ラテンアメリカの独立を5分でわかりやすく
ラテンアメリカの独立とは、1791年から1826年にかけて、中南米のほぼ全域がヨーロッパの支配から離れた一連の革命です。フランスは最も豊かな植民地サン=ドマングを失い、そこはハイチになりました。スペインはカリフォルニアから南米の南端まで広がる植民地を、ポルトガルはブラジルを失いました。アメリカ独立革命やフランス革命と並ぶ「環大西洋革命」の一部で、時代全体の流れは世界史1700〜1918年のまとめで確認できます。
始まり方は2つあります。ハイチでは、奴隷とされたアフリカ系の人々が1791年に蜂起し、1804年に独立を宣言しました。スペイン領の本土では、きっかけはヨーロッパにありました。1808年にナポレオンがスペインを占領して国王を退位させると、1810年から各地の都市でクリオーリョ(植民地生まれの白人)が自分たちで政治を始めます。その後、北ではシモン=ボリバル、南ではサン=マルティンが独立戦争を率い、メキシコは1821年、ブラジルは1822年に独立しました。1826年1月にペルーのカヤオ要塞のスペイン軍が降伏すると、スペインに残った植民地はキューバとプエルトリコだけになりました。
ラテンアメリカ諸国の独立の順番
- 1804年 ハイチ(フランスから):ラテンアメリカ最初の独立国です。奴隷の反乱から生まれた国で、世界初の黒人共和国と呼ばれます。
- 1811年 パラグアイ:スペインからもブエノスアイレスからも離れて自立しました。
- 1816年 アルゼンチン(ラプラタ連合州):7月9日、トゥクマン議会で独立を宣言しました。
- 1818年 チリ:2月に独立を宣言し、4月のマイプの戦いで独立を確かなものにしました。
- 1819〜1822年 大コロンビア:ボリバルのもとで、ベネズエラ・ヌエバグラナダ(今のコロンビアなど)・エクアドルがまとまりました。
- 1821年 メキシコ・中央アメリカ・ペルー:ただしペルーは宣言のあとも戦いが続き、決着は1824年です。
- 1822年 ブラジル(ポルトガルから):9月7日に王子ペドロが独立を宣言し、帝国になりました。
- 1825年 ボリビア:国名はボリバルにちなんでいます。
ラテンアメリカ独立の原因
原因は、長く積もった不満、新しい思想、そして直接のきっかけの3つに分けると整理しやすくなります。
クリオーリョと本国生まれのスペイン人
植民地の社会は、生まれと人種で決まる身分の階段でした。いちばん上はペニンスラールと呼ばれる本国生まれのスペイン人で、政府や教会の高い地位をほぼ独占していました。その下が植民地生まれの白人、クリオーリョです。大地主や商人として豊かな人が多かったものの、重要な役職からは外されがちでした。さらにその下に、白人と先住民の混血であるメスティーソ、白人と黒人の混血であるムラート、先住民、そして奴隷がいました。本土の独立運動を率いたのは主にクリオーリョで、自分たちの富と教養にふさわしい政治の力を求めたのです。
ブルボン改革と貿易への不満
18世紀後半、スペインのブルボン朝は植民地をもっと強く、もうかるように治めようとしました。税を上げ、本国から役人を送り込み、1767年にはイエズス会を追放しました。クリオーリョは、自分たちが王国の仲間ではなく、ただの植民地の住民として扱われていると感じました。本国に有利な貿易のしくみも商人の不満を高め、安いイギリス製品を求めて密貿易が広がりました。
啓蒙思想と、ほかの革命という手本
教養のあるクリオーリョは、自然権や人民主権を説く啓蒙思想を読みました。アメリカ合衆国の独立は、植民地がヨーロッパの大国に勝ち、共和国をつくれることを示しました。フランス革命は、自由と平等という考え方を広めました。一方で、1780〜1781年にアンデスで起きたトゥパク=アマルの反乱やハイチ革命は、社会のいちばん下におかれた人々が立ち上がると何が起きるかを見せつけ、クリオーリョをおびえさせました。彼らの多くは、自治はほしいけれど、社会の仕組みまでは壊したくないと考えていました。この慎重さが、のちの独立の性格を決めていきます。
直接のきっかけ:1808年のナポレオンのスペイン侵攻
1808年、ナポレオンはスペインを占領し、国王カルロス4世と王子フェルナンド7世に王位を手放させて、兄のジョゼフをスペイン王にしました。正統な国王がいなくなった植民地では、だれが権力を持つのかが大きな問題になります。1810年から、カラカス、ブエノスアイレス、ボゴタ、サンティアゴなどでクリオーリョが評議会(フンタ)をつくり、はじめは捕らわれたフェルナンド7世の名のもとで政治を始めました。1814年に王位に戻ったフェルナンド7世は、1812年の自由主義的なカディス憲法を廃止し、軍を送って支配を取り戻そうとしました。この強硬な態度が、穏健な人々までも完全な独立へ向かわせたのです。
独立の経過
ハイチ革命(1791〜1804年)
フランス領サン=ドマングは、砂糖とコーヒーで莫大な富を生む植民地で、約50万人の奴隷が農園で働かされていました。1791年8月、北部平野の奴隷たちが一斉に蜂起します。指導者として頭角をあらわしたのが、元奴隷のトゥサン=ルヴェルチュールです。1794年にフランスが奴隷制を廃止すると、トゥサンは共和国側について、スペイン軍とイギリス軍を退け、1801年には独自の憲法を定めて島を治めるまでになりました。ナポレオンはルクレール将軍の大軍を送り、支配を取り戻そうとします。トゥサンは1802年にだまし討ちで捕らえられ、1803年にフランスの牢獄で亡くなりました。しかし部下のデサリーヌが戦いを続け、黄熱病と激しい抵抗でフランス軍は崩れます。1803年11月のヴェルティエールの戦いのあと、1804年1月1日にハイチの独立が宣言されました。
メキシコの独立(1810〜1821年)
1810年9月16日、ドロレス村のイダルゴ神父が教会の鐘を鳴らし、人々に立ち上がるよう呼びかけました。これを「ドロレスの叫び」といい、今もメキシコの独立記念日になっています。先住民やメスティーソを中心とする反乱軍は急速にふくらみましたが、その激しさがクリオーリョをおびえさせ、多くが王党派につきました。イダルゴは1811年に処刑され、あとを継いだモレーロス神父も1815年に処刑されます。流れが変わったのは1820年です。スペイン本国で自由主義の反乱が起きると、メキシコの保守派はその改革が自分たちに及ぶのを嫌いました。王党派の将校イトゥルビデは反乱軍の指導者ゲレーロと手を組み、1821年2月に「イグアラ綱領」を発表します。独立、カトリック信仰、メキシコ人とスペイン人の団結を約束する内容です。同じ年の9月に軍がメキシコ市に入り、独立が実現しました。イトゥルビデは一時、皇帝にもなりました。
北のボリバルと大コロンビア
ベネズエラは1811年7月5日に独立を宣言しましたが、この共和国は1812年に倒れ、2度目の試みも1814年に失敗しました。カラカスの裕福なクリオーリョだったシモン=ボリバルは亡命し、1815年の「ジャマイカ書簡」で、スペイン領アメリカは必ず独立を勝ち取ると論じました。1816年、ハイチのペティオン大統領は、奴隷を解放することを条件に、ボリバルに船と武器を与えました。ボリバルはオリノコ川流域を拠点に態勢を立て直し、アンデス山脈を越えて、1819年8月7日のボヤカの戦いに勝ってボゴタを解放します。同じ年にコロンビア共和国(大コロンビア)を建て、1821年6月のカラボボの戦いでベネズエラを取り戻しました。右腕のスクレは、1822年5月のピチンチャの戦いでキトを解放しました。
南のサン=マルティン:チリとペルー
ブエノスアイレスは1810年の五月革命から自治を始め、1816年に独立を宣言しました。サン=マルティンは、王党派の拠点であるペルーが残るかぎり独立は守れないと考え、アンデスを越えてチリを解放し、そこから海を通ってペルーを攻める計画を立てます。1817年のはじめ、アンデス軍はチリの指導者オイギンスとともに、アルプスより高い峠を越え、チャカブコの戦いに勝ちました。チリは1818年に独立を宣言し、マイプの戦いで独立を固めます。1820年にはコクラン提督の艦隊でペルーへ向かい、1821年7月28日にリマで独立を宣言しましたが、山岳部にはまだ王党派の大軍が残っていました。
グアヤキル会談からアヤクーチョの戦いへ
1822年7月、ボリバルとサン=マルティンはグアヤキルで2人だけの会談を行いました。中身をくわしく伝える記録は残っていませんが、このあとサン=マルティンは身を引いてヨーロッパへ去り、戦いはボリバルに任されます。1824年12月9日、アヤクーチョの戦いでスクレが王党派の主力を破り、南米の独立戦争は事実上終わりました。1825年には高地ペルーがボリビアとして独立し、1826年1月にはカヤオ要塞も降伏しました。
ブラジル:王子が皇帝になった独立
ブラジルの道のりは、ずっと静かでした。1808年、ナポレオンから逃れたポルトガル王室がリオデジャネイロに移り、ブラジルは帝国の中心になります。1815年には本国と対等な王国に格上げされました。1821年に国王ジョアン6世が帰国すると、リスボンの議会はブラジルを再び植民地の地位に戻そうとします。ブラジルに残った王子ペドロは1822年9月7日に独立を宣言し、皇帝ペドロ1世となりました。ブラジルは君主政と奴隷制を保ったまま、スペイン領よりはるかに少ない流血で独立したのです。
独立の結果と影響
- 統一は実現しませんでした。ボリバルは1826年にパナマ会議を開き、新しい共和国の連合をめざしましたが、成果はわずかでした。大コロンビアは1830年ごろにベネズエラ・コロンビア・エクアドルに分かれ、中央アメリカ連邦も1840年ごろまでに解体しました。
- 社会の仕組みは大きく変わりませんでした。本国の役人に代わってクリオーリョの地主層が権力を握り、先住民や貧しい人々の暮らしはあまり変わりませんでした。各地では私兵を率いる軍事指導者(カウディーリョ)が力を持ちました。
- 奴隷制の廃止はゆっくり進みました。チリは1823年、メキシコは1829年、ベネズエラとペルーは1854年に廃止し、ブラジルは1888年まで待たなければなりませんでした。
- ハイチは重い負担を背負いました。1825年、フランスは1億5000万フランの賠償金と引きかえにハイチの独立を認めました。のちに減額されたものの、この支払いは長くハイチを苦しめました。
- 外の大国の影響が強まりました。イギリスは外相カニングのもとで独立を支持し、新しい国々との貿易で大きな利益を得ました。アメリカ合衆国は1823年にモンロー教書(モンロー宣言)を出し、ヨーロッパが南北アメリカに干渉しないよう求めました。
- キューバとプエルトリコは、1898年の米西戦争までスペイン領のままでした。
試験に出るポイント
共通テストでは、出来事の年代の並べかえや、国と指導者、独立した相手国の組み合わせがよく問われます。次の点を押さえておきましょう。
- ハイチ:1804年にフランスから独立しました。指導者はトゥサン=ルヴェルチュールで、世界初の黒人共和国です。
- 独立の担い手:スペイン領の独立を主に率いたのはクリオーリョです。奴隷とされた人々が中心だったハイチとの違いが問われます。
- 指導者と国の組み合わせ:ボリバルはベネズエラ・コロンビア・ボリビア、サン=マルティンはアルゼンチン・チリ・ペルー、イダルゴはメキシコです。
- ブラジル:ポルトガルから独立し、共和国ではなく帝国になった点が特徴です。
- 国際関係:ウィーン体制の列強による干渉の動きに対し、イギリスのカニング外交とアメリカのモンロー教書(1823年)が、結果として独立を守る方向に働きました。
- 独立後の社会:大土地所有制が残り、一次産品の輸出に頼る経済が続きました。
次に読む
- 世界史1700〜1918年:革命・産業・帝国・戦争:アメリカ独立革命やフランス革命と並べて、この時代の全体像をつかめます。
- 19世紀を形づくった思想:自由主義・社会主義・ナショナリズム・ダーウィン:独立の指導者たちが取り入れ、議論した自由主義とナショナリズムがわかります。
- ロシア帝国(1721〜1917年):神聖同盟を主導したロシアの動きは、モンロー教書が出された背景のひとつです。