5分でわかるアメリカ独立宣言
アメリカ独立宣言は、1776年7月4日に第2回大陸会議が採択した文書です。北米の13植民地がイギリス本国から離れ、独立した国になることを宣言しました。あわせて、なぜそうするのかという理由も、世界に向けて説明しています。
この宣言には二つの役割がありました。一つは、「イギリスとは縁を切る」とはっきり告げること。もう一つは、その決断が正しいと説得することです。有名な「すべての人は平等につくられている」という言葉は前半に出てきますが、文章のいちばん長い部分は、国王ジョージ3世への不満を並べた告発のリストです。
起草の中心はバージニア代表のトマス・ジェファソンで、当時33歳でした。大陸会議が草案に手を入れ、7月4日に承認しました。戦争はすでに1775年4月から始まっており、独立宣言そのものが戦争に勝たせたわけではありません。独立がイギリスに認められるのは、1783年のパリ条約です。それでも、この宣言は、反乱を「理由のある独立の主張」に変え、アメリカ合衆国が何を大切にする国なのかを示した点で、世界史の大きな節目になりました。
アメリカ独立革命の全体像は、アメリカ独立革命の原因・戦争・独立の記事で確認できます。
なぜ独立宣言が必要だったのか
きっかけは、七年戦争(1756〜1763年)のあとのイギリスの財政難でした。本国は戦費を取り戻すために、植民地にも負担を求めます。1765年の印紙法に始まり、タウンゼンド諸法、1773年の茶法と続き、植民地の人びとは「自分たちの代表がいない議会に、税を決められるのはおかしい」と反発しました。この考え方は「代表なくして課税なし」という標語で知られています。
1773年12月、ボストンで茶箱が海に投げ込まれるボストン茶会事件が起きます(くわしくはボストン茶会事件の記事へ)。イギリスは1774年に、ボストン港の閉鎖などを含む強硬な法律を次々に出しました。植民地側はこれを「耐えがたい諸法」と呼び、同じ年の9月に第1回大陸会議を開いて対抗します。
1775年4月19日、マサチューセッツのレキシントンとコンコードで武力衝突が起き、独立戦争が始まりました。ところがこの時点でも、多くの植民地の人びとは、イギリス国王のもとで本来の権利を取り戻したいと考えていて、独立までは望んでいませんでした。大陸会議は1775年7月に、国王に和解を求める「オリーブの枝請願」を送っています。しかしジョージ3世は受け取りを拒み、同年8月に、植民地は反乱状態にあると宣言しました。
空気を変えたのが、1776年1月に出たトマス・ペインの小冊子『コモン・センス』です。王政そのものを批判し、独立を平易な言葉で訴えて、広く読まれました。春にかけて、各植民地の議会や集会が、代表に独立への賛成を認める指示を出していきます。そして6月7日、バージニア代表のリチャード・ヘンリー・リーが、「植民地は自由で独立した国家である」という決議案を提出しました。
独立には、もう一つ現実的な理由もありました。フランスなど外国の援助を受けるには、「反乱している植民地」ではなく「独立した国」として交渉する必要があったからです。独立宣言は、国内で迷っている人びとと、海外の政府の両方に向けて書かれた文書でもありました。
起草者はだれか:ジェファソンと五人委員会
リー決議案が出されたあと、大陸会議は6月11日に、宣言文を準備する五人委員会を作りました。メンバーは、トマス・ジェファソン(バージニア)、ジョン・アダムズ(マサチューセッツ)、ベンジャミン・フランクリン(ペンシルベニア)、ロジャー・シャーマン(コネチカット)、ロバート・R・リビングストン(ニューヨーク)の五人です。
文章を書く役は、ジェファソンに任されました。彼は弁護士で、文章力の高さで知られていました。ジェファソンはフィラデルフィアで借りた部屋にこもり、数週間のうちに草案を仕上げます。その後、アダムズとフランクリンがいくつかの語句を直し、委員会の案として大陸会議に提出されました。
ジェファソンは、まったく新しい思想を作り出したわけではありません。ジョン・ロックらの啓蒙思想、特に自然権と社会契約の考え方や、1776年6月に出たばかりのバージニア権利章典(ジョージ・メイソンが中心となって起草)などを下敷きにしています。のちにジェファソン自身も、独創性を競ったのではなく、当時の人びとが共有していた考えを分かりやすい言葉にまとめたのだと述べています。
つまり独立宣言は、一人の天才が生み出した新説というより、時代の考え方を一人の名文家が文章にしたものだと言えます。
独立宣言の内容を4つに分けて読む
独立宣言は、大きく四つの部分からできています。順番に見ていきましょう。
1 前文:なぜ説明するのか
冒頭では、ある民族が別の民族との政治的な結びつきを解く場合、世界の人びとへの敬意から、その理由を明らかにする義務があると述べます。つまりこの文書は、最初から「理由を説明するための文書」だと宣言しているのです。
2 権利の宣言:政府は何のためにあるのか
もっとも有名な部分です。すべての人は平等につくられ、生命、自由、幸福の追求を含む、うばうことのできない権利を、創造主から与えられていると述べます。さらに、政府はこれらの権利を守るためにつくられ、その正当な力は「被治者の同意」から生まれると続きます。そして、政府がこの目的に反するなら、人民には政府を改めたり、廃止したりする権利があると主張します。ロックの抵抗権(革命権)の考え方に近い部分です。ただし、長く続いた政府を軽い理由で変えるべきではない、長年の悪政が重なった場合に限る、という注意も書かれています。
3 告発:国王への約27の不満
文章の大半を占めるのが、ジョージ3世を主語にした長い告発のリストです。数え方によりますが、およそ27項目あります。たとえば、植民地の人びとの同意なしに税を課したこと、平時に軍隊を置いたこと、住民の家に兵士を泊まらせたこと、貿易を断ち切ったこと、多くの場合で陪審による裁判を奪ったこと、外国人の傭兵を送り込んで戦わせたことなどです。イギリス議会も批判されていますが、告発の主語は一貫して国王です。このリストは、裁判で証拠を並べるように、独立が最後の手段だったことを示す役目をしています。
4 結論:独立の宣言
最後に、代表たちは「これらの連合した植民地は、自由で独立した国家であり、またそうであるべきである」と宣言します。そのうえで、イギリス国王への忠誠を解き、戦争をしたり、同盟を結んだり、通商を行ったりする、独立国としての権利を主張しました。この宣言を支えるために、おたがいに「生命、財産、神聖な名誉」をささげると誓って、文章は終わります。
草案はどう変えられたか:7月2日と7月4日
ここで日付に注意が必要です。大陸会議が独立そのものを決めたのは7月2日で、投票ではニューヨークが棄権したものの、ほかの12植民地が賛成しました。その後、会議は2日から4日にかけてジェファソンの草案を検討して手直しし、7月4日に最終的な文面を承認しました。アメリカが7月4日を独立記念日として祝うのは、この文章が採択された日だからです。
議会は、草案から全体の約4分の1を削ったとされます。その中でもよく知られているのが、奴隷貿易の責任を国王に負わせた一節です。サウスカロライナとジョージアの代表が強く反対し、北部にも奴隷貿易で利益を得る人がいたため、この部分は削られました。
ここには大きな矛盾があります。「すべての人は平等」と書いた起草者ジェファソン自身が、生涯に数百人もの人びとを奴隷として所有していました。宣言が書かれた1776年の時点では、奴隷にされた人びと、女性、先住民の多くは、この「すべての人」の中に実際には数えられていませんでした。この矛盾は、その後の歴史の中で何度も問い直されることになります。
印刷と署名:どこで、いつ署名されたのか
承認された7月4日の夜から、フィラデルフィアの印刷業者ジョン・ダンラップが宣言文を印刷しました。これらは「ダンラップ版」と呼ばれ、現在も26部ほどが残っているとされます。7月8日にはフィラデルフィアで最初の公開朗読が行われ、7月9日には、ジョージ・ワシントンの命令でニューヨークの軍隊の前でも読み上げられました。
現在よく目にする、羊皮紙に清書された版は、7月19日に議会が作成を命じたものです。署名の多くは8月2日に行われました。署名の場所は、フィラデルフィアのペンシルベニア州議事堂で、今のインディペンデンス・ホールです。署名者は全部で56人で、大陸会議議長ジョン・ハンコックの署名がいちばん大きいことで有名です。ただし、全員が7月4日に署名したというのは誤解で、署名は日をかけて行われました。くわしくは独立宣言の署名者と日付の記事で説明しています。
清書版の原本は、ワシントンD.C.の国立公文書館に保管されています。
独立宣言が残したもの
独立宣言は、法律でも政府をつくる文書でもありません。政府の仕組みを定めたのは、のちの連合規約と、1787年の合衆国憲法です。それでも宣言の言葉は、権利を求める人びとに使われつづけてきました。
1848年にニューヨーク州セネカ・フォールズで開かれた女性の権利を求める集会では、独立宣言をひな形にした「感情の宣言」が出され、「すべての男女は平等につくられている」と書かれました。1863年には、リンカンがゲティスバーグ演説で、すべての人は平等であるという理念からこの国が生まれたと語っています。1945年9月2日には、ベトナムのホー・チ・ミンが、ベトナムの独立宣言の冒頭でアメリカ独立宣言の言葉を引きました。1789年のフランス人権宣言とも、同じ啓蒙思想の流れでつながっています。
宣言から取り残された奴隷にされた人びとや女性が、同じ言葉を使って自分たちの権利を求めた点も大切です。女性の側から見た独立革命は、アメリカ独立革命と女性たちで読めます。
試験に出るポイント
共通テストや大学入試の世界史では、次のような点がよく問われます。
- 日付と場所:1776年7月4日、フィラデルフィアの第2回大陸会議で採択。7月2日は独立の決議、署名の多くは8月2日。
- 起草者:トマス・ジェファソン。五人委員会の一人で、ほかにアダムズ、フランクリンなどがいる。
- 思想的背景:ロックの自然権・社会契約説などの啓蒙思想。人民主権と抵抗権(革命権)の考え方。
- 有名な表現:「生命・自由・幸福の追求」。ロックの「生命・自由・財産」との違いを問われることがある。
- 独立の承認:1783年のパリ条約。宣言の時点では、イギリスはまだ独立を認めていない。
- 前後の流れ:印紙法、ボストン茶会事件、レキシントン・コンコードの戦い、『コモン・センス』、独立宣言、サラトガの戦い(1777年)、フランスとの同盟(1778年)。
独立宣言(1776年)と合衆国憲法(1787年)を混同しないことも大切です。前者は独立とその理由を述べる文書、後者は政府の仕組みを定める文書です。
次に読む
- アメリカ独立革命の原因・戦争・独立:最初の抗議からパリ条約までの全体像をつかめます。
- 独立宣言の署名者と日付:だれがいつ署名したのか、よくある誤解も含めて確認できます。
- ボストン茶会事件(1773年):本国と植民地の対立が一気に深まった事件を扱います。
- アメリカ独立革命と女性たち:宣言の約束から外された女性たちが、革命をどう生きたかを知ることができます。