第一次世界大戦は、1914年6月28日にサラエボで起きた暗殺事件をきっかけに始まりました。しかし、戦争は一発の銃声だけで決まったわけではありません。6月末から8月初めまでの約一か月余りの外交危機、いわゆる七月危機の中で、宣戦布告と動員が次々と重なり、ヨーロッパの大国が戦争に入っていきました。
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短く答えると、サラエボの事件を受けて、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦したことが引き金でした。そこに、各国の同盟関係と軍の動員計画が重なり、局地的な争いが約一週間でヨーロッパ全体の戦争に広がりました。8月4日までに、ドイツはロシアとフランスに宣戦し、イギリスはドイツに宣戦していました。
背景:緊張の続くヨーロッパ
1914年のヨーロッパは、大きく二つの陣営に分かれていました。ドイツとオーストリア・ハンガリー帝国は同盟を結び、フランスとロシアも同盟を結んでいました。イギリスはフランスやロシアと友好的な協定を結んでいましたが、正式な同盟国ではありませんでした。
特に危険な場所が、バルカン半島です。1912年と1913年のバルカン戦争で、セルビアは領土を大きく広げ、自信を強めました。多くの南スラブ系の人々を国内に抱えるオーストリア・ハンガリー帝国は、セルビアの民族主義が自国内の不満をあおることを恐れていました。
秘密組織の存在も、緊張を高めました。サラエボでの襲撃に加わった若者たちは、セルビア軍の将校らが関わっていた秘密組織「黒手組」から、武器などの支援を受けていました。ウィーンは、こうした組織の活動をセルビア政府の責任と見なすようになります。
軍備の拡大も緊張を高めました。各国の軍は、動員の日程を細かく定めていました。ドイツのシュリーフェン計画は、中立国ベルギーを通って素早くフランスを破り、その後東のロシアに向かうという考え方でした。計画の前提は速さだったので、ロシアが動員すると、ドイツの指導部は時間を失うことを恐れるようになりました。
七月危機とは:日ごとの流れ
6月28日。ボスニアの首都サラエボで、オーストリアの帝位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーの車列が狙われました。その朝には、別の青年が投げた爆弾が大公の車に当たって跳ね返り、後ろの車の近くで爆発していました。病院を見舞った後、運転手が道を間違えて車が止まったところで、ボスニア出身のセルビア系青年ガヴリロ・プリンツィプが二人を撃ち、二人とも亡くなりました。
7月初め。ウィーンの政府は、この事件の背後にセルビア政府がいると判断していました。そこでオーストリアは、ドイツの意向を確かめます。ドイツのヴィルヘルム2世は、オーストリアがどう動いても支持するという約束を与えました。これは「白紙小切手」と呼ばれています。
7月23日。オーストリア・ハンガリー帝国は、セルビアに最後通牒を突きつけました。要求は10項目で、回答期限は48時間でした。その中には、オーストリアの役人がセルビア国内の捜査に加わることを認めさせる項目もありました。内容からして、セルビアが全面的に受け入れるのは難しいものでした。
7月25日。セルビアは、大部分の要求を受け入れると回答しました。ただし、オーストリア役人の関与だけは拒否しました。ウィーンはこの回答を不十分だとして、同じ日にセルビアとの外交関係を断ちました。同じ日、ロシアも、オーストリアに対抗するための動員の準備を始めました。
7月26日。イギリスの外相エドワード・グレイは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアによる会議を提案し、事態を収めようとしました。しかし、ドイツはこの提案を拒否しました。
7月28日。オーストリア・ハンガリー帝国が、セルビアに宣戦布告しました。翌29日には、ベオグラードへの砲撃が始まります。まだヨーロッパ全体の戦争にはなっていません。しかし、ここから動員の連鎖が一気に進みます。
7月30日から31日。ロシアは全面的な動員を命じました。ドイツの計画では、東の動員が続くなら、西のフランスを先に攻めなければならないとされていました。7月31日、ドイツはロシアに、動員を止めるよう求める最後通牒を出します。同じ7月31日、フランスの社会党指導者ジャン・ジョレスが、パリで暗殺されました。ジョレスは戦争に反対し、各国の労働者の連帯を訴えていた人物です。その死によって、反戦の声は大きな支えを失いました。
8月1日から4日。ドイツは8月1日にロシアへ、8月3日にフランスへ宣戦布告しました。8月4日には、ドイツ軍が中立国ベルギーに侵入します。イギリスは、1839年の条約でベルギーの中立を守る立場にありました。ベルギーの中立が破られたことは、イギリスの参戦を決める大きな理由になりました。そのため、8月4日、イギリスはドイツに宣戦します。
8月6日。オーストリア・ハンガリー帝国が、ロシアに宣戦布告しました。主要な大国の多くが戦争状態に入ったのは、この時点です。イタリアは当初参戦せず、1915年に連合国側で加わりました。
結果:一つの危機から世界大戦へ
七月危機の数週間で、バルカンの地域紛争は、ヨーロッパ全体の戦争に変わりました。西部戦線では、やがて塹壕を掘った長期戦となり、戦争は1918年11月まで続きました。
戦争は、総力戦という形になりました。国全体の工業力や、社会全体の動員が、どこまで戦い続けられるかを左右したのです。戦死者は、軍人だけでおよそ1,000万人前後と見積もられています。民間人の犠牲も大きく、飢えや病気、占領の影響は社会全体に及びました。
戦争は、参戦した帝国の多くを崩壊させました。ロシア帝国は1917年の革命で倒れ、ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国は1918年に解体されました。オスマン帝国は1922年に消滅しました。
七月危機は、国際的な外交が、動員と宣戦布告の連鎖の中で、わずか一か月ほどで機能しなくなった出来事です。
なぜ一か月で戦争まで進んだのか
七月危機が速く進んだ理由は、主に三つあります。一つ目は、動員の仕組みです。軍を動かすには、鉄道や補給の準備が必要で、一度始めた動員は簡単に止められませんでした。動員を始めることは、相手からは戦争の準備と受け取られやすかったのです。
二つ目は、外交に使える時間の短さです。オーストリアの最後通牒は48時間の期限を区切り、その間に話し合いが進む余地は限られていました。イギリスのグレイ外相の会議案も、ドイツの拒否によって実現しませんでした。
三つ目は、政治的な圧力です。各国の指導者は、弱腰と見られることを恐れていました。ヴィルヘルム2世とニコライ2世、両皇帝の間では電報のやりとりが続き、平和への努力も見られました。しかし、軍の計画と世論が、その努力を上回るスピードで進んでいったのです。
誰に責任があったのか
戦争の責任を一つの国だけに求めると、七月危機の流れを見落としてしまいます。各国の指導者は、そのときの状況で妥当と思える判断を下しました。しかし、それが重なった結果、どの国も想定していなかった規模の戦争につながりました。
とくに重要だったのは、いくつかの判断です。ウィーンは、受け入れにくい最後通牒を出し、セルビアとの開戦に踏み切りました。ベルリンは、白紙小切手でウィーンを支えました。サンクトペテルブルクは、全面的な動員によって、ドイツとの戦争の可能性を一気に高めました。パリは、ロシアとの同盟に沿って支持を続けました。
七月危機を読み解くうえでは、各国の判断が、相手の次の動きへの恐れによって積み重なっていったと考えると理解しやすくなります。
試験に出るポイント
七月危機は、入試で出題されやすいテーマです。次の点を整理しておくと、答案が書きやすくなります。
- きっかけと原因を分けること。サラエボの暗殺はきっかけで、同盟、軍備、帝国どうしの対立、民族主義は背景にある原因です。
- 独墺同盟と露仏同盟が、局地的な紛争を大国どうしの戦争に変えた理由。
- 動員の日程やシュリーフェン計画が、外交の選択肢をどのように狭めたか。
- 「白紙小切手」が、オーストリアの強硬な姿勢をどのように後押ししたか。
- イギリスがベルギーの中立を理由に参戦した経緯。
論述では、七月危機の各段階を時系列で示したうえで、どの判断が決定的だったのかを自分の言葉で説明すると、説得力が出ます。
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