5分でわかるヴィクトリア朝
ヴィクトリア朝とは、ヴィクトリア女王がイギリスを治めた1837年6月20日から1901年1月22日までの時代のことです。女王は18歳で即位し、在位は63年7か月におよびました。2015年にエリザベス2世に抜かれるまで、これはイギリス史上もっとも長い在位でした。「ヴィクトリア朝時代」「ヴィクトリア王朝」と呼ばれることもありますが、王家の名前ではなく、女王の在位期間をさす呼び名です。
この時代は「工業」「改革」「帝国」の三つの言葉でまとめられます。イギリスは工場と鉄道で世界をリードし、「世界の工場」と呼ばれました。国内では選挙権が少しずつ広がり、子どもが学校に通うのが当たり前になり、都市は不衛生や伝染病と戦いました。海外では植民地を広げ、1900年ごろには世界の陸地のおよそ4分の1を支配していました。一方で、児童労働、貧しい人々が暮らすスラム、アイルランドの大飢饉、各地での戦争という暗い面もありました。
このページは、FiveMinReadの「ヴィクトリア朝イギリス」の入り口となるページです。まず時代の全体像をつかみ、そこから個々の出来事や人物のページへ進めるようにしています。さらに大きな流れは世界史1700〜1918年のまとめで確認できます。
ヴィクトリア朝はいつ?時代の区切り方
ヴィクトリア朝の期間は、厳密には1837年から1901年までです。ただし、1832年の第1回選挙法改正から数える歴史家もいます。この改正で中産階級の男性に選挙権が広がり、「ヴィクトリア朝らしい」変化の多くがここから始まったと考えられるからです。女王の前は伯父ウィリアム4世の治世で、女王の死後は息子エドワード7世の時代(エドワード朝、1901〜1910年)が続きます。
時代はふつう、次の三つに分けて考えます。
- 前期(1837年〜1850年ごろ):不況と抗議、そして鉄道ブームの時代です。1840年代は「飢餓の40年代」とも呼ばれ、チャーティスト運動やアイルランドの大飢饉が起こりました。
- 中期(1850年ごろ〜1870年代):1851年のロンドン万国博覧会で幕を開けた、繁栄と自信の時代です。19世紀のイギリスの力による平和は「パクス・ブリタニカ」と呼ばれ、この時期がその絶頂でした。
- 後期(1870年代〜1901年):ドイツやアメリカが工業で追い上げ、イギリスの優位がゆらぎ始めます。選挙権の拡大、初等教育の普及、アフリカやアジアでの植民地獲得競争が進みました。
背景:女王が受け継いだ19世紀イギリス
ヴィクトリアが即位したとき、イギリスはすでに産業革命によって大きく変わっていました。蒸気機関、綿工業、炭鉱が発達し、人々は農村からマンチェスターなどの工業都市へ移っていました。1815年にはナポレオンとの戦争に勝ち、海の支配も握っていました。1832年の第1回選挙法改正で中産階級の男性が選挙権を得て、1833年には帝国の大部分で奴隷制が廃止されていました。新しい富と都市が生まれる一方で、多くの労働者には選挙権も保護もありませんでした。女王は、そんな変化と緊張の時代に即位したのです。
当時のイギリスは立憲君主制で、政治を動かしたのは首相と議会でした。女王の役割は、政治を決めることよりも、国の「象徴」としての意味が大きかったといえます。1840年のアルバート公との結婚、9人の子ども、そして1861年にアルバートが亡くなったあとの長い喪の生活は、まじめで家庭を大切にする「品行方正な時代」というイメージをつくりました。「ヴィクトリア朝的」という言葉が今も厳しい道徳を思わせるのは、このためです。
何が起きたか(1):鉄道・万博・都市の成長
この時代をいちばんよく表すのが鉄道です。1840年代には「鉄道熱」と呼ばれる投資ブームが起こり、国じゅうに線路が敷かれました。列車は石炭や商品、新聞を運び、ふつうの人々も日帰り旅行に出かけられるようになりました。土地ごとにばらばらだった時刻が、鉄道の時刻表に合わせてそろえられていったのもこの時代です。1863年には、世界初の地下鉄がロンドンで開通しました。
1851年には、ロンドンのハイドパークで第1回万国博覧会が開かれました。会場は、鉄とガラスでできた巨大な建物「水晶宮(クリスタル・パレス)」です。アルバート公が開催を強く後押しし、入場者はのべ約600万人にのぼりました。万博は、イギリスの工業力を世界に見せる場となりました。1846年の穀物法廃止と1849年の航海法廃止で自由貿易が進み、ロンドンは世界の貿易と金融の中心になりました。
その一方で、都市は計画が追いつかないほどの速さで大きくなりました。イングランドとウェールズの人口は、1841年から1901年までのあいだにほぼ2倍になります。スラムは不潔で、コレラがたびたび流行しました。1854年、医師ジョン・スノウは、ロンドンのソーホー地区での流行の原因を一つの井戸ポンプにつきとめました。1858年にはテムズ川の悪臭が議会にまで届く「大悪臭」が起こり、その後、技師ジョゼフ・バザルジェットがロンドンに近代的な下水道を整えました。1848年の公衆衛生法や、女性と子どもの労働時間を制限した工場法を見ると、国がふつうの人々の暮らしに責任を持ち始めたことがわかります。
何が起きたか(2):選挙法改正と二大政党
ヴィクトリア朝の政治は、革命ではなく少しずつの改革で進んだのが特徴です。1848年にヨーロッパ各地で革命が起きたとき、イギリスでもチャーティスト運動がロンドンで大集会を開き、男性の普通選挙などを求める請願を出しました。政府はこれを受け入れず、運動はしだいに衰えました。それでも、その要求の多くはのちに実現していきます。
後半の政治をリードしたのは、自由党のグラッドストンと保守党のディズレーリという二人のライバルです。二つの政党が交代で政権を担う二大政党制が、この時代に定着しました。1867年の第2回選挙法改正では、ディズレーリが下院で法案をまとめ、都市の労働者の多くが選挙権を得ました。1884年の第3回選挙法改正(グラッドストン内閣)では、農村や鉱山の労働者の多くにも選挙権が広がりました。1870年の初等教育法で全国に学校がつくられ、1871年には労働組合が法的に認められ、1872年には秘密投票が始まりました。女性はまだ国政選挙で投票できませんでしたが、1882年の既婚女性財産法によって、結婚後も自分の財産を持てるようになりました。1900年には、のちの労働党につながる組織も生まれています。
何が起きたか(3):大英帝国の拡大と戦争
海外に目を向けると、ヴィクトリア朝は帝国の時代でした。イギリスはアヘン戦争(1840〜42年)で清を破って香港を手に入れ、アロー戦争(1856〜60年)で中国への進出をさらに強めました。1853〜56年のクリミア戦争では、フランスやオスマン帝国と組んでロシアと戦いました。このとき看護師ナイチンゲールが、負傷兵の看護を改善したことで知られるようになりました。
1857年のインド大反乱(シパーヒーの反乱)をきっかけに、1858年に東インド会社が解散し、インドはイギリス政府が直接治めるようになりました。1875年にはディズレーリがスエズ運河会社の株を買い取ってインドへの道を確保し、1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立しました。後期には、ヨーロッパ諸国とともにアフリカ分割に加わります。そして時代の終わりには南アフリカ戦争(ボーア戦争、1899〜1902年)が始まり、女王はその終わりを見ることなく亡くなりました。帝国主義の動機と、それが各地に残した傷については帝国主義のページでくわしく扱っています。
日本とのつながりも見ておきましょう。1858年には日英修好通商条約が結ばれ、1872年には岩倉使節団がイギリスを訪れて、工場や鉄道を見学しました。明治の日本にとって、ヴィクトリア朝のイギリスは近代化の手本の一つでした。
思想と文化:品行方正と進化論、そして小説
ヴィクトリア朝の人々が大切にしたのは、勤勉、自助(自分の力で身を立てること)、義務、そして世間体でした。信仰心の強い人が多く、慈善活動や海外での布教も盛んでした。ところが同じ時代に、ダーウィンが『種の起源』(1859年)を発表し、生物は自然選択によって進化してきたと論じました。この本は、宗教と科学のあり方をめぐる激しい論争を呼びました。
文化の主役は小説でした。ディケンズは貧困や借金、出世の夢を描きました。シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』(1847年)は、貧しい家庭教師が自分の価値をゆずらずに生きる物語です。ジョージ・エリオットやトマス・ハーディも、階級やお金が人の一生をどう左右するかを書いています。当時の空気を知るには、小説がいちばんの窓になります。ディケンズの『大いなる遺産』は、貧しい少年が紳士になることを夢見て、その代償を知っていく物語です。
「ヴィクトリア朝的」という言葉は、今では厳しい道徳や堅苦しさの意味で使われがちです。しかし実際には、家庭を美徳としてたたえる社会が、児童労働や過酷な救貧院、広がる貧困を抱え、そのことを激しく議論していた時代でもありました。
結果:ヴィクトリア朝が残したもの
- 近代的な国家のしくみ:公衆衛生、工場の監督、すべての子どもへの初等教育など、国が暮らしを支える体制ができました。
- 民主政治の広がり:1884年の改正のあと、成人男性のおよそ6割が投票できるようになりました。女性の参政権は20世紀に持ちこされます。
- インフラ:鉄道、下水道、電信、そして1840年の切手「ペニー・ブラック」から始まった安い郵便制度です。
- 世界に広がる帝国:国境、言語、貿易、紛争など、アジアやアフリカに長く続く影響を残しました。
- 新しいライバル:1901年までにドイツとアメリカが工業力で追いつき、この競争が第一次世界大戦(第1次世界大戦)へつながる緊張を生みました。
同じころヨーロッパ大陸で起きていた革命や国民国家の誕生は、19世紀ヨーロッパのページで整理しています。
試験に出るポイント
共通テストや大学入試では、19世紀イギリスは「自由主義的な改革」と「帝国の拡大」の両方から問われます。次の点を押さえておきましょう。
- 自由貿易への転換:穀物法廃止(1846年)と航海法廃止(1849年)。
- 選挙法改正:第1回(1832年、中産階級)、第2回(1867年、都市労働者)、第3回(1884年、農村・鉱山労働者)で、だれが選挙権を得たかのちがい。
- 二大政党制:自由党のグラッドストンと保守党のディズレーリ。
- チャーティスト運動:人民憲章(1838年)で男性普通選挙などを求めた運動。
- 第1回万国博覧会(1851年、ロンドン):「世界の工場」としての繁栄の象徴。
- 帝国の拡大:アヘン戦争、インド大反乱と東インド会社解散(1858年)、スエズ運河会社株の買収(1875年)、インド帝国成立(1877年)。
記述問題では、次の流れで説明できると強い答えになります。工業化は富と社会問題を同時に生み、その社会問題が国内の改革をうながしました。そして市場と力を求める動きが、海外での帝国の拡大につながりました。
次に読む
- 世界史1700〜1918年:革命・産業・帝国・戦争:産業革命から第一次世界大戦まで、この時代をふくむ大きな流れをつかめます。
- 19世紀ヨーロッパ:革命・ナショナリズム・統一:イギリスが改革を進めていたころ、大陸で何が起きていたかがわかります。
- 帝国主義とは:イギリスとライバル国がなぜ帝国を築き、何を残したのかを学べます。
- 『大いなる遺産』:階級、お金、野心を描いたヴィクトリア朝の小説です。