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バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたのは、狭い地域に複数の帝国、独立を目指す民族や国々、そして大国どうしの対立が集中していたからです。どこか一か所で争いが起きると、大国を巻き込む第一次(第1次)世界大戦に発展しかねません。その危うさを表した言葉です。この記事は、第一次世界大戦の全体像の一部として、その流れを整理します。
「火薬庫」は、火薬をしまっておく倉庫のことです。転じて、少しの火花で爆発しかねない場所を指します。外交上の正式な用語ではなく、バルカン半島の危険な状況を一言で表すための比喩です。この言葉が長く使われたのは、地域の危険が一度の事件では終わらなかったからです。
原因:バルカン半島はなぜ火薬庫になったのか
原因は、大きく三つに分けると理解しやすくなります。民族の問題、オスマン帝国の衰え、そして大国の対立です。それぞれが別々の問題に見えますが、実際には互いに絡み合っていました。
地理も対立を深めました。バルカン半島は山がちで、谷ごとに交通が分かれている地域が多く、中央の権力が地方を直接おさえることが難しい場所でした。
一つ目は民族の問題です。バルカン半島には、セルビア人、ブルガリア人、ギリシア人、ルーマニア人、アルバニア人、ボスニアのムスリムなど、さまざまな人々が入り混じって暮らしていました。どの民族も自分たちの国家や土地を求めていたため、要求はしばしばぶつかりました。宗教も正教、カトリック、イスラム教と分かれており、言葉や習慣もそれぞれ違っていました。民族と宗教が一致しない場所では、一つの村をめぐる争いが、やがて地方全体の問題に広がりやすかったのです。
二つ目はオスマン帝国の衰えです。かつてバルカン半島の大部分を支配していたオスマン帝国は、19世紀になると、各地の反乱や独立運動を抑えきれなくなりました。ギリシアは1830年に独立し、セルビアも自治を広げていきます。帝国の支配が弱まると力の空白が生まれ、その空白を地元の反乱勢力と外部の大国が埋めようとしました。
三つ目は大国の対立です。オーストリア=ハンガリーは、南の国境近くに強いスラブ系の国ができることを警戒しました。一方、ロシアは正教徒のスラブ人を守る保護者を自任し、セルビアを支えます。ドイツはオーストリア=ハンガリーの後ろ盾になり、イタリアとともに三国同盟を結びました。イギリスとフランスは、ロシアとともに三国協商を構成していました。バルカン半島は、これらの思惑が直接ぶつかる場所だったのです。
1878年:ベルリン会議という「ねじれ」
1878年、ロシアとオスマン帝国の戦争の後に、ベルリン会議が開かれました。この会議で、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立が国際的に認められます。一方で、オーストリア=ハンガリーにはボスニア・ヘルツェゴヴィナを統治する権限が与えられました。ただし、この土地は形式上はオスマン帝国の領土のままでした。統治する国と名目上の主権国が違うという、あいまいな状態が生まれたのです。この「ねじれ」が、30年後の危機の火種になりました。
この会議の結果は、バルカン各国の期待と一致しませんでした。サン・ステファノ条約で大きくなるはずだったブルガリアは、ベルリン会議で領土を大きく削られます。この不満は、のちにブルガリアの行動に影響しました。
1908年:ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合
1908年10月、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を正式に宣言しました。同じ週に、ブルガリアも完全な独立を宣言しています。この年の7月には、オスマン帝国で青年トルコ革命が起き、立憲体制が復活していました。併合のタイミングは、この政変との関係がよく指摘されます。ロシアは国際会議で問題を話し合うことを求めましたが、会議は開かれませんでした。
併合は、既成事実として世界に突きつけられました。大国が話し合いで決めたわけではないため、各国の不信感が残りました。
最も強く反発したのはセルビアです。ボスニアには多くのセルビア人が住んでいて、セルビアは南スラブ人の統一を目指していたからです。ロシアはセルビアを外交面で支えましたが、戦争をする準備は整っていませんでした。ドイツはオーストリア=ハンガリーを支持し、セルビアは結局、1909年3月に併合を受け入れます。この屈辱は、セルビアの民族主義を強め、オーストリア=ハンガリーへの敵意を育てました。秘密結社が生まれたのも、この時期の空気の中です。
1912〜1913年:二度のバルカン戦争
1912年10月、セルビア、ブルガリア、ギリシア、モンテネグロの四か国が「バルカン同盟」を結び、オスマン帝国に宣戦しました。これが第一次(第1次)バルカン戦争です。背景には、オスマン帝国の弱体化を前に、各国がその残された領土の分け前を先取りしようとする焦りがありました。戦争の結果、オスマン帝国はヨーロッパ側の領土の大部分を失いました。同じ年の11月にはアルバニアが独立を宣言します。オーストリア=ハンガリーとイタリアがこれを支持したことで、セルビアはアドリア海へ出る道を断たれました。
勝った同盟国どうしは、戦利品の分配をめぐって対立します。1913年5月30日のロンドン条約で第一次バルカン戦争は終わりましたが、ブルガリアは取り分が少ないと感じていました。同年6月末、ブルガリアはセルビアとギリシアを攻撃し、第二次(第2次)バルカン戦争が始まります。ルーマニアやオスマン帝国も加わり、ブルガリアは各方面で敗れました。オスマン帝国は7月にエディルネを取り戻しています。同年8月10日に結ばれたブカレスト条約で、マケドニアの大部分はセルビアとギリシアのものになりました。
戦争では多くの難民が生まれ、各地に深い恨みが残りました。セルビアは領土と人口が大きく増え、オーストリア=ハンガリーにとっては直接の脅威になります。ウィーンの政府にとって、問題はボスニアだけでなく、バルカン半島全体の力関係になりました。
1914年6月:サラエヴォ事件
1914年6月28日、ボスニアの都サラエヴォで、オーストリア=ハンガリーの皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーが暗殺されました。犯人は、ボスニア出身のセルビア系青年、ガヴリロ・プリンツィプです。彼は、セルビアの秘密組織「黒手組」と関係があったとされています。
ドイツは7月初めに、オーストリア=ハンガリーへの全面的な支持を約束しました。これは「白紙委任」と呼ばれています。オーストリア=ハンガリーは、セルビア政府を非難し、7月23日に厳しい最後通牒を突きつけました。セルビアは大部分を受け入れましたが、オーストリア=ハンガリーは納得せず、7月28日にセルビアへ宣戦布告します。
オーストリア=ハンガリーが強硬だったのは、南スラブ人の民族運動がセルビアの宣伝に刺激されることを恐れたからだと説明されることが多いです。
ロシアはセルビアを守るために動員を始めました。ドイツは8月1日にロシアへ、3日にフランスへ宣戦し、イギリスは、ドイツがベルギーに侵入したことを受けて、4日に参戦しました。サラエヴォの銃声から五週間足らずで、地域の危機はヨーロッパ全体の戦争になったのです。
ここで大事なのは、同盟の網を通じて、一つの地域の争いが大国どうしの戦争に広がったことです。火薬庫という言葉は、まさにこの仕組みを表しています。小さな火花が、同盟によってつながった大国を爆発させたのです。
戦争の後:帝国の崩壊と新しい国々
1918年までに、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、オスマン帝国も大きく縮小しました。バルカン半島では、新しい国々が生まれます。1918年に成立したセルビア・クロアティア・スロヴェニア王国は、1929年にユーゴスラビア王国と改称されました。
1919年から始まるパリ講和会議では、新しい国境線が引かれました。しかし、その線引きは民族の分布と完全には一致せず、この地域の対立は20世紀を通じて続きます。一つ一つの出来事は、起きた時点では限られた問題に見えました。しかし、それぞれが次の危機を起こしやすくしていったのです。
試験に出るポイント
大学入試では、バルカン半島を大戦の原因の一つとして説明させる問題が出されることがあります。次の四点を押さえると、答えの筋道がはっきりします。
- 民族主義:バルカンの各民族が独立や領土を求め、要求が互いにぶつかりました。
- オスマン帝国の衰退と大国の対立:オーストリア=ハンガリーとロシアが、影響力をめぐって争いました。
- 同盟網:三国同盟と三国協商が、地域の争いを大国どうしの戦争に変えました。
- 戦争計画:動員が始まると、外交で止める余地が急速に失われました。
「火薬庫」は、バルカン半島の人々が好戦的だったという意味ではありません。大国の対立と同盟の仕組みが、地域の争いを大きくしたという意味です。ここを取り違えないようにしましょう。
論述では、まずバルカンの民族問題を挙げ、次にオスマン帝国の衰えと大国の介入を説明します。最後に、同盟網によって地域の争いが全欧州に広がったことを結論にすると、筋道が通ります。年号も整理しておきましょう。1908年はボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合、1912〜1913年はバルカン戦争、1914年6月はサラエヴォ事件です。
次に読む
大戦の流れをさらに追うなら、次の記事が役立ちます。
- 1914年7月の危機:サラエヴォ事件から大戦の勃発までの数週間を追います。
- バルカン半島はどこにある?:地域の国々と国境の変化を確認できます。
- 軍国主義:軍隊と作戦計画が、1914年の判断にどう影響したかを解説します。