5分でわかる19世紀ヨーロッパの流れ
19世紀ヨーロッパの流れを一言でいうと、「変化を止めるために作られた秩序が崩れ、国民国家の時代に変わった100年」です。1815年のウィーン会議で、大国はナポレオンのような存在が二度と現れないよう、革命前の王家と国境を基本に秩序を組み直しました。ところが1871年までに、イタリアは一つの王国に、ドイツは一つの帝国にまとまりました。同じ言語と歴史をもつ人びとが自分たちの国をつくる、という考え方がヨーロッパ政治の中心になったのです。
この100年を読み解くカギは三つあります。一つ目は自由主義で、憲法や議会、法の前の平等を求める動きです。二つ目はナショナリズム(国民主義)で、民族のまとまりを国家の土台にしようとする動きです。三つ目は産業革命で、鉄道や工場が都市と労働者を生み、国家に新しい力を与えました。この三つが重なり、ときにぶつかりながら歴史が進みます。
このページは19世紀ヨーロッパをまとめて見渡す入口で、くわしい出来事はテーマごとの記事につながります。1700年から1918年までの世界史全体は、親ページの1700〜1918年の世界史で整理しています。
1815年 ウィーン会議とウィーン体制
ナポレオンが退位したあと、1814年9月から1815年6月にかけて、ヨーロッパの君主や外交官がウィーンに集まりました。会議の中心になったのは、オーストリアのメッテルニヒです。ほかに、イギリスのカースルレー、ロシア皇帝アレクサンドル1世、そして敗戦国フランスの代表でありながら巧みに発言権を得たタレーランがよく知られています。
会議の原則は三つあります。正統主義は、革命前の王家と領土を正しいものとして戻す考え方です。勢力均衡は、一つの国だけが強くなりすぎないよう力のバランスを取る考え方です。そして三つ目が、フランスの周りに強い国を置いて封じ込めることでした。
結果として、神聖ローマ帝国のあとには39の君主国と自由都市からなるドイツ連邦ができました。ベルギーはオランダに合わされ、ロシア皇帝はポーランドの大部分の王を兼ね、オーストリアは北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを得ました。さらに、ロシア・オーストリア・プロイセンが君主制を守る神聖同盟を結び、イギリスを含む大国は問題が起きたら話し合うことで一致しました。この協調を「ヨーロッパ協調」と呼び、1853年のクリミア戦争までは大国どうしの大きな戦争を防ぐ役目を果たしました。
ただ、この体制は自由主義とナショナリズムを抑えつけるものでもありました。ポーランド人、イタリア人、ドイツ人、ベルギー人の多くが、自分で選んだわけではない支配者のもとに置かれました。1819年のカールスバート決議では、ドイツ各地の大学と出版が厳しく取り締まられています。この仕組みは、中心人物の名前から「メッテルニヒ体制」とも呼ばれます。
1820〜40年代 ほころびが見えはじめる
最初の挑戦は、ヨーロッパの周辺から来ました。1820年にスペインとナポリで起きた革命は、外国の軍隊によって抑えられました。ロシアでは1825年12月、自由を求める青年将校たちがデカブリストの乱を起こしましたが、すぐに鎮圧されました。
一方、ギリシアでは違う結果になりました。1821年にギリシア独立戦争が始まり、1827年にはイギリス・フランス・ロシアの連合艦隊がナヴァリノの海戦でオスマン帝国とエジプトの艦隊を破りました。ギリシアの独立は、1830年に大国によって確認されました。
1830年は中心部も揺れた年です。7月、パリの市民がシャルル10世に反発して七月革命を起こし、より自由主義的なルイ・フィリップが王になりました。8月にはベルギーがオランダからの独立を求めて立ち上がり、独立を勝ち取りました。オランダが正式に認めたのは1839年です。ロシア支配に対するポーランドの蜂起は、1831年に鎮圧されています。イギリスは革命ではなく改革で対応し、1832年の第1回選挙法改正で選挙権を広げました。
経済でも静かな変化が進んでいました。1830年にはリヴァプールとマンチェスターを結ぶ鉄道が開通し、1834年にはプロイセンを中心にドイツ関税同盟が発足しました。政治の統一より先に、経済の結びつきが進んだのです。変化の土台については産業革命とは何かで読めます。この時代のフランスを物語で味わうなら、1815年から1832年のパリ蜂起までを描く『レ・ミゼラブル』がつながります。
1848年 諸国民の春
1846年から47年の不作と物価高、失業が重なり、自由主義者やナショナリストの不満が高まっていました。1848年1月にシチリアのパレルモで革命が始まり、2月にはパリで二月革命が起きます。ルイ・フィリップは退位し、第二共和政が始まりました。
革命はすぐに各地へ広がりました。3月にはウィーンとベルリンで市民が立ち上がり、メッテルニヒは辞職して亡命しました。ハンガリーではコシュートが自治を求め、ミラノやヴェネツィアはオーストリアに反乱を起こしました。ドイツでは5月にフランクフルト国民議会が開かれ、統一ドイツの憲法づくりが始まりました。この一連の動きを、ヨーロッパ全体では「諸国民の春」、フランスでは二月革命、ドイツやオーストリアでは三月革命と呼びます。同じ1848年に、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発表したことも覚えておきましょう。
しかし1849年までに、ほとんどの革命は失敗しました。軍隊は支配者に従ったままでした。革命側も一つにまとまれず、自由主義者は急進的な労働者を恐れ、ハプスブルク帝国ではドイツ人、ハンガリー人、チェコ人、クロアティア人などの要求がぶつかりました。ハンガリーの独立運動は、1849年にロシアの助けを得たオーストリアに押しつぶされます。フランクフルト国民議会では、オーストリアを含める大ドイツ主義と、除く小ドイツ主義が争い、小ドイツ主義でプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に帝冠が差し出されました。しかし王は1849年4月にこれを断りました。議会から与えられる王冠を認めなかったのです。フランスでは1848年12月にルイ・ナポレオンが大統領に当選し、1852年に皇帝ナポレオン3世となりました。
それでも、すべてが無駄だったわけではありません。ハプスブルク領では農奴制が廃止され、憲法を持ち続けた国もありました。多くの人が学んだのは、国民国家をつくるには演説だけでなく、軍事力と外交が必要だということです。
イタリア統一
1853年から56年のクリミア戦争は、ロシアとオーストリアの協力関係を壊し、ウィーン体制の緩みを決定的にしました。ロシアでは敗戦をきっかけに、アレクサンドル2世が1861年に農奴解放令を出しています。
イタリアでは、サルデーニャ王国の首相カヴールが国内の近代化を進め、1859年にナポレオン3世と同盟してオーストリアと戦いました(イタリア統一戦争)。マジェンタとソルフェリーノの戦いのあと、ロンバルディアがサルデーニャに加わります。その代わりにニースとサヴォイアはフランスに渡されました。1860年にはガリバルディが約1000人の義勇軍「千人隊」(赤シャツ隊)を率いてシチリアに上陸し、南部を占領して国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上しました。こうして1861年3月にイタリア王国が成立します。ヴェネツィアは1866年、ローマは1870年に加わりました。
ドイツ統一
ドイツでは、1862年にビスマルクがプロイセンの首相になりました。彼は議会で「鉄と血」によって問題を解決すると演説し、軍備の強化を進めました。これを鉄血政策と呼びます。
プロイセンは、1864年にデンマークと戦ってシュレスヴィヒとホルシュタインを手に入れ、1866年の普墺戦争ではケーニヒグレーツの戦いでオーストリアを破りました。1867年にはオーストリアを除く北ドイツ連邦が成立します。敗れたオーストリアは同じ年にハンガリーと和解し(アウスグライヒ)、オーストリア=ハンガリー二重帝国になりました。
1870年、スペイン王位継承問題をめぐるエムス電報事件をきっかけに普仏戦争が始まります。9月のセダンの戦いでナポレオン3世は捕虜になり、フランスでは帝政が倒れて共和政になりました。1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として即位し、ドイツ帝国が成立します。フランスはアルザスとロレーヌの一部を失い、50億フランの賠償金を支払いました。直後の1871年3月から5月には、パリ・コミューンが成立して鎮圧され、第三共和政へ向かいます。
産業と社会の変化
産業革命はイギリスから始まり、ベルギー、フランス、ドイツへ広がりました。1870年代以降は鉄鋼、化学、電気の分野が伸び、ドイツやアメリカが力をつけます。都市が大きくなり、工場で働く人びとが労働組合をつくって声を上げ、社会主義の思想も広がりました。イギリスでは選挙権が少しずつ広がり、長い女王の時代が続きました。くわしくはヴィクトリア朝(1837〜1901年)で読めます。
1871年から第一次世界大戦へ
ドイツ統一のあと、ビスマルクの目標はフランスを孤立させ、ヨーロッパの平和を保つことでした。1873年に三帝同盟、1878年にベルリン会議、1879年に独墺同盟、1882年にイタリアを加えた三国同盟を結びます。1884年から85年のベルリン会議(ベルリン=コンゴ会議)では、アフリカの分割ルールも話し合われました。
1890年にビスマルクが辞職すると、国際関係は変わります。1890年代にロシアとフランスが同盟を結び、イギリスは1904年に英仏協商、1907年に英露協商を結びました。こうして、ヨーロッパは三国同盟と三国協商の二つの陣営に分かれます。バルカン半島では、イタリアとドイツを生んだナショナリズムが、今度はオスマン帝国とハプスブルク帝国を揺らす力になりました。この緊張が、1914年の第一次世界大戦につながります。
試験に出るポイント
- ウィーン会議の原則は正統主義と勢力均衡。タレーランとメッテルニヒの名前もセットで覚える。
- 1830年は一部成功(ギリシア、ベルギー、フランス)、1848年は多くが失敗した理由を説明できるようにする。
- フランクフルト国民議会の大ドイツ主義と小ドイツ主義の違いを押さえる。
- カヴールの外交とビスマルクの鉄血政策、統一の手法の違いを比べる。
- 共通テストでは、年表の並べ替えや、資料から革命や統一の背景を読み取る問題が出やすい。1815年、1830年、1848年、1861年、1871年を軸にする。
次に読む
- 1700〜1918年の世界史:ヨーロッパを世界の革命、帝国、戦争の中に位置づける親ページです。
- 産業革命とは何か:政治の変化の下にある経済の変化を知るために。
- ヴィクトリア朝(1837〜1901年):イギリスの改革と帝国の姿を知るために。
- 『レ・ミゼラブル』:1815年から1832年のフランスを描いたユゴーの小説です。