝の取り締まり、民族防衛の解散、捜査へのオーストリア=ハンガリーの役人の参加が含まれていました。セルビアの回答期限は48時間でした。

  11. 1914年7月25日

    セルビアの回答と外交関係の断絶

    セルビアは要求の多くを全部または一部受け入れましたが、捜査への役人の参加は拒みました。オーストリア=ハンガリーは回答を不十分と判断し、同じ日の夕方に外交関係を断ちました。

  12. 1914年7月28日

    オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告

    この宣戦布告によって、外交上の危機は軍事的な対立に変わりました。オーストリア=ハンガリーとセルビアの戦争が始まりました。

  13. 1914年7月30日

    ロシアが総動員を命じる

    ロシアは7月下旬に部分的な動員を始めており、30日には総動員を命じました。ロシアはセルビアの保護者を自任していたため、ドイツとオーストリア=ハンガリーとの衝突の危険が一気に高まりました。

  14. 1914年8月1日から4日

    戦争がヨーロッパ全体に広がる

    8月1日、ドイツはロシアに宣戦布告し、3日にはフランスにも宣戦しました。4日にはベルギーに攻め込み、イギリスがドイツに宣戦布告しました。危機は、ヨーロッパ全体の戦争になったのです。

地図

地図をタップで拡大

  • ボスニアとセルビアの地図。1914年5月から6月にかけての襲撃者の経路を示しています

    セルビアからサラエボへ向かった共謀者たちの経路。1914年5月から6月。ベースはCentury Atlasの地図です。

    The Century Dictionary and Cyclopedia, Vol X, Map No. 89, Copyright 1897 and 1902 Drawings added by Wikipedia user en:User:Werchovsky, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1914年に拳銃と爆弾がセルビアからボスニアへ運ばれた経路を示す地図

    武器がサラエボへ届いた経路。1914年5月から6月。

    The Century Dictionary and Cyclopedia, Vol X, Map No. 89, Copyright 1897 and 1902; Cyclopedia itself, Copyright 1889, 1890, 1891...1904, The Century Co., New Yo, public domain, via Wikimedia Commons

  • 三国同盟と三国協商の陣営を示す1914年のヨーロッパ地図

    開戦直前、1914年のヨーロッパの同盟陣営。

    No machine-readable author provided. Knutux assumed (based on copyright claims), public domain, via Wikimedia Commons

5分でわかるサラエボ事件

サラエボ事件とは、1914年6月28日の日曜日、ボスニアの首都サラエボで、19歳のボスニア系セルビア人の学生ガヴリロ・プリンツィプが、オーストリア=ハンガリー帝国の推定相続人フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーを撃った事件です。二人は、午前11時30分ごろまでに亡くなりました。

推定相続人とは、いまの順位では次の皇位を継ぐ人ですが、より近い続柄の人が生まれれば、その地位が変わりうる立場のことです。大公はこの立場にあり、ハプスブルク家の支配を象徴する人物と見られていました。ボスニアの首都サラエボは、オーストリア=ハンガリーの統治のもとにある都市でした。

この銃撃が、それだけで第1次世界大戦を起こしたわけではありません。オーストリア=ハンガリー帝国は、この事件を理由にセルビアへの圧力を強めました。そして、大国どうしを結んでいた同盟が、次々と各国を戦争に引き込みました。1914年8月4日には、イギリスがドイツに宣戦布告し、全面戦争が始まりました。銃声は火種でした。燃料になったのは、対立する同盟網、軍拡競争、そしてボスニアをめぐる長い対立です。

  • 若い共謀者の小さなグループが、セルビア軍の将校から渡された武器を持ち、大公の通り道で待ち伏せしていました。
  • 最初の爆弾は大公の車の後ろの車の下で爆発しました。その後、大公の車は道を間違え、エンジンが止まって、プリンツィプのすぐ近くで止まりました。
  • 1914年7月23日のオーストリア=ハンガリーの最後通牒が、地域の危機を、わずか12日で全面戦争へと変えました。

なぜボスニアが火種になったのか

オーストリア=ハンガリー帝国は、1878年からボスニア・ヘルツェゴビナを統治し、1908年にはこの地を正式に併合しました。住民には南スラブ系の人々が多く、セルビアの民族主義者は、この地方がいつか南スラブの広い国家に加わることを望んでいました。併合は、その望みへの大きな打撃でした。ボスニアは、ウィーンとベオグラードの間で最も敏感な対立点になったのです。

学生や若い急進派は、ボスニアとベオグラードで秘密のグループを作りました。その一つのネットワークは「黒手組」と結びついていました。黒手組は、1911年にセルビア軍の将校たちが「統一か死か」という名で作った秘密結社です。その中で最も力のあった人物は、ドラグーチン・ディミトリエヴィチ、通称アピスでした。アピスは1913年から、セルビア軍参謀本部の情報部長を務めていました。黒手組と軍の情報機関とのつながりは、ウィーンがベオグラードに陰謀の責任を求める理由になりました。

大公は民族主義者にとって象徴的な標的でした。推定相続人として、大公はハプスブルク家の支配を体現していました。そして公式訪問では、公開の車で市内の通りを走ったため、少人数のグループでも近づける状況になったのです。大戦へ至る背景については、第1次世界大戦の概要も参考になります。

誰が計画し、武器はどう届いたのか

襲撃を現地で組織したのは、ダニロ・イリッチです。イリッチは若者たちを集め、武器を渡しました。襲撃に加わったのは6人で、そのうち5人は20歳未満でした。例外のメフメドバシッチは26歳か27歳でした。イリッチは、そのうち3人と一緒に、車列が通る道筋へ爆弾を配置しました。襲撃者たちは、大公の通り道のそれぞれの持ち場で待ち伏せしていました。

ボスニアとセルビアの地図。1914年5月から6月にかけての襲撃者の経路を示しています
セルビアからサラエボへ向かった共謀者たちの経路。1914年5月から6月。Century Atlasの地図を下地にしています。 The Century Dictionary and Cyclopedia, Vol X, Map No. 89, Copyright 1897 and 1902 Drawings added by Wikipedia user en:User:Werchovsky, public domain, via Wikimedia Commons

大公夫妻の訪問の数週間前、セルビア軍の少佐ヴォイスラヴ・タンコシッチが、手榴弾6個と新品のブローニングFN M1910拳銃4丁を用意しました。武器は国境を越えてボスニアへ密輸され、次の地図に示された経路で運ばれました。

1914年に拳銃と爆弾がセルビアからボスニアへ運ばれた経路を示す地図
武器がサラエボへ届いた経路。1914年5月から6月。 The Century Dictionary and Cyclopedia, Vol X, Map No. 89, Copyright 1897 and 1902; Cyclopedia itself, Copyright 1889, 1890, 1891...1904, The Century Co., New Yo, public domain, via Wikimedia Commons

1914年6月28日の出来事を時刻順に

6月28日の朝、大公夫妻は公式訪問のためにサラエボに入りました。ポティオレク総督は、沿道に軍隊を並べる案を退けていました。大公の車は屋根をたたんだ状態で走っていました。この日の出来事は、朝の歓迎から昼前の銃撃まで、わずか数時間の間に起きました。計画どおりに進まないことが重なり、車が予定外の道に入って止まったことが、襲撃者に思いがけない機会を与えました。

午前10時10分ごろ:最初の爆弾

車が近づくと、ネデリコ・チャブリノヴィチが車に向かって爆弾を投げました。爆弾は折りたたんだ幌に当たって跳ね返り、後ろの車の下で爆発しました。16人から20人がけがをしました。チャブリノヴィチは青酸カプセルを飲んでミリャツカ川に飛び込みましたが、川の水は浅く、彼は引き上げられて逮捕されました。

午前10時15分から10時45分ごろ:市庁舎と予定の変更

夫妻は市庁舎で歓迎を受けました。その後、大公は爆弾でけがをした将校たちを、病院に見舞うことにしました。ポティオレクは病院への別の道順を決めていましたが、先頭の2台の運転手には、その変更が伝わっていませんでした。午前10時45分ごろ、夫妻は車列に戻り、大公の車は再び3台目として走り出しました。

11時少し前:道の間違いと止まった車

先頭の2台は、本来の予定どおり脇道へ右折しました。大公の車もその後を追いました。運転手が車をバックさせようとすると、エンジンが止まりました。車は、川沿いの通りと脇道の角にあるデリカテッセンのそばに立っていたプリンツィプのすぐ近くで止まりました。

午前11時ごろ:二発の銃声

プリンツィプは車に近づき、至近距離からFN M1910拳銃で撃ちました。1発は大公の首に、もう1発はゾフィーの腹部に当たりました。プリンツィプはその場で取り押さえられ、逮捕されました。少し離れた場所には、ミリャツカ川にかかるオスマン帝国時代の石橋、ラテン橋があります。

11時30分ごろまでに:二人の死

夫妻は総督官邸へ運ばれました。ゾフィーは到着したときにはすでに亡くなっていました。大公も、その約10分後に亡くなりました。二人の死は、午前11時30分ごろまでに確認されています。

7月危機:銃撃から戦争まで

ウィーンはセルビアに行動を起こしたいと考えていましたが、まずベルリンの支持を確かめる必要がありました。1914年7月5日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ベルリンにいたオーストリア=ハンガリーの大使に全面的な支持を約束しました。正式な約束は7月6日に続き、ウィーンは強硬な対応を計画する自信を得ました。歴史家は、この約束を「白紙委任状」と呼びます。ウィーンが何を選んでも、ベルリンが後押しするという意味です。

7月23日、オーストリア=ハンガリーのベオグラード公使が、セルビアに最後通牒を手渡しました。最後通牒とは、受け入れなければ行動に出ると期限を付けて突きつける、最後の要求のことです。この要求は、反オーストリア的な宣伝をやめること、民族主義団体「ナロドナ・オドブラナ」を解散させること、事件に関わった人々を逮捕すること、武器の密輸を止めること、そしてオーストリア=ハンガリーの役人が捜査に加わることを認めることでした。セルビアの回答期限は48時間で、7月25日の午後6時でした。48時間という期限は短く、じっくり検討する時間はほとんどありませんでした。

7月25日、セルビアは回答しました。要求の多くを全部または一部受け入れましたが、オーストリア=ハンガリーの役人がセルビアの国内で捜査に加わることだけは拒みました。オーストリア=ハンガリーは回答を不十分と判断し、その日の夕方に外交関係を断ちました。

7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告しました。ロシアはセルビアの保護者を自任し、7月下旬に部分的な動員を始め、30日には総動員を命じました。

8月1日から4日にかけて、戦争はヨーロッパ全体に広がりました。ドイツは8月1日にロシアに、3日にフランスに宣戦布告し、4日にはベルギーに攻め込みました。ベルギーの中立を保障していたイギリスは、同じ4日にドイツに宣戦布告しました。サラエボの通りでの銃声から始まった危機は、こうして全面的な戦争になったのです。

なぜ一発の銃声が世界大戦になったのか

同盟の仕組みが、危機を広げる働きをしました。ドイツとオーストリア=ハンガリーは同盟で結ばれ、イタリアもこの三国同盟の一員でしたが、1914年にはこの側で参戦しませんでした。フランス、ロシア、イギリスは三国協商で結ばれていました。そのため、二国間の争いが、それぞれの陣営の味方を引き込みやすかったのです。くわしくは三国同盟と三国協商を比べた解説をご覧ください。

三国同盟と三国協商の陣営を示す1914年のヨーロッパ地図
開戦直前、1914年のヨーロッパの同盟陣営。 No machine-readable author provided. Knutux assumed (based on copyright claims), public domain, via Wikimedia Commons

軍国主義も、危機のペースを速めました。各国の軍には詳しい動員計画があり、いったん動員が始まると、指導者たちは、止めれば不利になると感じやすくなりました。くわしくは軍国主義が大戦へつながった流れを解説した記事をご覧ください。

ウィーンは、セルビアのナショナリズムを、多くの南スラブ系の臣民を抱える帝国への脅威と見ていました。ロシアはセルビアの保護者を自任し、ドイツは同盟国を支えました。各国は、相手の動きを脅威として読み取っていたのです。

事件がなかったら戦争は起きなかったのか

1914年をやり直すことはできないため、答えを証明することはできません。対立も同盟もすでに強まっており、ウィーンには、セルビアを強く抑え込みたいと考える人たちもいました。それでも、銃撃はオーストリア=ハンガリーにその時期に行動する口実を与えました。そのため歴史家は、事件を戦争の「引き金」と呼ぶのが一般的です。唯一の原因ではないと考えられています。

新聞は事件をどう伝えたか

挿絵入りの新聞が、事件をヨーロッパ各地へ伝えました。イタリアの週刊誌『ドメニカ・デル・コッリエーレ』は、1914年の27号の表紙に、アキッレ・ベルトラメの絵を載せました。フランスの『ル・プティ・ジュルナル』は、1914年7月12日付の挿絵入りの付録で、銃撃の場面を伝えました。こうした絵は、サラエボから遠く離れた読者にも事件の衝撃を届けました。

関係者のその後

ここで取り上げる関係者の多くは、戦争が続く間に亡くなりました。サラエボでの裁判は1914年10月12日から23日まで行われ、25人が起訴されました。判決と刑は10月28日に言い渡されました。

  • ガヴリロ・プリンツィプは、当時の法律で死刑が認められる最低年齢である20歳に27日足りなかったため、禁固20年の判決を受けました。1918年4月28日、テレジエンシュタットの要塞監獄で結核のため亡くなりました。
  • ネデリコ・チャブリノヴィチも禁固20年の判決を受け、1916年1月に刑務所で結核のため亡くなりました。
  • ダニロ・イリッチは、1915年2月3日に絞首刑になりました。
  • ドラグーチン・ディミトリエヴィチ(アピス)は、1917年にサロニカで裁判を受け、同年6月26日に銃殺されました。
  • オスカル・ポティオレクは、事件の日に大公の車に同乗していました。1933年にクラーゲンフルトで亡くなりました。

大公夫妻が乗っていた車は、1911年製のグレフ&シュティフト社のオープンカー(ダブルファエトン)で、現在はウィーンの軍事史博物館に展示されています。

試験に出るポイント

  • 引き金と原因を分けて考えましょう。銃撃は引き金でした。その奥にある原因は、同盟網、軍国主義、ナショナリズム、バルカン半島をめぐる列強の対立です。
  • 時系列を正確に並べられるようにしましょう。銃撃、白紙委任状、最後通牒、宣戦布告、総動員の順番を押さえてください。7月23日、7月28日、8月4日の三つの日付を覚えると、流れがつかみやすくなります。
  • 地名と人名を整理しましょう。大公、ゾフィー、プリンツィプ、ボスニア、セルビア、黒手組の関係を結び付けて覚えると、説明問題で役立ちます。
  • 両方の立場から論じましょう。論述問題では、戦争は避けられなかったのかと問われることがあります。同盟の仕組みと7月の決定を根拠に、両方の見方を示せると答案が強くなります。

次に読む

軍と部隊

  • 人物

    オーストリア=ハンガリー帝国

    フランツ・フェルディナント大公

    オーストリア=ハンガリー帝国の推定相続人で、1863年にグラーツで生まれました。ボスニア訪問中に襲撃され、事件の主な標的でした。

  • 人物

    オーストリア=ハンガリー帝国

    ゾフィー・ホーエンベルク公妃

    大公の妻で、1868年に生まれました。1909年に「ホーエンベルク公妃」の称号を与えられていました。車内で撃たれ、総督官邸に着いたときにはすでに亡くなっていました。

  • 1914年、獄中で撮影されたガヴリロ・プリンツィプの頭部写真(illustration・イラスト) 人物 イラスト

    青年ボスニア

    ガヴリロ・プリンツィプ

    19歳のボスニア系セルビア人の学生で、至近距離から2発撃ちました。射撃の時点で20歳に27日足りず、死刑は免れました。1918年に刑務所で結核のため亡くなりました。

    Illustration after Unknown photographer, public domain · 元の画像

  • 人物

    青年ボスニア

    ネデリコ・チャブリノヴィチ

    午前10時10分ごろ、最初の爆弾を投げた人物です。毒薬を飲んでミリャツカ川に飛び込みましたが、助け出されて逮捕されました。1916年1月に刑務所で亡くなりました。

  • 人物

    青年ボスニア

    ダニロ・イリッチ

    襲撃グループを組織し、若者を集めて武器と爆弾を用意しました。1915年2月3日に絞首刑になりました。

  • 1900年ごろのセルビア軍将校ドラグーチン・ディミトリエヴィチ(アピス)の肖像(illustration・イラスト) 人物 イラスト

    セルビア(黒手組)

    ドラグーチン・ディミトリエヴィチ(アピス)

    1913年からセルビア軍参謀本部の情報部長を務め、黒手組の中心人物の一人でした。1917年にサロニカで裁判を受け、同年6月26日に銃殺されました。

    Illustration after Unknown author, public domain · 元の画像

  • 人物

    オーストリア=ハンガリー帝国

    オスカル・ポティオレク

    ボスニア・ヘルツェゴビナの総督で、事件の日に大公の車に同乗していました。襲撃を生き延び、1933年にクラーゲンフルトで亡くなりました。

  • サラエボ事件で使われたグレフ&シュティフト社の公開型ツーリングカーを、ウィーンの博物館で描いたもの(illustration・イラスト) 品物 イラスト

    オーストリア=ハンガリー帝国

    1911年製グレフ&シュティフト社のツーリングカー

    大公夫妻が撃たれた公開型の車です。現在はウィーンの軍事史博物館に展示されています。

    Illustration after Pappenheim, public domain · 元の画像

  • サラエボのミリャツカ川にかかるラテン橋。2011年に撮影された写真をもとにしています(illustration・イラスト) 建築 イラスト

    ボスニア

    ラテン橋(サラエボ)

    ミリャツカ川にかかるオスマン帝国時代の石橋で、プリンツィプが立っていた場所からほど近いところにあります。

    Illustration after Jennifer Boyer, CC BY 2.0 · 元の画像

  • 大公夫妻が襲撃された場面を描いた、イタリアの新聞の表紙 作品

    イタリア(新聞)

    イタリアの週刊誌『ドメニカ・デル・コッリエーレ』の表紙

    アキッレ・ベルトラメが描いた表紙で、1914年の27号に掲載されました。襲撃の場面が描かれています。

    Achille Beltrame, public domain, via Wikimedia Commons

  • サラエボで大公夫妻が撃たれた場面を描いた、フランスの挿絵入り付録の表紙 作品

    フランス(新聞)

    フランスの『ル・プティ・ジュルナル』付録

    1914年7月12日付の挿絵入りの付録で、サラエボでの銃撃の場面を伝えています。

    Le Petit Journal, public domain, via Wikimedia Commons

  • 1914年6月28日、サラエボ市庁舎の前で車に乗り込むフランツ・フェルディナント大公とゾフィー 作品

    オーストリア=ハンガリー帝国

    市庁舎前で車に乗る大公夫妻

    1914年6月28日、サラエボの市庁舎の前で、車に乗り込む夫妻を写した写真です。この直後に襲撃されました。

    Walter Tausch (1914), public domain, via Wikimedia Commons

よくある質問

サラエボ事件はなぜ起きたのですか?

ボスニアは1908年にオーストリア=ハンガリー帝国に正式に併合され、セルビアの民族主義者はこれに強く反発していました。推定相続人の大公は、この統治の象徴と見なされ、公式訪問中の車で狙われました。襲撃グループは、セルビア軍の少佐タンコシッチから武器を受け取っていました。

事件はいつ、どこで起きたのですか?

1914年6月28日の日曜日、ボスニアの首都サラエボの街なかです。最初の爆弾は午前10時10分ごろに投げられ、大公の車の後ろの車の下で爆発しました。銃撃は午前11時ごろで、道を間違えた車のエンジンが止まった場所で起きました。

サラエボ事件が第1次世界大戦を始めたのですか?

引き金にはなりましたが、唯一の原因ではありません。オーストリア=ハンガリー帝国は事件を理由にセルビアへの圧力を強め、同盟網によって各国が次々と参戦しました。1914年8月4日には、イギリスがドイツに宣戦布告し、大国は全面戦争に入りました。

プリンツィプはどうなったのですか?

射撃の時点で19歳で、死刑が認められる最低年齢の20歳に27日足りませんでした。1914年10月の裁判で禁固20年を言い渡され、1918年4月28日にテレジエンシュタットの要塞監獄で結核のため亡くなりました。

なぜオーストリア=ハンガリーは、すぐ宣戦せずに最後通牒を出したのですか?

ウィーンはセルビアを罰したいと考えていましたが、まずドイツの支持を確かめました。7月5日と6日に白紙委任状を得てから、23日に最後通牒を出しました。セルビアは要求の多くを受け入れたものの一部を拒んだため、7月28日に宣戦布告しました。

理解度チェック

答えを選ぶと、正解かどうかがわかります。

  1. 大公夫妻を撃ったのは誰ですか?

  2. 1914年7月23日に最後通牒をセルビアに出したのは、どの国ですか?

  3. ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアを結んだ同盟はどれですか?

  4. 「白紙委任状」とは何ですか?

  5. 1914年7月に、オーストリア=ハンガリーが最初に宣戦布告した相手はどこですか?

「第一次世界大戦への道」の関連記事

このテーマのまとめページへ →
共有:

著者について

Alex Ng
Alex Ng

Software Engineer & Writer

Software engineer with a passion for distilling complex ideas into actionable insights. Writes about finance, investment, entrepreneurship, and technology.

続きを読む →

続けて読む

このテーマを探る: 第一次世界大戦への道

記事

第一次世界大戦のきっかけと原因

第一次世界大戦のきっかけと原因

第1次世界大戦(第一次世界大戦)は、1914年6月28日のサラエボ事件をきっかけに始まりました。ただし、事件は火種にすぎません。同盟網や軍…

ベトちゃんドクちゃんとは:分離手術と日本とのつながり

ベトちゃんドクちゃんとは:分離手術と日本とのつながり

ベトちゃんドクちゃんは、1981年にベトナムで体がつながった双子として生まれた兄弟です。1988年にベトナムで分離手術を受けました。日本の…

ベトナム戦争と日本:沖縄・ベトナム特需・反戦運動

ベトナム戦争と日本:沖縄・ベトナム特需・反戦運動

ベトナム戦争と日本は、沖縄などの米軍基地、戦争に伴う特需、市民の反戦運動を通じて深く結びついていました。自衛隊はベトナムで戦闘に参加してい…

東遊運動(ドンズー運動)とは:日本に学んだベトナムの青年たち

東遊運動(ドンズー運動)とは:日本に学んだベトナムの青年たち

ドンズー運動(東遊運動)とは、フランスの植民地支配からの独立を目指し、ベトナムの青年を日本へ留学させた運動です。ファン・ボイ・チャウらが進…

パリ和平協定(1973年)とは:アメリカ撤退とその後

パリ和平協定(1973年)とは:アメリカ撤退とその後

パリ和平協定は、1973年にベトナム戦争の停戦とアメリカ軍の撤退などを定めた協定です。米軍の直接の戦闘参加は終わりましたが、南ベトナムの政…

ジュネーブ休戦協定(1954年)とは:北緯17度線で分かれたベトナム

ジュネーブ休戦協定(1954年)とは:北緯17度線で分かれたベトナム

1954年のジュネーブ休戦協定は、フランスとベトミンの戦闘を止め、北緯17度線付近に暫定的な軍事境界線を設けました。統一選挙は1956年に…

要約