5分でわかるエイブラハム・リンカーン
エイブラハム・リンカーン(1809〜1865年)は、アメリカ合衆国の第16代大統領です。リンカーン大統領は1861年3月から1865年4月に亡くなるまで在任し、南北戦争で北部(合衆国)を率いて国の分裂を防ぎました。さらに戦争の途中から奴隷制をなくす方向へ進み、「奴隷解放宣言」や「ゲティスバーグ演説」で世界に名を知られています。
貧しい開拓農民の家に生まれ、学校にはほとんど通えなかったのに、独学で弁護士になりました。政治家としての強みは、むずかしい問題を短く平易な言葉で語れることでした。「奴隷制を新しい土地に広げてはならない」という主張を、落ち着いて、くり返し公の場で訴えたことが、1860年の大統領当選につながります。
このページでは、リンカーンが何をした人なのかを生涯の順に追い、そのあとで評価が分かれる点と、試験で問われやすいポイントをまとめます。アメリカ史の流れは、19世紀のアメリカのまとめ記事もあわせて読むと、つながりが見えやすくなります。
ケンタッキーの丸太小屋から弁護士へ
リンカーンは1809年2月12日、ケンタッキー州ハーディン郡の、一部屋だけの丸太小屋で生まれました。父トマスは農民で、一家は1816年にインディアナ州へ、のちにイリノイ州へ移り住みます。母ナンシーは1818年、リンカーンが9歳のときに亡くなりました。
学校で学んだ期間は、本人の言葉によれば1年に満たないほどでした。それでも彼は、借りられる本を片っぱしから読み、文章や話し方を自分で磨いていきました。若いころは船頭、店員、郵便局長、測量士などの仕事をしながら、イリノイ州のニューセーラムという小さな町で暮らしています。
1834年にホイッグ党からイリノイ州議会の議員に当選し、1836年に弁護士の資格を得て、1837年に州都スプリングフィールドへ移りました。1842年にはメアリー・トッドと結婚し、4人の息子が生まれましたが、大人になるまで生きたのは長男ロバートだけでした。弁護士の仕事は、のちの政治にも生きました。複雑な話を順序立てて、短い文で説明する習慣が身についたからです。
1847年から1849年までは、連邦下院議員を1期だけ務めました。ポーク大統領がメキシコとの戦争(米墨戦争)を始めた理由を批判して地元で不人気になり、次の選挙には出ませんでした。1850年代の初めには、弁護士として成功し、政治からは退いたように見えました。
弁護士が全国的な政治家になるまで
リンカーンを政治に引き戻したのは、1854年のカンザス・ネブラスカ法でした。この法律によって、西部の新しい準州で奴隷制が認められる可能性が生まれたのです。リンカーンは奴隷制を道徳的にも政治的にも誤りだと考え、反対の運動に加わりました。こうして生まれた共和党は、すでに奴隷制がある州をいきなりなくすのではなく、まず新しい準州への拡大を止めることを中心の目標にしていました。
1858年、リンカーンはイリノイ州の上院議員選挙に共和党から出馬し、民主党のスティーブン・ダグラスと争いました。候補指名を受けた演説では、「自分自身と争う家は立っていられない」という聖書の言葉を引き、国が奴隷州と自由州に半分ずつのまま続くことはできないと警告します(「分かれた家」演説)。この年の秋に7回行われたリンカーン・ダグラス論争は、全国の新聞に載りました。選挙には敗れましたが、リンカーンの名は一気に広まりました。
1860年2月にはニューヨークのクーパー・ユニオンで、建国の父たちも奴隷制を制限することを認めていたと、史料をもとに論じる長い演説をしました。この演説が評判を呼び、5月に共和党の大統領候補に指名されます。11月6日の選挙では民主党が分裂したこともあり、得票率は約40%にとどまりましたが、選挙人の多数を得て当選しました。南部の州では一つも勝っていません。
南部の脱退と南北戦争の始まり
リンカーンが就任する前の1860年12月から1861年2月にかけて、サウスカロライナ州を最初に、南部の7州が合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国(南部連合)をつくりました。1861年3月4日の就任演説でリンカーンは、奴隷制がすでにある州には手を出さないと述べる一方、連邦の施設は守り、国の分裂は認めないという姿勢を示しました。
1861年4月12日、南部連合軍がサウスカロライナ州チャールストン港のサムター要塞を砲撃し、南北戦争が始まりました。リンカーンは7万5千人の志願兵を呼びかけ、これに反発してバージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナの4州も脱退します。一方、奴隷制のあるデラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリの4州は合衆国にとどまりました。この「境界州」をつなぎとめることが、リンカーンの初期の判断の多くを説明します。
最初の2年間、東部の戦場では北軍が苦戦しました。リンカーンは何人もの司令官を入れ替え、1864年3月にユリシーズ・グラントを全軍の総司令官に任命します。また戦時下では、一部の地域で人身保護令状の停止に踏み切りました。逮捕された人が裁判を求める権利を止める措置で、批判する人々は権力の乱用だと非難しました。
奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説
戦争のはじめ、リンカーンは戦いの目的を「連邦を守ること」と説明していました。しかし戦争が長引くにつれ、奴隷にされた人々の解放は、道義上の目標であるだけでなく、軍事上の手段にもなっていきます。南部の労働力を弱め、黒人の男性が北軍に加わる道を開くことができたからです。
1862年9月、アンティータムの戦いのあと、リンカーンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、1863年1月1日に本宣言が発効しました。宣言は、南部連合が支配する地域の奴隷にされた人々は自由であると定めました。ただし、境界州や、すでに北軍の支配下にあった地域は対象外でした。そのため、宣言だけで奴隷制がすべてなくなったわけではありません。それでも戦争の性格を大きく変え、約18万人の黒人兵が北軍で戦うことになります。くわしくは奴隷解放宣言(1863年)で説明しています。
1863年11月19日には、ペンシルベニア州ゲティスバーグの戦没者墓地の開設式で演説しました。この年の7月、ここで北軍が大きな戦いに勝ったばかりでした。演説は2〜3分、英語で約270語ほどの短いものです。リンカーンはこの中で、アメリカは「すべての人は平等につくられている」という考えの上に築かれた国だと述べ、人びとの、人びとによる、人びとのための政治を地上から消してはならない、と呼びかけました(英語では “government of the people, by the people, for the people”)。
再選、憲法修正第13条、そして暗殺
1864年の夏、リンカーン自身も再選は難しいと考えていました。しかし9月のアトランタ陥落など北軍の勝利で世論が変わり、11月の選挙でジョージ・マクレラン将軍に勝って再選されます。リンカーンは奴隷制を憲法で禁じる修正第13条の成立を議会に強く働きかけ、下院は1865年1月31日にこれを可決しました。各州の承認で成立したのは、リンカーンの死から8か月後の1865年12月です。
1865年3月4日の第2期就任演説は、短く、重い調子の演説でした。リンカーンは奴隷制が戦争の原因だったと述べ、だれに対しても悪意を持たず、すべての人に思いやりを、と戦後の和解を呼びかけました(英語では “with malice toward none, with charity for all”)。4月9日、南軍のロバート・E・リー将軍がバージニア州のアポマトックスでグラントに降伏し、戦争は事実上の終わりを迎えます。
4月14日の夜、リンカーンはワシントンのフォード劇場で芝居を見ていました。南部連合を支持する俳優ジョン・ウィルクス・ブースが、リンカーンの頭を撃ちました。リンカーンは翌15日の朝に亡くなりました。56歳でした。アメリカで暗殺された初めての大統領です。ブースは4月26日に兵士に追いつめられて殺されました。遺体を乗せた葬送列車は2週間近くかけて各地を回り、イリノイ州スプリングフィールドに埋葬されました。
リンカーンの評価が分かれる点
リンカーンは、アメリカの歴代大統領の中でもっとも偉大な一人と評価されることが多い人物です。ただし歴史家は、彼を単純な英雄としては扱っていません。戦争前は、奴隷制がすでにある州には手を出さないと明言していました。また一時期は、解放された黒人を国外へ移住させる「植民」構想を支持しましたが、のちに手放しています。
戦時中の権力の使い方にも議論があります。人身保護令状の停止のほか、1862年にミネソタで起きたアメリカ軍とダコタ人の戦いのあと、死刑判決を受けた303人のうち38人の処刑を承認しました。多くは減刑しましたが、今も厳しく問われる点です。
一方で、考えを変えていった指導者だったという見方も有力です。戦争の経過と、黒人自身の行動に押されて、リンカーンは解放へ進みました。1865年4月には、一部の黒人に選挙権を与えることを公の場で支持するまでになります。内政では1862年に、自営農地法(ホームステッド法)、モリル法(土地付与大学の設立)、太平洋鉄道法を成立させ、西部開発と経済成長の土台をつくりました。
試験に出るポイント
共通テストなどでは、次のような点が問われやすくなります。年号と因果関係をセットで覚えておきましょう。
- 1854年のカンザス・ネブラスカ法が共和党の結成につながり、リンカーンが政界に戻ったこと。
- 1860年の大統領選挙での当選が、南部諸州の脱退を引き起こしたこと。
- 1861年のサムター要塞への攻撃で南北戦争が始まったこと。
- 奴隷解放宣言(1863年)が対象とした地域と、対象外だった地域。
- 1862年の自営農地法や太平洋鉄道法など、西部開発の政策。
- ゲティスバーグ演説(1863年)が、戦争の目的を平等と民主政治の存続へと広げたこと。
- 修正第13条(1865年)が、奴隷制を憲法で禁じたこと。
次に読む
南北戦争はなぜ北軍が勝ったのかでは、軍事と経済の両面から、北部が勝利した理由を整理しています。奴隷解放宣言(1863年)は、宣言の中身と、それが戦争をどう変えたかをくわしく扱っています。モンロー宣言(1823年)は、19世紀のアメリカ外交の基本になった考え方で、南北戦争中のフランスによるメキシコ介入への対応を理解する手がかりにもなります。