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三国同盟は、1882年に成立したドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの防衛的な同盟です。対する三国協商は、英仏露の3か国が1907年までに結んだ一連の協定が積み重なってできた、ゆるやかな提携です。第一次世界大戦では両者が対立しましたが、イタリアは途中で立場を変えました。三国同盟と三国協商の覚え方を軸に、成り立ち、1914年の流れ、試験で問われる点を順に整理します。くわしい背景は1700〜1918年の世界史学習ガイドでも確認できます。
三国同盟と三国協商の覚え方
ここでは語呂合わせではなく、略称と位置で覚える方法を紹介します。次の三つのステップで整理してください。
- 略称で覚える。三国同盟は「独(ドイツ)・墺(オーストリア=ハンガリー)・伊(イタリア)」、三国協商は「英(イギリス)・仏(フランス)・露(ロシア)」です。教科書や参考書でもよく使われる略称なので、まずはこの六文字を書けるようにしましょう。
- 地図の位置で覚える。同盟は、ヨーロッパの中央と南に固まったまとまりです。協商は、西のイギリス、フランスから東のロシアへ伸びる線のような並びです。「中央の塊」と「東西に伸びる列」と結びつけると、区別しやすくなります。
- イタリアの例外を覚える。イタリアは同盟の一員として始まり、1915年に協商側へ移りました。1915年より前にイタリアを協商の一員として扱う選択肢は誤りです。
三国同盟のはじまり
三国同盟は、1879年に結ばれたドイツとオーストリア=ハンガリーの同盟を土台にしています。1870〜71年の普仏戦争でフランスは敗れ、アルザス・ロレーヌをドイツ帝国に譲りました。この敗北はフランス国内に長く恨みを残し、その後のヨーロッパ外交を大きく左右しました。ドイツの宰相ビスマルクは、1870年代から80年代にかけて、他の大国をドイツとの条約で結びつけ、フランスを孤立させようとしました。
イタリアが1882年に加わったのにも、フランスとの関係が影響していました。1881年にフランスがチュニジアへの進出を強めると、北アフリカに関心を持っていたイタリアは取り残された形となり、新しい提携先を探しました。三国同盟は1882年5月に結ばれ、加盟国が攻撃を受けた場合に支え合うという、防衛的な考え方を基本にしました。くわしい条文は、戦後まで公表されませんでした。
ただし、同盟は決して安定したものではありませんでした。イタリアは、オーストリア=ハンガリーが支配していたトレンティーノやトリエステなど、イタリア人が多く住む地域に関心を持っていました。同盟国どうしでも利害が食い違っていたため、三国同盟は強い信頼で結ばれた関係というより、利害の一致による提携だったといえます。
ビスマルクは、ロシアをドイツ側につなぎとめる努力もしました。1887年にはドイツとロシアが秘密の再保障条約を結びます。しかし1890年にビスマルクが退任すると、ドイツはこの条約を更新しませんでした。ロシアはその後フランスへ近づき、これが三国協商の土台になっていきます。
協商が生まれた背景
イギリスは長いあいだ、大陸の国と固い同盟を結ばない方針をとっていました。これは「光栄ある孤立」と呼ばれる外交の考え方です。しかし19世紀末から20世紀初めにかけて、ドイツが海軍を大きく増強すると、イギリスにとって安全保障を見直す必要が生まれました。ロシアとフランスも、ドイツの勢力拡大を警戒していました。
協商は、対立していた国どうしが個別に問題を解決していく過程で形になりました。イギリスとフランス、イギリスとロシアは、それぞれ長く続いていた植民地上の対立や勢力圏をめぐる争いを、交渉によって調整しました。こうして生まれた了解が、やがて三国協商という名前でまとめられていきます。
三国協商の成り立ち
三国協商は、ひとつの条約ではなく、三つの協定が重なってできたものです。
- 露仏同盟(1894年):フランスとロシアが、ドイツから攻撃を受けた場合に助け合うことを決めました。三国のなかで、正式な軍事同盟にあたるのはこれだけです。
- 英仏協商(1904年):イギリスとフランスが、主にエジプトとモロッコをめぐる対立を解決しました。
- 英露協商(1907年):イギリスとロシアが、ペルシア、アフガニスタン、チベットをめぐる対立を調整しました。一般に三国協商は、この協商によって完成したと位置づけられます。
「協商」は了解や協調を意味します。三国協商は、同盟のように三国がまとめて防衛を約束する条約ではなく、二国間の了解が重なって生まれた関係でした。この違いは、試験でもよく問われます。
1914年に何が起きたのか
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリーの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエボで暗殺されました。オーストリア=ハンガリーはセルビアを非難し、7月28日にセルビアへ宣戦しました。ロシアはセルビアを支援するために動員を始めます。ドイツはロシアに宣戦し、続いてフランスにも宣戦しました。ベルギーに侵入したことで、イギリスも参戦します。
同盟と協商の網の目によって、ひとつの地域の紛争が、ヨーロッパ全体の戦争へと広がっていったのです。
イタリアはなぜ最初は参戦しなかったのか
イタリアは、三国同盟が防衛のための同盟であり、戦争を始めたのはオーストリア=ハンガリーだと主張しました。そのため1914年8月に中立を宣言し、同盟国の側には加わりませんでした。
その後、イタリアは1915年に立場を変えます。4月にはロンドン秘密条約によって、イギリス、フランス、ロシアと、参戦の見返りに領土を得る約束を交わしました。同年5月にはオーストリア=ハンガリーに宣戦し、三国同盟は実質的に機能しなくなりました。
なぜ同盟と協商が大きな意味を持ったのか
多くの歴史学者は、同盟と協商の網の目を、ナショナリズム、軍備拡張、帝国主義の対立とともに、第一次世界大戦の長期的な原因のひとつとみなしています。同盟は、もともと攻撃を思いとどまらせるための仕組みとして作られた面がありました。
しかし、各国が味方の支援を当てにしていたため、ひとつの衝突がほかの大国を巻き込みやすくなったという問題がありました。同盟が増えて網の目が広がるほど、紛争がつながり、広がりやすくなったのです。
押さえておきたい用語
- 三国同盟:1882年に成立した、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの防衛的な同盟。
- 三国協商:英仏露の3か国による、複数の協定からなる提携。
- 独墺同盟:1879年に結ばれた、ドイツとオーストリア=ハンガリーの同盟。
- 再保障条約:1887年にドイツとロシアが結んだ秘密の条約。
- 露仏同盟:1894年に正式に結ばれた、フランスとロシアの軍事同盟。
- 英仏協商:1904年に結ばれた、イギリスとフランスの植民地問題の解決を柱とする協商。
- 英露協商:1907年に結ばれた、イギリスとロシアの対立を調整した協商。
- ロンドン秘密条約:1915年4月にイタリアと英仏露のあいだで結ばれた、参戦と領土の約束。
間違えやすいポイント
- 協商を「同盟」と呼ばないこと。協商は防衛条約ではなく、複数の協定による了解の集まりです。
- ロシアを三国同盟に入れないこと。ロシアは三国協商の一員です。ドイツとの再保障条約は1890年に更新されず、ロシアが三国同盟に加わったことはありません。
- 1907年を協商の始まりと考えないこと。1907年は協商が完成した年で、露仏同盟(1894年)と英仏協商(1904年)がそれより前に結ばれていました。
- イタリアの1914年と1915年を同じ判断として扱わないこと。1914年の中立と1915年の参戦は、別の判断です。
試験に出るポイント
三国同盟と三国協商は、次のような形で問われやすいです。
- 加盟国:どの国がどちらのグループに属したかを問う問題。略称で確認しましょう。
- 年代の順序:1879年、1882年、1894年、1904年、1907年、1914年、1915年の出来事を並べ替える問題。
- イタリア:イタリアが最初に中立を保った理由と、1915年に加わった側を問う問題。
- 原因の説明:第一次世界大戦の背景を、同盟と協商の関係から説明させる問題。
記述問題では、「同盟と協商が対立の構図をつくり、ひとつの紛争が大戦へと広がった」という流れを一文でまとめられると、得点につながりやすくなります。年代と国の組み合わせを一緒に問う形も出るため、年表と照らし合わせて確認しておくと安心です。
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