アメリカ独立革命とは?5分でわかる全体像
アメリカ独立革命とは、北アメリカの大西洋岸にあったイギリスの13植民地が本国の支配から離れ、アメリカ合衆国をつくった一連のできごとです。1763年以降の課税をめぐる対立から始まり、1775年4月に武力衝突へと発展しました。1776年7月4日に独立宣言を発表し、1783年のパリ条約でイギリスに独立を認めさせて終わります。戦争の部分だけを指して「アメリカ独立戦争」と呼ぶこともあります。
歴史の授業では、1765年の印紙法をめぐる騒ぎから1783年の講和までを、ひとまとまりの「革命」として扱うことが多いです。戦争そのものは1775年から1783年まで続きましたが、大きな戦闘は1781年のヨークタウンの戦いが最後でした。
この革命が大切だといわれる理由は3つあります。まず、アメリカ大陸の植民地がヨーロッパの帝国から独立したのは、これが初めてでした。次に、自然権や「人民の同意にもとづく政府」といった啓蒙思想の考え方を、実際の国づくりの文書に書きこみました。そして、アメリカを支援したフランスは大きな借金を抱え、それが1789年のフランス革命のきっかけの一つになります。1700〜1918年の世界史の中で見ると、アメリカ独立革命は「革命の時代」の幕開けにあたるできごとです。
原因:七年戦争の勝利と「代表なくして課税なし」
独立のきっかけは、意外にもイギリスの勝利でした。七年戦争(1756〜1763年)は、北アメリカではフレンチ=インディアン戦争と呼ばれ、現地では1754年から戦いが始まっていました。イギリスはこの戦争に勝って、フランスをカナダやミシシッピ川以東の土地から追い出します。しかしそのぶん、巨額の借金と、広くなった領土を守る費用を抱えることになりました。そこでロンドンの政府は「戦争でいちばん得をしたのは植民地なのだから、防衛費の一部は植民地に負担してもらおう」と考えます。
こうして、次のような法律が次々に出されました。
- 1763年の国王宣言:アパラチア山脈より西への移住を禁止し、新しい土地を求める植民地の人々の反発を招きました。
- 砂糖法(1764年):糖蜜などの輸入品にかかる関税と、その取りしまりを強めました。
- 印紙法(1765年):新聞や法律文書、トランプなどに印紙を貼らせる、植民地への初めての直接税です。暴動や不買運動、印紙法会議での抗議によって1766年に撤廃されましたが、本国議会は同時に宣言法を出し、植民地に対してどんな法律でも定められると主張しました。
- タウンゼンド諸法(1767年):ガラス・塗料・紙・鉛・茶の輸入に関税をかけました。不買運動により1770年に撤廃されましたが、茶の税だけは残りました。
- 茶法(1773年):東インド会社が植民地で茶を安く売れるようにした法律です。茶の税はそのまま残されました。
税の金額そのものは、それほど大きくありませんでした。問題は原則です。植民地の人々は自分たちの議会を選んでいましたが、イギリス本国の議会には代表を一人も送っていません。だから「本国の議会には、私たちに課税する権利はない」と主張しました。これをひとことで表した合言葉が「代表なくして課税なし」です。一方、イギリス側は「議会は、投票権があるかどうかにかかわらず、帝国のすべての臣民を代表している」と考えていました。どちらも譲らず、溝は深まっていきます。
対立は港町ボストンで暴力に変わりました。1770年3月5日、イギリス兵が群衆に発砲して5人が亡くなります。これがボストン虐殺事件です。さらに1773年12月16日、先住民のモホーク族に変装した人々をふくむ住民たちが東インド会社の船に乗りこみ、300箱以上の茶を海に投げ捨てました。これがボストン茶会事件です。
抗議から戦争へ(1774〜1776年)
イギリス議会は茶会事件への罰として、1774年に強圧的諸法(植民地側の呼び名は「耐えがたき諸法」)を定めました。茶の代金が支払われるまでボストン港を閉鎖し、マサチューセッツの自治も制限する内容です。ところが、ボストンを孤立させるはずだったこの法律は、逆に植民地どうしを団結させました。1774年9月、12の植民地の代表がフィラデルフィアに集まって第1回大陸会議を開き、イギリス製品の不買を決めました。
1775年4月19日、イギリス軍はボストンからコンコードへ向かい、民兵がたくわえていた武器を押さえようとしました。これを迎え撃った民兵との間で、レキシントンとコンコードで戦闘が起こります。これが独立戦争の始まりです。5月には第2回大陸会議が開かれ、6月にはヴァージニア出身のジョージ・ワシントンが、新しくつくられた大陸軍の総司令官に選ばれました。同じ年の6月17日のバンカーヒルの戦いでは、イギリス軍がボストンを見下ろす丘を奪いましたが、大きな損害を出しています。
それでもこの時点では、国王ジョージ3世と和解したいと考える人がまだ多くいました。流れを変えたのは、1776年1月に出たトマス・ペインの小冊子『コモン・センス』です。「小さな島が大きな大陸を支配し続けるのはおかしい」「そもそも王はいらない」と、だれにでもわかる言葉で訴え、広く読まれました。7月2日、大陸会議は独立を決議し、7月4日に独立宣言を採択します。おもに起草したのはトマス・ジェファソンです。宣言はロックなどの啓蒙思想家の考えをもとに、人には生命・自由・幸福追求の権利があること、政府の権力は人民の同意から生まれること、そしてその権利をこわす政府は人民が改めたり取りかえたりできることを述べました。
独立戦争の流れ(1775〜1783年)
戦力だけを比べれば、イギリスのほうが有利でした。世界最強の海軍と訓練された陸軍があり、ドイツのヘッセン=カッセルなどから雇った兵士(ヘッセン兵)もいました。これに対して植民地側は、お金も、長く戦える兵士も足りず、大陸会議には税を集める力もありませんでした。しかしイギリスは、海の向こうで広い土地を押さえ、分かれた住民の心をつかまなければなりません。住民は、独立を支持する愛国派、国王に忠実な国王派(忠誠派)、そしてどちらにもつかない人々に分かれていました。
ワシントンは1776年にニューヨークを失いましたが、軍を守りぬき、同じ年の12月26日にはデラウェア川を渡ってトレントンを奇襲し、士気を取りもどしました。転換点は1777年10月のサラトガの戦いです。ニューヨーク植民地でイギリスのバーゴイン将軍が軍ごと降伏し、フランスは「植民地側は勝てる」と判断しました。1778年2月、フランスはアメリカと同盟条約を結び、資金・兵士・艦隊を送ります。1779年にはスペインがフランスの同盟国としてイギリスと戦い始め、1780年末にはオランダも戦争に巻きこまれました。同じ1780年、ロシアのエカチェリーナ2世が武装中立同盟を呼びかけて中立国の船を守ろうとしたため、イギリスは外交の面でも孤立していきます。
大陸軍は1777〜1778年の冬、バレーフォージで寒さと物不足に苦しみながらも、プロイセン出身の軍人シュトイベンの訓練で力をつけました。その後、イギリス軍は南部に重点を移し、サバンナやチャールストンを占領します。1781年、コーンウォリス将軍はヴァージニアのヨークタウンに陣を構えましたが、ド・グラス提督のフランス艦隊が海からの援軍を断ち、ワシントンとロシャンボー伯の米仏連合軍が陸から包囲しました。10月19日、コーンウォリスは降伏します。
ヨークタウンですぐに戦争が終わったわけではありませんが、イギリスはアメリカで戦い続ける意欲を失いました。パリでの交渉の結果、1783年9月3日にパリ条約が結ばれ、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めるとともに、アパラチア山脈からミシシッピ川までの土地もゆずりました。
結果と影響:合衆国の誕生と世界への広がり
独立しても、どんな国にするかはまだ決まっていませんでした。最初の国の枠組みである連合規約(1781年発効)は中央政府の力が弱く、税を集めることもできませんでした。借金や社会の混乱が続いたため、1787年にフィラデルフィアで合衆国憲法がつくられます。州と連邦が権限を分け合う連邦主義と、立法・行政・司法の三権分立を定めた憲法で、1788年に発効しました。1789年にはワシントンが初代大統領となり、1791年には権利章典(最初の10か条の修正)が加わりました。
ただし、革命の約束がすべての人に届いたわけではありません。独立宣言は「すべての人は平等につくられている」とうたいましたが、新しい国でも奴隷制は続きました。愛国派の主人から逃げてイギリス側につき自由を得た奴隷や、大陸軍で戦った黒人もいて、北部のいくつかの州は奴隷制の廃止に動き始めましたが、南部では残りました。入植者の西への広がりを止めようとしてイギリス側についた先住民の多くは、後ろだてを失い、土地を奪われていきます。また、数万人の国王派がカナダやイギリス、カリブ海へ移り住みました。
世界への影響も大きなものでした。フランスは戦費で財政がさらに苦しくなり、ルイ16世は1789年に三部会を開かざるをえなくなります。これがフランス革命の始まりです。また、「植民地が独立を宣言し、自分たちで憲法をつくることができる」という前例は、ハイチやラテンアメリカの独立運動にも影響を与えました。
試験に出るポイント
共通テストでは、戦いの細かい経過よりも、原因と結果のつながりや、できごとの順番がよく問われます。次の点を押さえておきましょう。
- 七年戦争の借金 → 1763年以降の課税強化 → 「代表なくして課税なし」という反発、という因果関係。
- 年代の順番:印紙法(1765年)→ボストン茶会事件(1773年)→第1回大陸会議(1774年)→レキシントン・コンコードの戦い(1775年)→独立宣言(1776年)→サラトガの戦い(1777年)→フランス参戦(1778年)→ヨークタウンの戦い(1781年)→パリ条約(1783年)→合衆国憲法の制定(1787年)。
- 人物と作品・役割の組み合わせ:トマス・ペイン=『コモン・センス』、ジェファソン=独立宣言の起草、ワシントン=大陸軍総司令官・初代大統領。
- 独立宣言とロックの思想(自然権・抵抗権)のつながり。
- 国際関係:フランス・スペイン・オランダの参戦と、エカチェリーナ2世の武装中立同盟。
- 合衆国憲法の特徴:連邦主義と三権分立(モンテスキューの影響)。
- 「パリ条約」は1763年(七年戦争の講和)と1783年(アメリカの独立承認)の2つがあるので、年で区別しましょう。
次に読む
- 啓蒙思想:独立宣言の背景にある、ロックの自然権やモンテスキューの三権分立の考え方がわかります。
- フランス革命(1789〜1799年):アメリカの戦争を支えたフランスで、次の大きな革命がどう始まったのかをたどれます。
- 1700〜1918年の世界史:革命・産業・帝国・戦争:「革命の時代」全体の流れと、アメリカ独立革命の位置づけを確認できます。