5分でわかる:シュリーフェン計画とは
シュリーフェン計画は、ドイツ帝国陸軍が「二正面作戦」を避けるために立てた作戦構想です。東のロシアと西のフランスを同時に相手にしないため、まずフランスを約6週間で倒し、そのあと兵力を東へ回す、というのが基本の考えでした。フランス国境の強固な防備を避けるため、中立国ベルギーを通って大きく迂回する点が特徴です。実際の戦争では、1914年9月のマルヌ会戦で進撃が止まり、西部戦線は長い塹壕戦に変わっていきました。
第一次世界大戦(第1次世界大戦)の大きな流れは、第一次世界大戦の原因・経過・結末で整理しています。計画がなぜ生まれ、なぜ失敗したのかを先に押さえると、戦争全体が読みやすくなります。
なぜドイツは二正面作戦を恐れたのか
19世紀末のドイツは、東のロシアと西のフランスという二つの大国に挟まれていました。1892年には露仏の軍事協定が結ばれ、どちらか一方がドイツと戦えば、もう一方も動く形になりました。ドイツが両方を同時に相手にすれば、勝ち目はぐっと小さくなります。
ロシアは国土が広く、兵力も多い国でした。その一方で、大軍を集めて前線へ運ぶには時間がかかると見られていました。そこでドイツの参謀本部は、ロシアの準備が整う前に西で決着をつける方法を考えました。
作戦を考えた人物:アルフレート・フォン・シュリーフェン
アルフレート・フォン・シュリーフェン(1833〜1913年)は、1891年から1906年まで参謀総長を務めたドイツの軍人です。参謀総長とは、陸軍の作戦計画を立てる参謀本部の最高責任者のことです。
シュリーフェンが手本にしたのは、紀元前216年のカンネーの戦いでした。少数のハンニバル軍が大きなローマ軍を両側から包み込み、壊滅させた戦いです。シュリーフェンは、この包囲殲滅(せんめつ)を近代の大軍で再現しようと考えました。
1905年の覚書に描かれた作戦
シュリーフェンは1905年12月ごろ、退任を前にして、作戦の骨格をまとめた覚書を残しました。後に「シュリーフェン計画」と呼ばれるようになる考え方の、もとになった文書です。
覚書の中心は、右翼(ドイツ軍の右側に置く大部隊)を強くすることでした。右翼はベルギーとフランス北部を広く進み、パリの西側を回り込みます。そこから向きを変えて、フランス軍を東の国境付近へ押しつけ、包み込もうとする構想です。左翼はアルザス・ロレーヌ方面でフランス軍を引きつける役目でした。
戦いの勝負は、速さにかかっていました。ロシアが動き出す前にフランスを倒すため、約6週間での決着が目標とされました。進路を文字で追うと、ベルギーからフランス北部を南下し、パリの西側を回り込んで、そこから東へ向きを変える形です。
シュリーフェン計画の要点を三つにまとめる
- フランスを約6週間で倒す。
- ベルギーを通って大きく迂回し、パリの西側から敵を包む。
- 西での勝利のあと、東のロシアへ兵力を移す。
この三つが組み合わさって、一つの作戦になっていました。どこか一つでも時間がずれると、全体が崩れる仕組みです。だからこそ、速さが何より重視されたのです。
ベルギーの中立が破られた理由
ベルギーは1839年のロンドン条約で中立が保障された国でした。イギリスもその保障国の一つです。フランス国境は要塞と防御線で固められていたため、ドイツ軍が正面から攻めるのは大きな損害を伴うと考えられていました。
迂回のルートとしてベルギーを使うことは、条約違反であり、イギリスが参戦する大きな理由になりました。ドイツの作戦が速さを重視したことは、中立国を踏み越える判断にもつながったのです。
1914年、計画はどう動いたか
1914年8月1日、ドイツはロシアに宣戦布告し、3日にはフランスにも宣戦布告しました。4日、ドイツ軍はベルギーへ侵入し、イギリスは同日にドイツへ宣戦しました。
ベルギー側はリエージュの要塞で抵抗し、約10日間にわたって進撃を遅らせました。要塞の最後の砦が落ちたのは、8月中旬のことです。この遅れで、計画の時間表は少しずつ狂い始めました。ベルギーの村や町では、ドイツ軍による住民の処刑や建物の焼き払いも起きました。この出来事は、イギリス国内の世論にも強い影響を与えました。
8月23日には、ベルギー南部のモンスでイギリス遠征軍とドイツ軍が交戦しました。イギリス軍は後退しましたが、ドイツ軍も損害を重ね、前進の勢いは落ちていきました。
9月上旬、ドイツ軍はパリの近くまで迫りました。しかし、第1軍と第2軍のあいだに隙間が生まれ、フランス軍とイギリス軍がそこを突いて反撃します。これがマルヌ会戦です。ドイツ軍はエーヌ川まで退き、パリの占領は実現しませんでした。
9月14日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は参謀総長のモルトケを更迭し、後任にファルケンハインを任命しました。その後、両軍は北へ回り込もうとする競争を続け、北海からスイス国境まで塹壕が続く戦線が固まりました。
小モルトケが書き換えた計画
シュリーフェンは1906年に退任し、後任は小モルトケ(ヘルムート・フォン・モルトケ)でした。小モルトケは、同名の大モルトケの甥にあたる人物です。
小モルトケは、右翼を強くするという基本の考えは残しました。しかし、右翼から兵力を抜き、アルザス・ロレーヌや東プロイセンの守りに回しました。そのため、右翼の包囲は規模も力も小さくなりました。さらに、オランダの中立は侵さないことにしました。
つまり、1914年に実際に動いた計画は、シュリーフェンが描いた形とは違うものでした。それでも名前は「シュリーフェン計画」として残り、今も教科書などでこの名で語られています。
計画どおりに進まなかった理由
いくつかの問題が重なりました。第一に、ベルギーの抵抗で進撃が遅れました。第二に、イギリス遠征軍がフランスに上陸し、ドイツ軍の前進を妨げました。第三に、ロシアが予想より速く動員し、8月には東プロイセンへ攻め込みました。
ドイツは東部の防衛のため、西部から一部の部隊を東へ送りました。右翼の力は、マルヌに着いた時点で計画が求めた水準を下回っていたのです。命令は電信や電話、伝令で伝えられましたが、前線と司令部の連絡が遅れ、部隊の位置を正確につかめない場面もありました。
さらに、長い行軍と補給の遅れで、ドイツ軍の前線は疲れていました。計画が求めた速さで決着をつけることはできず、戦争は6週間では終わりませんでした。以後4年あまり、西部戦線は膠着状態が続きます。
「6週間」という数字の意味
6週間という目安は、東西の両方で戦うことを避けるための、現実的な時間の見積もりでした。ドイツは鉄道を使えば兵を素早く移せる国でしたが、西での戦いが長引けば、東へ兵を戻す時期も遅れます。
そのため、西部戦線でフランスを撃破し、そのあと東へ向かうという順番が、計画の要でした。ロシアの動員を待つ余裕がないからこそ、西での決着は早くなければならなかったのです。
この計画が後世に残したもの
シュリーフェン計画は、ドイツがなぜ早期決着を狙ったのか、そしてベルギーがなぜ大問題になったのかを理解する手がかりです。東西の二正面に挟まれる不安が、戦前のドイツの戦略を強く動かしていたことも示しています。
計画が行き詰まったあとは、塹壕を掘って守る戦いが主流になりました。その様子は塹壕戦(第一次世界大戦)で詳しく説明しています。また、ドイツの指導者たちの判断は第一次世界大戦のドイツとヴィルヘルム2世で扱っています。
軍国主義の考え方が、こうした作戦の背景にあったことも見逃せません。くわしくは軍国主義とは:第一次世界大戦への道を読んでみてください。
試験に出るポイント
世界史の試験では、計画が失敗した理由、ベルギー侵攻がイギリスの参戦につながった理由、小モルトケによる変更点がよく問われます。答えるときは、二正面作戦への不安、1892年の露仏の軍事協定、1914年のマルヌ会戦の三つを結びつけると筋が通ります。
年号は、1905年(覚書)、1914年8月4日(ベルギー侵攻)、1914年9月(マルヌ会戦)の三つを押さえておくと安心です。
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